第36話 失われる前に

病院の自動ドアが開いた瞬間、

消毒液の匂いが肺の奥まで入り込んだ。


息が切れて、喉が焼ける。

それでも立ち止まれなかった。


廊下の奥、ナースステーションの灯りの向こうに、

紗奈の姿が見えた。


……いや。


見えているのに、見えなくなりかけている。


そんな感覚だった。


紗奈は椅子に座っていた。

奏の向かいで、両手を膝の上に置いて。


俺に気づいて、顔を上げる。


「……蓮くん」


名前は、まだ呼ばれた。


それだけで胸が痛くなる。


奏が立ち上がった。


「間に合った?」


俺は答えず、ポケットからカードを取り出した。


色褪せた紙。

貸出カード。

朱色のインク。


《佐倉紗奈》


紗奈の目が見開かれる。


「……それ……」


「図書室に残ってた。

世界が消しきれてなかった“痕跡”だ」


奏が一歩近づき、カードを見る。


その表情が、初めて研究者じゃなくなった。


「……よく辿り着いたわね。

あそこは“初期値の墓場”よ」


紗奈が震える声で言う。


「墓場……?」


奏は頷いた。


「役目を終えた名前、

理由を失った名前、

忘れられた存在が、

最後に“形だけ”残る場所」


俺はカードを紗奈に差し出した。


「でもこれは、まだ死んでない」


紗奈は恐る恐る受け取る。


指が触れた瞬間、

彼女の肩がびくっと跳ねた。


「……冷たい」


「紙だからな」


そう言ったけど、

本当は分かっていた。


“温度のない記憶”になりかけている。


奏が端末を操作する。


画面にログが走る。


《参照率:31%》

《第二段階進行中》

《家族認識:不安定》


奏が低く言った。


「もう時間がない。

次は“母親”よ」


紗奈の呼吸が乱れる。


「……お母さん……」


紗奈は、俺を見た。


その目には、はっきりと恐怖があった。


「ねえ蓮くん……

もし……もし、お母さんが私を見て……

“誰?”って言ったら……」


その先を言わせなかった。


俺は一歩近づいて、紗奈の視線を逃がさずに言う。


「その前に終わらせる」


奏が静かに頷く。


「今からやることは一つ。

“理由”を世界に登録する」


紗奈がカードを握りしめる。


「……どうやって?」


奏は俺を見る。


「蓮君。

あなたが言葉にする。

“この名前が、なぜ必要なのか”」


俺は息を吸った。


心臓がうるさい。


失った記憶。

思い出せない場面。

でも──残っているものがある。


俺は紗奈を見る。


泣いて、笑って、震えて、それでも立っている人間。


俺は言った。


「佐倉紗奈は──

“誰かの痛みに気づいてしまう人間”だ」


奏の端末が反応する。


《ログ入力待機》


俺は続ける。


「だから放っておけない。

助けなきゃって思う。

それが正しいかどうかより先に、

身体が動く」


紗奈の目から涙が溢れる。


俺は止まらない。


「そのせいで傷つくし、

損もするし、

報われないことの方が多い」


奏が静かに促す。


「……続けて」


「それでも──

その“気づいてしまう性質”があったから、

俺は何度も助けられた」


胸が詰まる。


でも言う。


「名前は、区別のためじゃない。

呼ぶためにある。

佐倉紗奈って名前は──

“助けを呼ばれる人間”に必要だった」


沈黙。


空気が張り詰める。


奏の端末が、低く音を立てた。


《理由照合中》


紗奈が震えながら言う。


「……私……

そんな立派じゃない……」


俺は首を振る。


「立派じゃなくていい。

“そうしてしまう”ってだけでいい」


《照合率:72%》


奏が目を細める。


「……まだ足りない」


紗奈がカードを胸に押し当てて、言った。


声は小さい。

でも、確かだった。


「……私……

誰かに“ありがとう”って言われたとき……

生きててよかったって思える……」


奏の端末が反応する。


《理由追加:本人認証》


紗奈は涙を流しながら続ける。


「だから……

名前がなくなるの、怖かった……

誰にも呼ばれなくなるの……

生きてる意味が消えるみたいで……」


俺は一歩前に出て、言った。


「呼ぶよ」


紗奈が顔を上げる。


「何があっても。

世界が忘れても。

俺が忘れても……

また呼ぶ」


《照合率:89%》


奏が息を呑む。


「……あと一押し」


俺は迷わなかった。


「佐倉紗奈は──

“生きているだけで誰かの理由になる人間”だ」


静寂。


そして──


《理由登録完了》

《名前定着処理開始》

《参照率:回復中》


端末の数値が、ゆっくり上がる。


31%。

34%。

39%。


紗奈の肩から、力が抜けた。


「……あ……」


奏が微かに笑った。


「……繋ぎ止めたわね」


俺は膝が笑いそうになるのを堪えた。


でも、安心するには早い。


端末に、赤い文字が浮かぶ。


《警告:第三段階未回避》

《外部干渉の兆候》


奏の表情が引き締まる。


「……来るわ」


紗奈が震える。


「誰が……?」


奏は低く言った。


「“名前を奪えなかった側”」


その瞬間、

病院の照明が一斉に、瞬いた。


俺の背後で、

はっきりと“足音”がした。


振り返る前に、

知らない声が廊下に落ちる。


「……やっぱり、間に合ったか」


その声は、

俺の名前を、正確に呼んだ。


「久しぶりだな、蓮。

七周目の干渉者」


息が止まる。


紗奈が俺の袖を掴む。


奏が、一歩前に出た。


「……あなたが“もう一人”ね」


足音が近づく。


第三段階が、始まった。

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