第33話 名前を決める権利
病院の屋上は夜風が強くて、街の光が滲んでいた。
医師や看護師に見つかれば怒られるが、
それでも奏は俺と紗奈をここへ連れてきた。
理由は一つ。
「他人に聞かれてはいけない話をするため」
金網フェンスの前で風を受けながら、
三人で円を作るように立つ。
奏が口を開いた。
「蓮君。
“名前を決める”ってことはね──
ただの呼び名の問題じゃない」
声は研究者のそれではなく、
家族に真実を告げるときの声だった。
「名前はアイデンティティの“スタート地点”。
誰かの名前を決めるってことは、
その人の人生の“初期値”を設定するのと同じ」
紗奈が小さく息をのむ。
「初期値……」
奏は頷く。
「紗奈の『佐倉紗奈』という初期値が消えるなら、
代わりに“新しい初期値”を置かなくちゃいけない」
俺は思わず聞く。
「それを俺が決めるってことですか?」
奏は迷いなく言った。
「そうよ。
決める権利は“干渉者”に移る」
干渉者=俺。
つまり俺が紗奈の初期値を決める。
それは重かった。
逃げようのない重さだった。
紗奈は自分の両腕を抱いて風に耐えながら言う。
「……ねえ蓮くん」
声は明るくしようとして明るくなりきれない。
「私、怒ってないからね?
“名前が変わる”って怖いけど……
でも、生きてるから。
死ぬより、ちゃんと怖いことがあるって思った」
その一言が、胸に刺さるほど優しい。
奏は少し間を置いてから本題に入る。
「まず、条件の確認をしましょう」
指を立てながら言う。
一つ。
新しい名前は“旧名の代わりに世界が認識するラベル”になる。
二つ。
決められるのは一度きり。
変更はできない。
三つ。
旧名が世界から完全に消える前に決めないと、
紗奈は“無名”になる。
無名──その言葉に鳥肌が立つ。
俺が聞かずにいられなかった。
「無名って……どうなるんですか」
奏は淡々と告げた。
「“存在するけど認識できない人”になる。
見えて、触れて、聞こえるけど──
名前を呼べない。
記憶に残らない。
ラベルがない存在」
紗奈が息を飲む。
「消えるわけ、じゃないの……?」
奏は首を横に振る。
「消えない。
でも“誰の人生にも登場できなくなる”」
それは死よりも孤独な未来だった。
俺は無意識に紗奈の手を握っていた。
紗奈も握り返してきた。
奏は続ける。
「一週間後、旧名の“参照率”がゼロになったとき──
自動的に無名確定。
だから蓮君は、それまでに決める必要がある」
風がビルの谷間に吹き込んで、
フェンスがわずかに軋む。
沈黙の中で、
紗奈がそっと言った。
「蓮くん」
名前を呼ばれることがこれほど苦しいとは思わなかった。
「私、怖くないって言ったの嘘。
ほんとはね……震えるくらい怖い」
紗奈の声は途切れそうだった。
「だって、“紗奈”って呼ばれたときの……
蓮くんの声が好きだったから」
それは告白より重かった。
好きという言葉がなくても伝わる、
関係の輪郭があった。
俺は深呼吸して、
はっきり言った。
「紗奈。
俺が決める。
お前が生きていける名前を」
紗奈は目を見開いたあと──
ゆっくりと笑った。
その笑顔が暗闇の中で浮かび上がる。
奏は静かに端末を開いた。
「じゃあ次は──
名前を決めるために必要な“条件”を話すわ」
画面に表示されたのは短い文。
《名前変更には“根拠”が必要》
俺は眉をひそめた。
「根拠?」
奏は説明した。
「名前はシンボル。
ただ決めたって“定着”しない」
紗奈が続けるように言った。
「……それってつまり、理由が必要ってこと?」
奏は頷いた。
「そう。
“その名前で呼ぶ理由”
“その名前で生きる理由”
“その名前で愛された理由”
そのどれかが必要」
愛された理由、という言葉で
紗奈が一瞬目を逸らした。
奏は締めのように言った。
「根拠は蓮君が作る。
意味は紗奈が受け取る。
それが成立したとき──
名前は世界に定着する」
そしてこう続けた。
「名前は“蓮君の記憶が消えない範囲”から選びなさい」
俺はハッとした。
奏が視線を俺に向けたまま言う。
「何かを思い出せないなら、
その名前は“すでに消えてる”可能性がある」
つまり──
俺が忘れている名前は使えない
紗奈が小さな声で呟く。
「……蓮くんの覚えてる私。
その中から名前を選ぶんだね」
それは優しいけど残酷な条件だった。
俺は気づいていた。
“佐倉”も“紗奈”も、
俺の中で一部は欠け始めている。
だから猶予は本当に少ない。
奏は屋上のドアに背を向けて言った。
「最後に一つ忠告」
風が奏の髪を靡かせる。
「名前を決める行為は“未来の確定”よ」
紗奈と俺が同時に顔を上げる。
奏は言った。
「名前を決めた瞬間──
その名前で生きた未来が
“確定ログ”として世界に保存される」
紗奈が震えるように聞く。
「それって……未来が変わらないってこと?」
奏は頷いた。
「そう。
名前を決めた瞬間、紗奈は“生存”が確定する」
息が止まった。
紗奈は生きる。
この世界で、俺の隣で。
ただし。
奏は小さく付け加えた。
「生存が確定する代わりに──
もうタイムリープはできない」
屋上の風が吹き抜ける。
紗奈は呆然と俺を見た。
俺は紗奈から目を逸らさなかった。
奏がもう一度確認するように言う。
「蓮君。
決めなさい。
紗奈を“生かす未来”か、
“やり直せる未来”か」
紗奈は静かに息を吸って──
まっすぐ俺を見た。
「蓮くん。私は……生きたい」
涙ではなく、決意の声だった。
俺は頷いた。
「生かす。
絶対に」
そこで屋上のドアが開いた。
看護師じゃない。
あの声の主でもない。
制服姿の、見覚えのある生徒が立っていた。
紗奈と同級生だった少女。
でも俺は、
その名前を思い出せなかった。
少女は紗奈を見て、
口をぱくぱくと動かして──
言えなかった。
「……さ……な?」
その音は途中で途切れた。
世界が名前を忘れている。
奏が端末を見る。
画面には新たな通知。
> 《参照率:41%》
《第一段階進行中/残り7日》
少女は掠れた声で言った。
「あの……あなた……誰?」
紗奈の目から涙が零れた。
存在はあるのに、
名前がない。
俺は紗奈の手を握り、
はっきり言った。
「紗奈は紗奈だ」
少女には届かない。
でも紗奈には届いた。
それで十分だった。
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