第44話 呼ばれなくてもここにいる
翌朝の空は、驚くほど澄んでいた。
昨日まで世界を縛っていた重さが、
嘘みたいに薄れている。
それが一時的なものだと、
俺も彼女も、なんとなく分かっていた。
それでも――
朝は来る。
キッチンでフライパンが鳴る音。
窓から入る光。
トーストの匂い。
彼女はテーブルに座って、
膝の上で指を組んでいた。
「……ねえ」
「ん?」
「今日……
名前、呼ばれなかった」
少しだけ、不安そうに言う。
俺は、卵を皿に盛りながら答えた。
「……呼ばれなくても、
ここにいる」
彼女は、その言葉を噛みしめるみたいに、
小さく頷いた。
朝食のあと、
二人で外に出た。
目的はない。
ただ、歩く。
世界は、彼女を曖昧に扱う。
店員は視線を滑らせ、
人混みは自然に彼女を避ける。
でも――
完全には、消えていない。
信号待ちで、
年配の男性が彼女に声をかけた。
「……あの、
時間、分かりますか?」
彼女は一瞬戸惑ってから、
腕時計を見る。
「……はい。
今、十時二十分です」
男性は、普通に礼を言った。
「ありがとう」
それだけ。
名前も、肩書きも、
必要なかった。
歩き出してから、
彼女がぽつりと言う。
「……少しだけ……
慣れてきた」
「……何に?」
「……呼ばれないことに」
胸が、少しだけ痛んだ。
でも、彼女は続ける。
「……でも……
それって……
消えていくこととは……
違う気がする」
「……どう違う?」
彼女は考えながら答えた。
「……呼ばれないけど……
“気づかれる”ことは、
まだ、ある」
その言葉は、
彼女自身の存在証明だった。
昼過ぎ、
公園のベンチに座る。
風が、木の葉を揺らす。
彼女は、空を見上げて言った。
「……ねえ……
もし……
このままずっと……
名前が戻らなかったら……」
俺は、遮らなかった。
「……そのとき……
あなたは……
私のこと……
どうする……?」
答えは、
ずっと決まっていた。
「一緒にいる」
彼女は、驚いた顔をした。
「……それだけ……?」
俺は、頷く。
「それだけで、
十分だ」
彼女は、
少しだけ笑って、
それから、泣きそうになった。
「……ずるい……」
「……そうかもな」
沈黙が落ちる。
でも、居心地は悪くない。
その静けさの中で、
彼女が、そっと言った。
「……私……
名前があった頃より……
今の方が……
ちゃんと、考えてる」
「……何を?」
「……自分が……
どう生きたいか」
その言葉に、
胸が熱くなる。
世界が与えた名前じゃない。
役割でも、期待でもない。
“自分で選ぶ生き方”。
夕方、
奏からメッセージが来た。
《世界の監視、低下中》
《回収者、介入を一時停止》
《理由:不確定要素増大》
俺は、スマホをしまった。
彼女は、俺の表情を見て聞く。
「……何か……
起きてる?」
俺は、正直に言った。
「……嵐の前だ」
彼女は、少しだけ笑った。
「……じゃあ……
今は……
静かに、いよう」
帰り道、
夕焼けが街を染める。
彼女は、
足を止めて、
その光を見つめた。
「……ねえ」
「ん?」
「……私……
呼ばれなくても……
ここにいる」
それは、
宣言だった。
誰にでもなく、
世界に向けた。
俺は、
その隣に立つ。
「……ああ」
その瞬間、
胸の奥で、
小さな“予感”が芽生えた。
このままでは、終わらない。
呼ばれない選択は、
いつか必ず――
“呼ばれる瞬間”を生む。
その時、
何を差し出すことになるのか。
まだ、分からない。
でも――
一緒にいる。
それだけは、
確かだった。
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