第35話 初期値
屋上を降りて、階段の踊り場で息を整えた。
“過去へ行くつもりだね?”
奏にそう言われた理由は単純だ。
──紗奈の名前は、紗奈の“過去”にしかない。
世界が奪ったものを取り戻すなら、
世界が触れられない場所に潜るしかない。
俺はポケットの中にある“唯一のログ”を確認した。
薄い紙きれ。
紗奈の家で見つけた、あの古い集合写真。
俺がまだ“佐倉紗奈”を忘れていない証拠。
紗奈、小さく笑ってた。
ランドセル、似合わなかった。
前髪、曲がってた。
記憶はかろうじて繋がってる。
ただ問題は──
“俺の記憶すらもう信頼できない”ということだ。
心臓が一拍遅れたタイミングで、視界が揺れる。
それは最近時々ある“予兆”。
奏は表現した。
──干渉の代償は“記憶の裁断”
切られる順番は無作為じゃない。
まず周辺情報。
次に固有名詞。
最後に“関係”。
今、奪われているのは固有名詞の段階。
紗奈の同級生の名前が出ないのはその証拠だ。
覚悟の上だけど、笑えない。
階段を降りきる頃に、俺のスマホが震えた。
着信じゃなく、メッセージアプリでもない。
画面には見たことのない通知が浮かんだ。
《干渉記録ログを検出》
《同期元:相良奏》
一瞬で理解した。
奏が“見せる気になった”ってことだ。
ログを開く。
そこには短い文章の連なり。
《佐倉紗奈/命名時記録:存在》
《命名者:佐倉家》
《根拠:未登録》
《参照元:家族記録のみ》
《外部共有:ゼロ》
俺は息をのむ。
“根拠:未登録”
つまり、紗奈の名前には“公式な理由”がない。
だからこそ──
世界が消しに来ている。
理由がない名前は、消せる。
理由のない存在は、改変できる。
奏が言った言葉が蘇る。
──名前はアイデンティティの初期値
その初期値が空欄なら、世界は好きに書き換えられる。
俺はスマホを閉じて、病院の裏口を出た。
夜風が冷たくて、街の光がやけに遠い。
どこへ向かうかは決めていた。
正面玄関じゃなく、
タクシーじゃなく、
家でも学校でもない。
向かうのは──
“佐倉”がまだ残っている場所。
世界に触れられていない、最後の領域。
俺はポケットを確かめる。
鍵はある。
家の合鍵だ。
紗奈の家じゃない。
俺の家の鍵でもない。
俺は息を吐いて、呟いた。
「…………図書室」
紗奈が毎日通っていた、あの場所。
本じゃない。
資料でもない。
あそこには“貸出カード”がある。
名前が古い筆記で残る、世界で一番消しづらいログ。
消し忘れ。アナログの穴だ。
奏も“あそこには干渉しなかった”と言っていた。
──理由は単純。
世界が“紙”を処理するのは最も遅いから。
いつか消えるとしても、今じゃない。
俺は駆け出した。
病院の外灯を越え、
学校までの曲がり角をいくつも抜ける。
夜の通学路は異様に静かで、
背後から誰かが追ってくる気配すらあった。
けど、怖いのはそれじゃなかった。
怖いのは“思い出せなくなること”。
走りながら、俺は意図的に声に出した。
「紗奈は……本読むとき指で行をなぞる癖がある」
消したくなかった。
「休み時間、本読んでるくせに人の話ちゃんと聞いてる」
忘れたくなかった。
「本棚の一番下を覗くとき、息で髪が揺れる」
俺の声が途切れた瞬間、
胸が針で刺されたみたいに痛んだ。
一拍遅れて、心臓が跳ねた。
“裁断”が近づいてる。
俺は歯を食いしばって走った。
曲がり角を抜け、横断歩道を越え、学校が見える。
フェンス越しの静まり返った校舎。
夜に見ると異様に暗くて、
図書室の窓だけがぼんやり青い。
生徒はいない。
教師もいない。
だが──窓際に立つ人影があった。
俺は足を止めた。
ライトじゃない。
人がいる。
背が細くて、肩までの長さで、
制服の黒が風に揺れてて、
紗奈、ではなかった。
その人影がこちらを見た。
俺の名前を呼ぶ声は聞こえなかった。
でも唇ははっきり動いた。
《蓮》
次の瞬間、人影が指を一本立てた。
“近づくな”の合図でも──
“遅かったな”の合図でもなかった。
ただ一点を指していた。
図書室の奥。
貸出カードの棚のある方向。
俺は息を呑んだ。
人影はそれを指し示すと──
窓からふっと消えた。
まるで“名前を呼ばれなかった存在”みたいに。
決断は一秒で終わった。
俺は校門を越え、靴音を響かせながら校舎に向かう。
図書室の鍵は──開いていた。
誰かが“開けておいた”。
中は暗い。
けど迷わない。
一直線に、貸出カードの棚へ。
棚の一番下の段。
そこに──あった。
色褪せた白いカード。
朱色のインク。
筆圧の強い字。
《佐倉紗奈》
参照率が減っても、ここには残ってた。
世界がまだ触れてない。
理由は単純。
“紙には目的がないから”。
俺はカードを震える手で掴んだ。
その瞬間、背後で図書室の扉が“音もなく閉まった”。
振り返る。
誰もいない。
なのに、耳元で声がした。
《──名前を持ち帰るには理由がいる》
振り返れない。
振り返れなかった。
でも俺は答えた。
「理由はある」
再び声がした。
《なら言ってみろ》
俺はカードを握ったまま、言葉にした。
「紗奈は……名前を呼ばれるために生きてたからだ」
沈黙。
図書室の空気が震えたような気がした。
《名前を呼ばれる理由があるのか》
問われてる。
試されてる。
だから俺は答えた。
「誰かが困ってたら気づく。
放っておけない。
助けても見返りを求めない。
それを理由って呼ばないなら──
世界の方がおかしい。」
風が吹いた。
図書室に風なんて吹くわけないのに。
棚の紙がぱらぱらと揺れ、
一枚だけ、目の前に落ちた。
古いメモ。
そこには小さく書かれていた。
《ありがとう、さな》
子どもの字だった。
誰のものかは、もう分からない。
でもそれで十分だった。
俺はカードを胸に押し当てて言った。
「紗奈にはもう理由がある。
だから名前は渡さない。」
瞬間、図書室の灯りが点いた。
眩しい蛍光灯の下で、
カードの文字がくっきり浮かび上がる。
《佐倉紗奈》
生きてる。
まだ消えていない。
その時、スマホが震えた。
画面には一行。
《参照率:32%》
《第二段階継続/家族崩壊の前兆》
息が詰まる。
崩壊の前兆──
つまり母親の認識が崩れる始まり。
帰らなきゃいけない。
急がなきゃいけない。
俺はカードを握って図書室を飛び出した。
校舎を駆け抜け、
外に出たときには息が切れていた。
振り返ると──
窓にさっきの人影が立っていた。
顔は暗くて見えなかったけど、
唇がかすかに動いた。
《早く》
俺は頷いた。
そして全力で病院へ戻った。
“名前”を持って。
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