第32話 消される名前
電話が切れた直後、
鼓動が耳の内側で五月蠅いほど鳴っていた。
“紗奈の番はもうすぐだ”
あの声が頭の奥で反響する。
干渉の代償は俺の記憶だけじゃなかった。
つまり──
未来改変の負債は連鎖する
紗奈の記憶も消える。
名前ごと。
俺のせいで。
スマホを握る手が汗ばむ。
「蓮……?」
紗奈が覗き込む。
表情は不安でいっぱいなのに、
俺は何も言えなかった。
言えば現実になる。
そんな迷信じみた感覚に支配されていた。
沈黙を破ったのは──叔母の奏だった。
病室の扉が開き、急ぎ足で入ってくる。
「蓮君、紗奈、ちょっと来て」
声が硬い。研究者モード。
点滴を抜く暇もなく、看護師に任せて
俺たちは廊下に出た。
奏は歩きながら言う。
「モニターに異常。予兆がある」
紗奈が息を呑む。
「……予兆って、私の?」
奏は頷いた。
「夢の頻度、心電図、海馬の信号……全部上がってる。
これは“干渉対象の変動”の兆候」
俺は慌てて口を挟む。
「それって……紗奈の記憶が消える前兆ってことですか」
奏は立ち止まり、振り返った。
「正確には──名前から先に消える」
紗奈が青ざめる。
奏は端末を操作しながら説明した。
「記憶はラベル管理。
名前はラベルの“タイトル”。
そしてタイトルが消えると、内容は“未分類”になる」
俺は喉が締め付けられるように痛んだ。
内容が消える前に、
名前が失われる。
つまり──
紗奈が紗奈じゃなくなる。
奏は続けた。
「代償の発動順は原則二つ」
指を二本立てる。
「タイトル消失 → 内容消失、の順。
逆はない。絶対に」
紗奈は震える声で言った。
「叔母さん……私、どれくらい持つの」
その目には恐怖と覚悟が同居していた。
奏は一拍置いて答えた。
「……一週間」
紗奈は目を閉じ、小さく息を吐いた。
納得でも絶望でもなく、
それは“受容”に近かった。
俺は思わず奏に詰め寄る。
「止められないんですか!?
俺たち未来変えたんですよ!?
なんでまだ代償が──」
奏は俺を睨んだ。
研究者じゃなく家族の目で。
「“未来が変わったから”よ」
言葉の意味が理解できなかった。
奏は低く続ける。
「代償は“未来を守るための処理”じゃない。
“未来が変わった証拠”として起こる現象」
俺は言葉を失った。
未来を守るために払う代償ではなく、
未来が変わったせいで発生する“反動”。
成功した証としての喪失
紗奈も震えながら呟く。
「……じゃあ、蓮が消した私の記憶も……」
奏は静かに首を振った。
「違う。蓮君は“奪った”んじゃなくて、
蓮君の中から“消えた”。
その差が大きい」
つまり俺は加害者じゃなかった。
でも救われた気はしない。
奏は端末を閉じて言った。
「今できるのは一つだけ」
俺も紗奈も身構える。
奏が告げたそれは、想定の外だった。
「一週間以内に“別の名前”を覚えさせること」
紗奈が目を見開く。
「……別の、名前?」
奏は頷く。
「タイトルが消える前に“新しいタイトル”で上書きする。
失うのは“佐倉紗奈”というタグ。
でも“紗奈”そのものを失う必要はない」
俺は理解が追いつかずに聞く。
「それってつまり……紗奈は紗奈のままで?」
奏は肯定も否定もせずに言う。
「存在は残る。呼び方が変わるだけ。
ただし、“旧名”を覚えている人間は全員上書きされる」
紗奈の目に光が戻る。
「……蓮も?」
奏は頷いた。
「もちろん蓮君も」
つまり──
“佐倉紗奈”は未来から消滅するが、
本人は“別の名前で存在する”。
それは最悪ではなかった。
だが理不尽だった。
紗奈はゆっくりと俺を見た。
「……蓮くん。お願いがある」
その声は震えていなかった。
「私の名前、考えてほしい」
一瞬、心臓が止まった。
紗奈自身が“自分を失う準備”を始めていた。
そこで廊下の照明が一瞬だけ揺れた。
蛍光灯が震え、空気が変わる。
奏が顔を上げる。
「……来た」
俺は息を飲む。
「な、何が来るんですか」
奏の声は低く、警戒していた。
「代償は記憶だけじゃない。
“認識の削除”が先に来る」
紗奈が喉を詰まらせる。
「認識……?」
奏は端末を操作しながら告げた。
「“佐倉紗奈”という文字と音が、
世界から薄くなる。
まずは学校、データベース、SNS……」
SNSという単語に俺の背筋が凍る。
俺は即座にスマホを取り出し、
紗奈の名前を検索した。
──表示されない。
アカウントも、タイムラインも、タグも、
何一つ引っかからない。
紗奈が青ざめた。
「……消えてる」
奏が言った。
「これが“消される名前”の始まりよ」
スマホが震えた。
通知がひとつ。
紗奈:『蓮くん、今どこ?』
隣にいるのに、
SNS上では存在しない。
俺は息をするのも苦しくなった。
奏が言う。
「始まった以上、止められない。
一週間以内に“名前”を決めなさい。
蓮君、紗奈を救えるのはあなたよ」
紗奈は笑わなかった。
泣かなかった。
ただ静かに言った。
「蓮くん。
私……“誰にも名前を奪われたくない”」
その目は強かった。
俺は迷わず頷いた。
「奪わせない。
俺が決める。
その名前で生きていける未来を」
紗奈はほんの少しだけ微笑んだ。
その時──
廊下の向こうで誰かが俺たちを見ていた。
制服姿。
見覚えのある顔。
だが名前が思い出せない。
目が合った瞬間、その子は呟いた。
「──紗……な?」
聞き取れなかった。
発音が途切れていた。
奏が呟く。
「始まってる。
“発音障害”が」
名前は音から消える。
次は文字。
最後に存在認識。
その子はもう一度言おうとして、
首を傾げた。
「あれ……今、誰……?」
紗奈はその子を見つめ、
唇を噛んだ。
奏の端末がアラームを鳴らす。
“佐倉紗奈:存在参照率低下(−19%)”
そして画面の下に表示された文字。
《警告:第一段階完了》
《名前削除プロトコル進行中》
紗奈の名前は消え始めた。
一週間。
それが“タイムリミット”。
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