第40話 呼ばない君へ
光が引いたあと、
世界は何事もなかったみたいに静かだった。
白い部屋は、ただの検査室に戻っている。
壁も、床も、天井も、
最初から何もなかったみたいに。
俺の腕の中には、
一人の少女がいた。
呼吸はある。
体温もある。
ちゃんと、生きている。
――なのに。
名前が、浮かばない。
喉の奥がひりつく。
声を出そうとすると、
そこにあるはずの“音”だけが抜け落ちる。
「……っ」
呼びかけたはずなのに、
ただの息になって消えた。
少女が、ゆっくり目を開く。
「……ここ……どこ……?」
その声は、間違いなく彼女のものだった。
俺の心臓が跳ねる。
でも、次の瞬間、
胸が凍りついた。
少女は俺を見て、
ほんの少しだけ首を傾げた。
「……あなた……誰……?」
世界が、きちんと仕事をした証拠だった。
名前は消えた。
関係は残るはずだった。
でも――
“関係”は、名前に寄りかかっていた部分もあった。
奏が静かに近づいてくる。
その表情は、研究者でも家族でもなく、
ただの“見届け人”だった。
「……成功よ」
成功。
その言葉が、やけに遠い。
「関係は、まだ切れていない。
ただし――“紐”が見えなくなっただけ」
俺は少女から目を離さなかった。
見知らぬ目で見られても、
体が震えても、
それでも離したくなかった。
「……大丈夫……?」
少女が、恐る恐る聞いてくる。
その言葉に、胸が締めつけられる。
ああ、そうだ。
この人は、
困っている人を放っておけない人だった。
名前がなくなっても、
そこは変わらない。
俺は、ゆっくりと笑った。
「大丈夫だ」
声が少し、掠れた。
「……少し、混乱してるだけだ」
少女は、まだ俺を警戒していた。
でも、逃げなかった。
逃げない理由が、
彼女自身にも分からないみたいに。
奏が、端末を確認する。
《名称:未登録》
《存在:安定》
《関係:残存(未言語化)》
「……未言語化、ね」
奏は小さく息を吐いた。
「言葉にできない関係。
でも、確かに“ある”」
少女が、奏を見る。
「……あなたも……知ってる人……?」
奏は少しだけ困った顔をした。
「ええ。
でも今は……
“あなたを知ってる”って言えない」
少女は、不思議そうに瞬きをした。
「……変なの」
その一言で、
胸が少し、軽くなった。
変なの。
それでいい。
俺は、彼女の前にしゃがみ込んだ。
目線を合わせる。
名前を呼ばない。
呼べない。
だから、言葉を選ぶ。
「……俺はね」
一拍、置く。
「君と……一緒にいた人だ」
嘘じゃない。
でも、全部でもない。
少女はじっと俺を見つめた。
その視線の奥で、
何かが引っかかっている。
「……一緒に……?」
「ああ」
「……どれくらい……?」
俺は答えなかった。
答えられなかった。
六度の死。
七周の時間。
それを、どう言葉にすればいい。
沈黙の中で、
少女がぽつりと呟く。
「……でも……」
「……?」
少女は胸に手を当てた。
「……あなたを見ると……
変な感じがする……」
心臓が、強く鳴った。
「……怖いわけじゃない……
でも……
知らないのに……
知らない気がしない……」
奏が、目を伏せた。
「……それが“関係”よ」
少女は、戸惑いながらも、
俺から目を逸らさなかった。
「……ねえ」
呼びかけられる。
名前なしの、呼びかけ。
「……あなたは……
私のこと……どう呼んでたの……?」
その質問は、
刃物みたいに鋭かった。
俺は、笑った。
泣きそうなのを隠すみたいに。
「……秘密だ」
少女は少し不満そうに眉を寄せた。
「……ずるい」
その言い方が、
あまりにも“彼女”だった。
俺は、胸の奥で誓う。
呼べなくてもいい。
名前がなくてもいい。
でも――
もう一度、選ばれる未来を作る。
その時。
少女が、ほんの少しだけ距離を詰めた。
「……ねえ」
俺は顔を上げる。
少女は、迷いながら、
でも確かに言った。
「……一緒に……帰ってもいい……?」
その言葉は、
世界のログには残らない。
でも。
俺の中では、
はっきり“選ばれた”。
「……ああ」
声が、震えた。
「もちろんだ」
少女は、
小さく笑った。
名前のない笑顔。
それでも――
俺が、守り続けると決めた人の笑顔だった。
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