第45話 呼ばれる日
夜明け前の空は、まだ色を決めかねていた。
青にも黒にもなりきれない境目で、
街は静かに息をしている。
彼女はベランダに立って、
冷たい風を受けていた。
「……変な夢を見た」
俺はコーヒーを淹れながら、
背中越しに聞く。
「どんな?」
少し考えてから、彼女は言った。
「……誰かが……
私の名前を……
呼ぼうとしてた」
胸が、かすかに鳴る。
「……呼ばれた?」
彼女は、首を振った。
「……ううん。
呼ばれる前に……
目が覚めた」
それは、
“直前”の夢だった。
世界が、
最後の準備をしている合図。
そのとき、
俺のスマホが静かに震えた。
通知音は鳴らない。
ただ、画面だけが光る。
差出人は――
未登録。
表示されたメッセージは短かった。
《本日 19:00》
《選択の最終確認》
《呼ばれる権利の行使》
息が、詰まる。
彼女も、
俺の表情で察した。
「……来たんだね」
俺は、正直に頷いた。
「……ああ」
彼女は、少しだけ笑った。
怖がっていない笑い。
覚悟を決めた人の笑い。
「……ねえ」
「ん?」
「……もし……
今日……
私が……
呼ばれるとしたら……」
言葉を探すみたいに、
一度、視線を落とす。
「……あなたは……
どうしてくれる?」
その質問は、
答えを試すものじゃない。
一緒に立つための問いだった。
俺は、迷わなかった。
「……呼ばれても、
呼ばれなくても……
俺は、選ぶ」
彼女は、目を見開く。
「……何を?」
「……君を」
名前じゃない。
役割でもない。
“今、ここにいる彼女”。
彼女は、
その言葉を受け取って、
ゆっくり息を吐いた。
「……それなら……
大丈夫」
昼は、静かに過ぎた。
特別なことはしない。
買い物をして、
昼食を食べて、
少し昼寝をする。
普通の一日。
でも、
一つ一つが、
“最後かもしれない”重みを持っている。
夕方。
彼女は、
いつもより少しだけ、
丁寧に髪を整えた。
「……ねえ」
「ん?」
「……呼ばれるときって……
どんな感じなんだろ」
俺は、少しだけ考えてから言った。
「……多分……
“思い出す”より先に……
“選ぶ”」
彼女は、不思議そうに首を傾げる。
「……選ぶ?」
「ああ。
思い出すのは、過去だ。
でも、呼ばれるのは……
未来だから」
彼女は、
その言葉を胸の中で転がす。
「……未来、か」
19:00。
指定された場所は、
最初に“名前が削られた”あの検査室だった。
白い壁。
無音。
何もない空間。
でも、
確かに――
“世界”がいる。
光が、床に円を描く。
そして、
声が響いた。
《最終確認を開始します》
回収者ではない。
もっと無機質で、
もっと大きい声。
《対象:未登録個体》
《呼称:なし》
彼女が、
一歩前に出た。
《呼ばれる権利を行使しますか》
彼女は、
一瞬、俺を見た。
その目に、
迷いはなかった。
「……はい」
胸が、強く鳴る。
《条件を提示します》
白い光が、
彼女の足元から立ち上がる。
《呼ばれることで、
あなたは“名前”を得ます》
《同時に――
“呼ばれなかった時間”は、
全て消去されます》
息が、止まる。
それはつまり。
俺と過ごした、
名前のない日々。
迷い、笑い、
小さな奇跡を積み上げた時間。
《あなたは、
元の“佐倉紗奈”として
世界に復帰します》
《その場合――
彼との関係は、
再定義されます》
彼女が、
小さく息を吸う。
《選択してください》
光が、二つに分かれる。
呼ばれる
呼ばれない
世界は、
最後まで残酷だった。
俺は、
何も言わなかった。
言えば、
彼女の選択を歪める。
彼女は、
長い沈黙のあと、
静かに言った。
「……一つだけ……
聞いていいですか」
《許可します》
彼女は、
俺を見た。
「……もし……
私が……
呼ばれなかったら……」
声は、震えていない。
「……あなたは……
それでも……
私を……
選び続けてくれますか」
胸が、裂けそうになる。
でも、
答えは一つしかなかった。
「……ああ」
短く、
でも、はっきり。
「……呼ばれなくても……
俺は、ここにいる」
彼女は、
その言葉を聞いて――
ゆっくり、笑った。
そして、
光の前に立つ。
選択の時が、来た。
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