第42話 名前のない日々
朝の改札は、人で溢れていた。
急ぐ足音、アナウンス、
名前を呼ぶ声、呼ばれない声。
その中を、
彼女は俺の少し後ろを歩く。
離れすぎず、
近づきすぎず。
でも、
迷子にならない距離。
「……人、多いね」
「平日だからな」
短い会話。
それだけで、歩幅が揃う。
名前がない生活は、
思ったより不便で、
思ったより静かだった。
書類に名前を書けない。
呼ばれても返事ができない。
順番が来ても、誰の番か分からない。
それでも彼女は、
少しずつ“やり方”を覚えていった。
店では指差しで注文する。
受付では俺の後ろに立つ。
困ったら、俺を見る。
依存じゃない。
信頼だ。
昼過ぎ、
駅前の小さな公園を通りかかったときだった。
ベンチの影で、
一人の少年がしゃがみ込んでいる。
ランドセル。
膝に手を当てて、顔を歪めている。
彼女は、足を止めた。
「……どうしたんだろ」
「転んだんじゃないか」
俺がそう言うより先に、
彼女は近づいていた。
しゃがみ込み、
少年の目線に合わせる。
「……痛い?」
少年は、びっくりした顔で頷いた。
「……うん……」
彼女は、何も言わず、
自分のポケットを探る。
ハンカチ。
ティッシュ。
絆創膏。
――いつも持っている。
それを取り出して、
膝の擦り傷にそっと当てた。
「……ちょっと、しみるよ」
少年は、涙を堪えながら、
小さく「うん」と言った。
母親が、慌てて駆け寄ってくる。
「すみません!
ありがとうございます……」
彼女は、首を横に振った。
「……大丈夫です」
その声は、
名前がなくても、
はっきり“届く声”だった。
母親は、一瞬だけ戸惑った。
それから、
自然に微笑んだ。
「……本当に、助かりました」
彼女は、少し照れたように俯いた。
その瞬間。
胸の奥で、
何かが“繋がる”音がした。
奏の言葉が、頭をよぎる。
――理由は、行動で登録される。
少年は、立ち上がって、
彼女を見上げる。
「……ありがとう、おねえちゃん」
その呼び方は、
名前じゃない。
でも、
確かに“役割”だった。
彼女は、
その一言に、
少し驚いた顔をして。
それから、
ゆっくり笑った。
「……どういたしまして」
俺は、
少し離れた場所で、それを見ていた。
胸が、熱くなる。
名前がなくても、
彼女は彼女だ。
世界が忘れても、
人は覚える。
理由は、
こうして積み上がっていく。
歩き出した後、
彼女がぽつりと聞いた。
「……ねえ」
「ん?」
「さっきの子……
私のこと……
覚えてくれるかな」
俺は即答した。
「覚える」
「名前、聞いてなかったのに?」
「聞いてないからこそ、覚える」
彼女は、不思議そうに瞬きをした。
「……どういうこと?」
「名前じゃなくて、
“してくれたこと”で覚えるから」
彼女は、しばらく黙ってから、
小さく頷いた。
「……それ……
悪くないね」
その夜。
帰り道の街灯の下で、
彼女は立ち止まった。
「……ねえ」
「ん?」
少し、言いにくそうに。
「……私……
誰かに必要とされると……
安心する」
胸が、きゅっと締まる。
「……それって……
依存かな」
俺は、首を振った。
「違う」
「じゃあ……」
「それが、お前の“理由”だ」
彼女は、驚いた顔をした。
「……理由……」
「誰かに気づいて、
手を差し出して、
それで安心できる」
一歩、近づく。
「それがある限り、
名前がなくても、
お前は消えない」
彼女は、
少し考えてから、
胸に手を当てた。
「……ここ……
あったかい……」
その瞬間。
俺のスマホが、
震えた。
表示されたのは、
奏からのメッセージ。
《参照率:微上昇》
《外部ログ反応あり》
《回収者、再接近》
胸が、冷える。
彼女は、俺の表情の変化に気づいた。
「……どうしたの?」
俺は、笑った。
できるだけ、自然に。
「……なんでもない」
でも、
世界は、静かに次の手を打っている。
名前のない日々は、
確かに穏やかで、
確かに幸せで。
だからこそ――
奪われたくなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます