第37話 名前を奪う者

廊下の照明が、二度、三度と明滅した。


消毒液の匂いに混じって、

“違和感”が流れ込んでくる。


人の気配じゃない。

でも、確かに“誰かがいる”。


その足音は、焦りも躊躇もなかった。

最初から、ここに来ると決めていた歩き方だ。


「……やっぱり、間に合ったか」


低い声。

乾いていて、感情が削ぎ落とされている。


俺は振り返った。


廊下の奥、非常灯の赤に照らされて立っていたのは、

見覚えのある――はずなのに、

記憶が拒絶する顔だった。


年は俺より少し上。

黒いコート。

目だけが異様に静か。


その男は、確かに俺を見て、言った。


「久しぶりだな、蓮。

七周目の干渉者」


その呼び方で確信する。


こいつは知っている。

周回を。

ログを。

俺が何度、紗奈を救ってきたかを。


紗奈の指が、俺の袖を強く掴んだ。


「……誰……?」


震える声。


男は紗奈に視線を向け、

ほんの一瞬だけ、興味深そうに目を細めた。


「まだ“残ってる”のか。

思ったより粘るな」


その言い方が、決定的だった。


奏が一歩前に出る。


「あなたね。

“名前を奪う側”」


男は軽く肩をすくめた。


「そう呼ばれてるらしい。

正確には――回収者だ」


回収。


その単語が、背骨を冷やす。


奏は睨みつける。


「あなたは世界の調整機構。

失敗した改変を“無かったこと”にする存在」


男は否定しない。


「失敗じゃない。

過剰だ」


その目が俺を射抜く。


「お前はやりすぎた。

死を回避し、記憶を削り、

ついには“名前”を固定しようとした」


一歩、近づく。


「それはもう“救済”じゃない。

世界の仕様違反だ」


俺は一歩も引かなかった。


「違反だろうがなんだろうが、

生きてる」


その言葉に、男は薄く笑った。


「だから回収する」


その視線が、紗奈に向く。


「名前はな、

存在を世界に縫い留める“釘”だ」


男は指を一本立てた。


「釘が打たれすぎると、

世界は歪む」


紗奈が息を詰める。


「……私の、名前……?」


男は頷いた。


「佐倉紗奈。

その名前は、本来ここまで残るはずじゃなかった」


奏が低く言う。


「あなたが奪ってきた名前は、

何人分?」


男は即答した。


「覚えてない。

“数える意味がない”からな」


その無感情さに、怒りが湧いた。


俺は一歩前に出る。


「じゃあ、紗奈の名前も、

同じように消すつもりか」


男は首を傾げる。


「消す?

違う。回収する」


そして、はっきりと言った。


「元々、存在しなかった未来へ戻すだけだ」


紗奈の身体が、僅かに震えた。


俺は即座に言った。


「紗奈は存在する。

ここにいる。

俺が呼んで、世界が応えた」


男は鼻で笑った。


「“干渉者の主観”だな」


そして、紗奈に向かって告げる。


「お前は“名前を持たない未来”で死ぬはずだった」


紗奈の呼吸が止まる。


「……え……?」


男は淡々と続ける。


「事故。病。事件。

どれを回避しても、

最後は“無名の死”だ」


俺の中で、何かが切れた。


「黙れ」


低い声が出た。


「名前を奪うなら、

まず俺から奪え」


男は、初めて少しだけ驚いた顔をした。


「……ほう」


「紗奈の名前は、

俺が理由を作った。

だったら、奪うなら俺の存在ごと来い」


その瞬間、

廊下の空気が圧縮された。


奏が叫ぶ。


「蓮君、下がって!」


遅かった。


男が、俺の名前を口にした。


「小野――」


その瞬間、

頭の中で“何か”が剥がれ落ちた。


視界が白くなる。


名前を呼ばれる感覚が、

奪われる感覚に変わる。


男は続けようとした。


だが――


「やめて!」


紗奈の声だった。


その叫びは、

世界のログを震わせた。


紗奈は俺の前に立ち、

泣きながら、叫んだ。


「その人の名前は、

私が呼ぶ!」


男の動きが、止まる。


奏が息を呑んだ。


紗奈は震えながら、

それでもはっきり言った。


「この人は……

私を生かした人だから!」


世界が、沈黙した。


ログが暴走する音が、

耳鳴りのように響く。


男は、初めて“苛立ち”を見せた。


「……観測者が、

名前を呼ぶ権利を得た……?」


奏が震える声で呟く。


「まさか……

紗奈が、蓮の“命名者”になった……?」


男は一歩、後ずさった。


「……そんなはずは……」


その瞬間、

端末が一斉に警告を鳴らす。


《命名権限:再構築》

《干渉者—観測者リンク:逆転》


俺の視界が戻る。


息が荒い。


紗奈が、俺を見上げていた。


泣きながら、でも、強く。


「蓮……」


その呼び方が、

世界を縫い止めた。


男は舌打ちした。


「……面白い」


そう言い残し、

廊下の闇へと溶ける。


消える直前、

振り返って言った。


「だが覚えておけ。

名前を守るということは、

必ず“別の名前”を失う」


足音が、完全に消えた。


静寂。


奏が、ゆっくり息を吐いた。


「……最悪の展開だけど、

同時に――可能性も開いた」


俺は紗奈を見る。


紗奈は、まだ俺の名前を握っているみたいに、

胸に手を当てていた。


第三段階は、始まった。


そして今――

紗奈は、もう“守られるだけの存在”じゃない。

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