第41話 それでも君を選ぶ
朝の光は、残酷なほど平等だった。
カーテン越しに差し込む光が、
昨日までと同じ角度で床を照らす。
何も変わっていない。
部屋も、空気も、世界も。
変わったのは――
呼べないことだけだった。
キッチンで湯を沸かす音を聞きながら、
俺はテーブルに向かって座っている彼女を見た。
マグカップを両手で包んで、
ぼんやりと窓の外を見ている。
その横顔を見て、
胸の奥が、少しだけ痛む。
「……眠れた?」
そう聞いた。
名前を使わない質問。
彼女は少し考えてから、頷いた。
「……うん。
でも、夢を見た」
「どんな?」
彼女は首を傾げる。
「……誰かが……
私を呼んでた気がする……」
心臓が、ぎゅっと掴まれた。
「……呼び方は……覚えてる?」
彼女は困った顔をした。
「それが……
音はあったのに……
形がなかった」
それが、今の現実だった。
呼ばれた記憶は残る。
でも、名前は残らない。
俺は湯を注いだマグを差し出す。
「熱いから、気をつけて」
彼女は受け取って、
小さく「ありがとう」と言った。
その言葉が、
昨日より少しだけ自然だった。
一緒に食べる朝食。
特別じゃないパンとコーヒー。
なのに、
一つ一つの仕草が、
“初めて”みたいに新しい。
彼女はパンを齧りながら、
ぽつりと呟いた。
「……ねえ」
「ん?」
「私……
あなたといると……
不思議と落ち着く」
それは、
“関係が残っている”証拠だった。
名前も、記憶も、
説明もないのに。
「……変だよね」
彼女は苦笑した。
「知らない人の家で、
知らない人と朝ごはん食べてるのに……」
俺は、正直に答えた。
「変だよ」
彼女は少し驚いた。
「……でも」
続ける。
「変でも、間違いじゃない」
彼女は、しばらく黙ってから、
小さく笑った。
「……そう言われると……
ちょっと安心する」
それだけで、
救われる気がした。
外に出ると、
近所の人がすれ違いざまに会釈をした。
俺には向けられない視線。
彼女に向けられるのに、
“誰か”として処理されていない目。
世界は、彼女を曖昧に扱っている。
彼女も、それに気づいていた。
「……みんな……
私のこと……
見てるのに……
見てない感じ……」
声が、少しだけ震える。
俺は歩幅を合わせた。
「慣れるまで、時間かかる」
彼女は、俺を見上げる。
「……慣れたら……
どうなるの?」
その問いは、
未来そのものだった。
俺は答えを濁さなかった。
「……慣れたら、
一人でも生きられる」
彼女は、一瞬だけ立ち止まった。
「……それ……
あなたは……
望んでる?」
俺は、はっきり言った。
「望んでない」
彼女の目が、揺れる。
「……じゃあ……
どうして……?」
俺は、少しだけ考えてから答えた。
「……選びたいから」
「選ぶ……?」
「ああ。
忘れたから一緒にいるんじゃない。
覚えてるから守るんじゃない」
一歩、歩く。
「今の君を見て、
それでも一緒にいたいって、
毎日選びたい」
彼女は、何も言わなかった。
でも、
俺の袖を、そっと掴んだ。
強くはない。
離れないための、最低限の力。
それが、
“選ばれている”感覚だった。
夕方、ベンチに座って休んでいると、
子どもがこちらを見て、母親に聞いた。
「ねえ、あの人だれ?」
母親は一瞬困って、
でも曖昧に笑った。
「……お友だち、かな」
彼女は、その会話を聞いていた。
少しだけ俯いて、
それから、言った。
「……ねえ」
「ん?」
「名前がなくても……
友だちには、なれるんだね」
俺は笑った。
「なれる」
彼女は、
その言葉を胸の中で転がすみたいに、
何度か瞬きをした。
「……じゃあ……」
少し間を置いて。
「……あなたは……
私にとって……
何なんだろう」
世界が、
その答えを消した。
だから、
俺が答える。
「……今は、
“一緒に帰る人”だ」
彼女は、
その答えを受け取って、
小さく笑った。
「……それ、いいね」
名前も、肩書きもない。
でも、
確かに“関係”は積み上がっている。
その夜。
彼女が眠りにつく前、
ぽつりと呟いた。
「……ねえ……」
「ん?」
「……もし……
いつか……
私が、名前を思い出したら……」
俺は、息を吸って、答えた。
「……そのときは……
ちゃんと、呼ぶ」
彼女は安心したみたいに、
目を閉じた。
俺は、心の中でだけ、
何度も呼んだ。
失った名前を。
でも、それに縛られないように。
それでも、君を選ぶ。
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