第38話 命名権の逆転

回収者が消えた後も、

廊下の空気はすぐには戻らなかった。


照明は点いたままなのに、

世界が一拍、呼吸を忘れているみたいだった。


俺は壁に手をついて、ようやく立っている。


頭が重い。

さっきまで“俺の名前”が削られかけていた感覚が、

まだ皮膚の内側に残っている。


紗奈は俺の前に立ったまま、

ゆっくり振り返った。


「……蓮、大丈夫?」


その呼び方が、今までと違って聞こえた。


ただの音じゃない。

“固定”だ。


俺は一度だけ頷いた。


「呼ばれると……戻るな」


紗奈の目が見開かれる。


「戻る?」


奏が小さく息を吸って、静かに言った。


「……そう。

蓮君、今あなたは“呼ばれて存在を補強された”」


俺は奏を見る。


「どういうことですか」


奏は端末を開き、

走り続けるログを指差した。


《命名権限:観測者 → 対象》

《干渉主従:反転》

《存在固定値:上昇》


「さっきまで、

蓮君が“名前を与える側”だった。

でも今は違う」


奏は紗奈を見た。


「紗奈が、あなたを呼んだ。

それも“理由を伴って”。」


紗奈は戸惑ったまま言う。


「……ただ……

守りたかっただけで……」


奏は首を振る。


「それが理由よ。

“生かされた存在が、生かした存在を呼ぶ”。

この条件を満たすケースは、

理論上ほぼ存在しない」


俺は胸の奥がざわつくのを感じた。


「じゃあ……

俺と紗奈の関係は……?」


奏は一拍置いてから答えた。


「対等になった」


その言葉は、

救いでもあり、呪いでもあった。


奏は続ける。


「今までは、

蓮君が一方的に失って、

一方的に守っていた」


俺の記憶。

紗奈の生存。

天秤は常に傾いていた。


「でも今は違う。

紗奈が蓮君の存在を“保持”している」


紗奈は慌てて言う。


「え、えっと……

それって……悪いこと?」


奏は首を横に振る。


「悪くはない。

ただし――安定しない」


俺は嫌な予感しかしなかった。


「安定しない、って……」


奏は言葉を選ぶ。


「命名権が循環し始めている。

呼ぶことで存在が補強され、

補強された存在が、また呼ぶ」


紗奈と俺を交互に見て、

はっきり言った。


「このままだと、

二人は“世界から独立した存在”になる」


沈黙。


それはつまり。


世界のルールの外側。


回収者が嫌う領域。


俺は苦笑した。


「……そりゃ、狙われるわけだ」


奏は否定しなかった。


「ええ。

回収者が引いたのは撤退じゃない。

“再計算”よ」


その言葉の重さに、

背筋が冷える。


紗奈は小さく聞いた。


「……じゃあ、私は……

蓮を呼ばない方がいいの?」


俺は即座に首を振る。


「違う」


奏も同時に言った。


「違うわ」


視線が重なる。


奏が説明した。


「呼ばないと、今度は蓮君が削られる。

でも、呼びすぎても危険」


紗奈の顔が青ざめる。


「……どっちも、駄目……?」


奏は一つだけ、確かな答えを出した。


「無意識で呼ばないこと」


俺は眉をひそめる。


「無意識?」


「名前を“使う”のではなく、

名前を“関係として扱う”」


難しい言い方だったが、

俺は少しだけ分かった。


「……呼び名じゃなくて、

繋がり、ってことですか」


奏は小さく笑った。


「さすがね。

名前はただのトリガー。

本質は“相互に選び続けているか”」


紗奈は考え込むように、

胸元を握った。


「……じゃあ……

私は……蓮を……」


俺は言った。


「考えなくていい。

選ぼうとするな。

一緒にいるだけでいい」


その瞬間、

端末のログが静かに更新された。


《存在固定値:安定》

《参照率:微回復》


奏は息を吐いた。


「……よし。

今のやり取りで、少し安定した」


紗奈はほっとしたように笑った。


だが、

その笑顔の裏で、

世界は確実に“次の手”を準備している。


奏が視線を鋭くする。


「蓮君、紗奈。

次に来るのは“奪う者”じゃない」


俺は嫌な予感を抱いた。


「……何が来るんですか」


奏ははっきり言った。


「選ばせる者」


紗奈が息を呑む。


「選ばせる……?」


奏は低く告げた。


「名前か。

存在か。

それとも――関係か」


俺は歯を食いしばった。


回収者は奪う。

だが次は、

自分たちの意思で“捨てさせる”。


それが一番残酷だと、

もう分かっていた。


紗奈が俺の袖を掴む。


「……蓮。

もし……選ばなきゃいけなくなったら……」


俺は答えなかった。


答えられなかった。


その沈黙こそが、

次の戦いの始まりだった。

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