エピローグ1 春の呼び方
「紗奈」
あの日、俺の口から自然に出たその二文字は、今でも不思議だ。
思い出せないのに、呼べる。
理由を言葉にできないのに、口が勝手に形を作る。
俺は“知っている”。
でもそれは記憶じゃなくて、もっと奥の方――身体の手触りみたいなものだ。
「……なに?」
紗奈はコンビニの袋を片手に、振り返って笑った。
夕方の光の中で、その笑顔が妙に眩しい。
俺は肩をすくめる。
「呼んでみただけ」
「……呼んでみただけ、って何」
「いや、なんとなく。確認」
紗奈は袋の中から缶コーヒーを二本取り出して、俺に一本を投げてよこした。
「確認したいなら、もっとちゃんと呼んで」
「ちゃんとってなんだよ」
「“紗奈”って言うとき、あなたちょっと真面目な顔になる」
缶のプルタブを起こす指が止まった。
「……そんな顔してた?」
「してた」
即答。
その言い切りが、紗奈らしい。
俺は缶を開けて、一口飲んだ。
苦い。まだ慣れない。
「じゃあ、今度から真面目にならないように呼ぶ」
「それも違う」
紗奈は笑いながら、桜並木の下を歩き出す。
俺はその横に並んだ。
四月。
風が少し冷たいのに、空気は軽い。
「ねえ、蓮」
紗奈が俺の名前を呼ぶ。
その音が胸に落ちるたび、俺は“この人に呼ばれている”という事実だけで、なぜか息が楽になる。
「ん?」
「今日ね、役所で“名前”書いた」
「……おお」
俺はそれ以上言えなかった。
言葉にすると重くなる気がしたから。
紗奈は、何でもないことみたいに続ける。
「書けた。ちゃんと。迷わなかった」
「それは……良かった」
「うん。良かった」
紗奈は少しだけ歩幅を落として、俺の顔を覗き込む。
「蓮は?」
「俺は何?」
「書ける? 自分の名前」
俺は笑った。
「書けるに決まってんだろ」
「じゃあ、安心」
紗奈はそう言って前を向いた。
そのやり取りの途中で、俺の胸の奥がほんの少しだけ痛んだ。
自分の名前を書けることが“安心”になる――そんな経験を、俺はしたことがなかったから。
でも、紗奈はした。
そして、その安心を俺に分けてくれる。
……これが、たぶん、俺が紗奈を大切にしたい理由なんだろう。
理由は思い出せない。
でも、手触りだけは残っている。
「なあ」
「ん?」
「紗奈ってさ」
「なに?」
俺は少し迷った。
名前を呼ぶことが、昔はもっと意味のある行為だった気がして。
「……呼ばれるの、好き?」
紗奈は一瞬目を丸くして、それから小さく笑った。
「好き」
即答。
「でも、前よりは……違う」
「違うって?」
「呼ばれない日があったから」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
紗奈は軽く息を吸って、桜の枝を見上げる。
「呼ばれないって、ただ寂しいんじゃなくて……自分が自分じゃなくなるみたいで怖いの」
俺は言葉を探した。
でも見つからないまま、ただ歩いた。
紗奈は続ける。
「だからね、今は……呼ばれると嬉しい。すっごく嬉しい」
笑っているのに、少しだけ泣きそうな声だった。
俺は、無意識に手を伸ばして、紗奈の指先を軽く握った。
「……じゃあ、呼ぶ」
紗奈が俺の方を向く。
「うん」
俺は、いつもよりはっきり言った。
「紗奈」
その瞬間、紗奈の肩がほんの少しだけ震えた。
「……はい」
返事が、小さくて、でも確かだった。
俺は思った。
名前って、本当は記号じゃない。
存在を確認する合図だ。
「ここにいる」って言うための、短い呪文だ。
俺は過去を思い出せない。
でも、これから先を選べる。
そういう意味で、俺は今が好きだった。
「ねえ、蓮」
「ん?」
「明日、時間ある?」
「ある」
「じゃあさ、図書館行こ」
「図書館?」
紗奈が少し照れたように笑った。
「うん。なんか……行きたくなった」
理由は言わない。
でも俺は、その理由がきっと大切なものだと分かった。
「いいよ」
「約束ね」
「約束」
紗奈は缶コーヒーを胸の前で揺らして、笑った。
「……なんか、こういうの、幸せだね」
俺は少しだけ、真面目な顔になったかもしれない。
「……ああ」
そのまま、桜並木の下を歩く。
風が吹いて、花びらが一枚、紗奈の髪に落ちた。
俺はそれをそっと取ってやる。
「ありがと」
「どういたしまして」
その言葉のやり取りすら、なぜか“慣れている”。
知らないのに、知っている。
思い出せないのに、選べる。
俺の世界は、ようやく終わった。
そして、ちゃんと始まった。
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