第50話 君の名前を呼ぶ日
春の風は、少しだけ冷たかった。
桜はまだ咲いていない。
でも、枝の先には小さな蕾がついている。
俺はベンチに座って、
ぼんやりと空を見ていた。
特別な理由はない。
ただ、ここに来たかった。
――来たかった、という感覚だけが残っている。
名前を思い出そうとしても、
誰の名前か分からない。
大切だったはずなのに、
胸の奥に“空白”がある。
でも、不思議と苦しくはなかった。
「……あ」
背後から、声がした。
振り返ると、
見覚えのある女性が立っている。
長い髪。
少し困ったような笑顔。
初対面のはずなのに、
心臓が、強く鳴った。
「……すみません」
彼女は、少し遠慮がちに言った。
「……ここ、よく来られるんですか?」
質問は、ありふれている。
でも――
俺は、逃げなかった。
「……たまに」
それだけで、
会話は始まった。
彼女は、ベンチの端に座る。
距離はある。
でも、離れすぎてはいない。
「……変ですね」
彼女が、空を見上げて言う。
「……初めて話すのに……
前から、知ってる気がする」
胸が、きゅっと締まる。
「……俺も……
同じこと、思ってました」
それは、
嘘じゃなかった。
沈黙が流れる。
でも、
気まずくない。
彼女は、
しばらく迷うようにしてから、
小さく息を吸った。
「……あの……」
「……はい」
「……私……
少し前まで……
自分の名前が……
分からなかったんです」
世界が、
一瞬、止まった気がした。
「……でも」
彼女は、
胸に手を当てて、
続ける。
「……今は……
ちゃんと……
思い出せます」
俺は、
何も言えなかった。
言葉を出したら、
何かが壊れそうだったから。
彼女は、
俺を見て、
ゆっくり、はっきり言った。
「……佐倉紗奈、です」
その名前を聞いた瞬間。
胸の奥で、
何かが“完成”した。
記憶じゃない。
映像でもない。
選び続けた感覚だけが、
確かに戻ってきた。
俺は、
理由も分からないまま、
微笑っていた。
「……いい名前ですね」
彼女は、
少し驚いて、
それから笑った。
「……ありがとうございます」
風が、
二人の間を通り抜ける。
桜の枝が、
小さく揺れた。
彼女は、
立ち上がる前に、
最後に言った。
「……もし……
また、会えたら……」
言葉を切る。
「……そのときは……
名前、呼んでも……
いいですか?」
胸が、
静かに、でも確かに鳴った。
俺は、
立ち上がって、
答えた。
「……ああ」
そして――
自然に、口を開いた。
「……紗奈」
その呼び方に、
世界は何も言わなかった。
警告も、
修正も、
代償もない。
ただ――
彼女が、
少し目を見開いて。
それから、
泣きそうに笑った。
「……はい」
それだけで、
全部、報われた気がした。
俺は、
もう、過去を思い出さない。
でも――
これから先を、
何度でも選べる。
彼女と。
この世界で。
桜の蕾が、
一つ、開きかけていた。
それは、
やり直しじゃない。
続いていく、未来だった。
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