第48話 それでも
彼女がここにいることは、
もう“特別”じゃなくなっていた。
朝、玄関の音がして、
振り返ると彼女が立っている。
昼、窓際で本を読んでいて、
気づくと彼女が隣に座っている。
夜、眠る前に、
同じ空間で同じ灯りを見ている。
名前は知らない。
理由も知らない。
それでも――
選ばれている感覚だけは、毎日更新された。
「……ねえ」
彼女が、洗い物をしながら言った。
「……あなたって……
前から、こんな感じだった?」
「……どんな?」
「……優しい、っていうか……
距離、詰めすぎない、っていうか……」
俺は、少しだけ考えた。
「……分からない」
それは、本当だった。
でも――
嘘でもなかった。
「……でも……
今は、こうしたい」
彼女は、
その答えを聞いて、
満足そうに頷いた。
「……それなら、いい」
その“いい”が、
胸の奥に残る。
外に出ると、
世界は相変わらず彼女を曖昧に扱う。
でも、
完全に無視することは、
もうできなくなっていた。
店員が、
自然に彼女へ話しかける。
「こちらで、お待ちください」
名前は聞かれない。
でも、存在は処理されている。
道でぶつかりそうになった人が、
ちゃんと避ける。
彼女が謝ると、
相手は普通に返す。
「いえ、大丈夫です」
彼女は、
少し不思議そうに俺を見た。
「……最近……
私……
ちゃんと、いる……よね」
俺は、頷いた。
「……ああ」
それは、
世界の変化だった。
奏から、久しぶりに連絡が来た。
《観測ログ更新》
《未登録個体の存在固定値、上昇》
《理由:第三者選択の蓄積》
第三者。
俺以外の誰かが、
彼女を“選んだ”という記録。
彼女自身も、
それに気づき始めていた。
夕方、公園で、
またあの少年に会った。
膝をすりむいた、
あの日の子だ。
少年は、
彼女を見るなり、
目を輝かせた。
「……あ!
この前のおねえちゃん!」
彼女は、
驚いた顔をしてから、
ゆっくり笑った。
「……覚えてたんだ」
「うん!
ありがとうって言われて、
うれしかったから!」
その言葉に、
胸が、強く鳴る。
名前じゃない。
でも、確かな“記憶”。
少年の母親が、
自然に会釈した。
「こんにちは。
この前は、本当に……」
彼女は、
少し照れて、
頭を下げる。
その光景を見て、
分かった。
世界は、
名前じゃなく“理由”で彼女を残し始めている。
帰り道、
彼女がぽつりと言った。
「……ねえ」
「ん?」
「……もし……
私の名前……
思い出さなくても……」
一度、言葉を切る。
「……それでも……
大丈夫かもしれない……」
胸が、締めつけられる。
「……どうして?」
彼女は、
少し考えてから答えた。
「……だって……
名前がなくても……
こうして……
誰かに覚えられるって……
分かったから」
その瞬間、
スマホが震えた。
奏からの、
短いメッセージ。
《臨界点接近》
《最終ログ準備中》
俺は、
画面を閉じた。
彼女は、
俺の表情を見て、
静かに言う。
「……来るんだね」
「……ああ」
彼女は、
空を見上げた。
夕焼けが、
少しだけ滲んでいる。
「……ねえ」
「ん?」
「……最後に……
一つだけ……
お願い、してもいい?」
胸が、嫌な音を立てる。
「……なんだ」
彼女は、
俺を見て、
はっきり言った。
「……もし……
全部、終わったあと……」
少し、息を吸う。
「……私の名前……
思い出せたら……
教えて」
世界が、
静かに息を止めた気がした。
俺は、
しばらく黙ってから、
頷いた。
「……ああ」
約束は、
重い。
でも、
逃げなかった。
彼女は、
安心したみたいに、
笑った。
「……ありがとう」
その笑顔を見て、
確信する。
彼女は、
もう“守られる存在”じゃない。
選ばれて、
選び返して、
理由になった存在だ。
そして――
世界が、
最後の確認に来る。
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