第46話名前を取り戻すということ
白い光の中で、
彼女は静かに立っていた。
二つの選択肢が、
床に淡く浮かんでいる。
呼ばれる
呼ばれない
世界は、
最後まで丁寧だった。
急かさない。
脅さない。
ただ、事実だけを並べる。
《呼ばれることで、
あなたは“佐倉紗奈”として復帰します》
《失われていた記録、
記憶、関係性は、
整合性をもって再構築されます》
彼女の指先が、
わずかに震えた。
《その場合――》
声が、続ける。
《あなたが“名前を失っていた時間”は、
存在しなかったものとして処理されます》
それは、
やさしい言葉で包まれた否定だった。
俺と過ごした日々。
名前のない朝。
呼ばれなくても、ここにいた時間。
《あなたは、
“守られていた存在”に戻ります》
《再定義された関係において、
彼は――
あなたを救った人物の一人となります》
一人、という言葉が、
胸に刺さった。
彼女は、
ゆっくりと目を閉じた。
「……それって……」
静かな声。
「……私が……
“何も選ばなかった”ことになる……?」
世界は、
一拍だけ、沈黙した。
《選択は、あなたが行います》
逃げ道を、残さない。
彼女は、
目を開けて、俺を見た。
その目は、
もう迷っていなかった。
「……私……
名前を……
取り戻したいです」
胸が、ぎゅっと締まる。
でも――
彼女は、続けた。
「でも……
“戻りたい”わけじゃない」
世界の光が、
わずかに揺れた。
「私は……
名前があった頃の私も、
名前がなかった私も……
どっちも、私だから」
それは、
世界の想定外の答えだった。
《……意味を、明確にしてください》
彼女は、
深く息を吸った。
「……名前をもらうことは……
生きやすくなることだと思う」
一歩、前に出る。
「でも……
生き方を、決めることじゃない」
彼女は、
光の境界線に立った。
「私は……
“佐倉紗奈”って名前を……
“選んで持ちたい”」
世界が、
初めて、戸惑った。
《……それは……
再構築ではありません》
彼女は、頷いた。
「……はい」
そして、
はっきりと言った。
「……これは……
“再命名”です」
その言葉が、
空間を震わせた。
再命名。
世界が与える名前じゃない。
奪われて戻る名前でもない。
自分で選び直す名前。
《再命名は、
個体の自律性を
過剰に増大させます》
《存在の安定が、
保証されません》
彼女は、
少しだけ笑った。
「……安定してないのは……
もう、慣れました」
俺は、
その背中を見ていた。
止めなかった。
促しもしなかった。
ただ、
“選ぶ人”として、
彼女を見送った。
世界が、
最後の確認をする。
《再命名を行う場合――
一つ、条件があります》
光が、
鋭くなる。
《この名前を、
最初に呼ぶ存在を
指定してください》
その瞬間、
全てを悟った。
彼女は、
振り返って、俺を見た。
泣いていない。
逃げていない。
ただ、
確信だけがあった。
「……蓮」
その呼び方は、
初めて“意図を持って”呼ばれたものだった。
「……あなたに……
呼んでほしい」
心臓が、
壊れそうな音を立てた。
世界が、
低く唸る。
《……干渉者を
命名起点に指定》
《因果負荷、最大》
彼女は、
それでも、言った。
「……私が、
この名前で生きる理由を……
一番、知ってる人だから」
俺は、
喉が詰まりながら、
それでも言った。
「……本当に……
いいのか」
彼女は、
小さく頷いた。
「……はい」
光が、
収束する。
世界が、
最後の質問を投げる。
《命名する言葉を
発してください》
俺は、
震える息を吸った。
名前は、
音じゃない。
存在を、
未来に縫い留める言葉だ。
俺は、
彼女を見て、
はっきり言った。
「――佐倉紗奈」
その瞬間。
光が、
爆ぜた。
記憶が、
流れ込む。
事故。
転落。
廊下。
心臓発作。
何度も失って、
何度も取り戻そうとした名前。
でも今回は――
違う。
世界が、
確定ログを吐き出す。
《再命名完了》
《名称:佐倉紗奈》
《命名起点:蓮》
《関係:相互選択に基づく》
彼女が、
膝をついた。
俺は、
駆け寄った。
彼女は、
ゆっくり顔を上げて、
微笑った。
「……呼ばれた……」
その声は、
涙で滲んでいた。
「……ありがとう……
蓮」
俺は、
初めて、
その名前を“失わずに”聞いた。
でも――
世界は、静かに告げる。
《警告》
《因果負荷、限界値》
《干渉者・蓮に
最終代償が発生します》
胸が、
嫌な予感で満たされる。
彼女が、
俺を見る。
「……代償……?」
世界は、
冷たく、でも正確だった。
《干渉者は、
命名対象に関する
全記憶を失います》
――最初の約束が、
ここで戻ってきた。
彼女との、
全ての思い出。
名前を、
呼ぶ理由。
守ってきた時間。
全部。
彼女の目が、
大きく見開かれる。
「……そんな……!」
俺は、
ゆっくり、息を吐いた。
「……そうか」
思ったより、
静かな声だった。
世界は、
最後に告げる。
《処理を開始します》
視界が、
白くなる。
彼女の声が、
遠ざかる。
「蓮……!
蓮……!」
その声を、
忘れたくなかった。
でも――
それは、
もう、叶わない。
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