第39話 選択権の罠
病院の夜は、静かすぎる。
昼間の喧騒が嘘みたいに、
機械音と足音だけが世界を支配している。
紗奈は俺の隣を歩きながら、
何度も小さく息を吸っては吐いていた。
選ばせる者。
その言葉が、
頭の中で何度も反響している。
奏は先導するように、
使われていない検査室の前で立ち止まった。
「ここから先は……
世界が“親切”になる」
俺は眉をひそめる。
「親切?」
奏は扉の横のパネルに手を置いた。
「“選択肢を用意してくる”という意味よ」
扉が静かに開く。
中は真っ白だった。
機材もベッドもない、
まるで何も存在しない部屋。
なのに、
確かに“何か”がいる。
声は、どこからともなく響いた。
《あなたたちは、特別です》
男でも女でもない声。
《本来、ここまで来る前に消えるはずだった》
紗奈の肩がびくっと跳ねる。
俺は一歩前に出た。
「……それで?
今度は何を差し出せばいい」
声は、穏やかだった。
《選択です》
白い壁に、
三つの文字が浮かび上がる。
名前
存在
関係
奏が小さく息を呑んだ。
「……来たわね」
声は続ける。
《一つだけ、守れます》
《残り二つは、世界が回収します》
紗奈が震える声で言った。
「……守る、って……
選べばいいの……?」
《はい》
《あなたが選んだものは固定され、
選ばれなかったものは、
“自然消失”します》
自然、という言葉が、
ひどく残酷に聞こえた。
俺は噛みしめるように言う。
「……名前を守れば?」
《関係が消えます》
「存在を守れば?」
《名前と関係が消えます》
「関係を守れば?」
一瞬、間が空いた。
《名前が消えます》
紗奈が息を詰めた。
「……それって……
“佐倉紗奈”が……?」
奏が代わりに答えた。
「消えるわ。
世界からも、記録からも、
“その名前”は完全に」
白い壁の文字が、淡く揺れる。
関係
俺の視界が、
一瞬だけ暗くなった。
関係を守れば、
名前が消える。
でも関係が残る。
名前を守れば、
紗奈は“紗奈”のまま生きられる。
でも、俺との関係が消える。
つまり――
紗奈は生きる。
ただし、俺を知らない。
声が、優しく促す。
《時間は、限られています》
《選ばない場合、
世界が代行します》
奏が歯を食いしばった。
「……代行された場合、
一番“効率のいい”選択になる」
俺は分かっていた。
存在。
それが選ばれる。
二人の関係も、
名前も、
どちらも切り捨てられる。
紗奈が、俺を見た。
その目に、
答えはもう浮かんでいた。
「……蓮……
私……」
俺は、先に言った。
「関係、だ」
紗奈の目が見開かれる。
奏が叫ぶ。
「蓮君、待って!」
でも俺は止まらなかった。
「名前は……
なくなっても、いい」
紗奈が震える。
「そんなの……
私が嫌だ……!」
俺は、紗奈を見た。
ちゃんと。
最後まで。
「でも、関係がなくなったら……
もう一度好きになれるかどうか、
分からない」
紗奈の涙が、零れ落ちた。
「名前がなくなったら……
私、私じゃなくなる……!」
俺は首を振る。
「違う」
一歩、近づく。
「名前は、呼ばれるためにある。
でも関係は……
選び続けた結果だ」
声が、少しだけ歪んだ。
「俺は……
もう一度選びたい」
紗奈を。
名前がなくても。
記憶がなくても。
紗奈は、声を失っていた。
白い部屋が、
低く唸る。
《選択を確認》
《関係――固定》
《名前――回収対象》
奏が、静かに目を閉じた。
「……始まるわ」
紗奈が、俺の服を掴む。
「蓮……
私の名前……」
俺は、笑った。
震えながら。
「大丈夫だ。
呼べなくなっても……
俺は見失わない」
白い光が、部屋を満たす。
ログが、走る。
《佐倉紗奈――名称削除開始》
紗奈が、声にならない叫びをあげた。
俺は、彼女を抱きしめた。
世界が、
彼女の名前を奪いに来た。
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