第28話夜が選ぶ前に

紗奈のキスの余韻がまだ残る。

蓮の心臓は高速で打ち、世界は少し遅れて動く。


夕闇は完全に落ち、屋上は夜風に満たされた。

街の光が遠く揺れ、どこかで時計が刻む音が聞こえる気がする。


──日付が変わるまで。


それは奏が告げた、干渉の代償の“猶予”。


蓮は紗奈と向き合う。

息を整えながら問う。


「……本当に、選んだ瞬間に未来が決まるのか?」


紗奈は頷かなかった。

ただ、震える声で言う。


「ログに、そう書いてあった。

 叔母さんの研究室で……何度も見た」


奏が無言で蓮を見据える。

その視線は“結果を知っている目”だ。


蓮は言う。


「じゃあ選ばなきゃいいんじゃないか?

 ずっと、今日のままでいれば──」


紗奈は首を振る。


「揺り戻しは止まらない。

 選ばなければ……“世界が選ぶ”」


その言葉と同時に、蓮の胸の奥が鋭く痛んだ。


ドクン……ッ


投稿されていない記憶が回線の向こうで軋むような痛み。

思い出せないのに、悲しみだけが先に届く感覚。


蓮は息を詰める。


「世界が選ぶって……どういう意味だ」


紗奈は目をそらした。


「未来は、修正されるんだよ。

 干渉で崩れた分だけ……“命”で帳尻をとる」


奏が淡々と補った。


「あなたか紗奈、どちらかが“今夜”消える。

 記憶じゃなく、生存として」


沈黙が屋上を満たす。


蓮は初めて、代償の重さを理解した。

記憶を奪われたのは、あくまで入口に過ぎなかった。


蓮は問いかける。


「……俺が選べば、紗奈が死ぬ可能性はある。

 俺が死ぬ可能性もある。

 でも紗奈が死ななきゃログは続く。

 俺が死ねば周回は終わる……そうなのか?」


紗奈は唇を噛む。


──蓮は理解してしまった。


干渉の本当の代償は

記憶 → 関係 → 生存

の順で崩れていく。


それでも紗奈は言った。


「ねえ蓮……一つだけ約束して」


蓮が息をのむ。


紗奈は近づき、夜に溶けそうな声で言った。


「“私のために死なないで”。

 私が蓮のために死ぬのは……もう嫌だから」


“もう”という言葉に七周分の死が滲む。


蓮は覚えていない。

でも胸が痛くて仕方がないのは、確かだった。


奏が時計を見た。


「残り、四時間」


屋上の扉が風で揺れ、小さく音を立てた。


蓮は紗奈に近づいた。

目を逸らさずに言う。


「紗奈。

 もし俺の死で未来が止まって、

 お前が生きられるなら……」


紗奈は瞬時に叫んだ。


「ダメ!」


夜空が震えるほどの声だった。


「もう蓮の死を見るのは嫌なの!

 もう嫌なの……お願い……」


涙が頬を伝う。

それはログが蓄積した悲鳴だった。


奏は静かに言う。


「紗奈。選択には“逃げ道”もあるわ」


紗奈が息を呑む。


蓮が振り向く。


奏は二人を見据えて告げた。


「二人で逃げればいい。

 選ばず、決めず、記録から外れれば──

 世界は追えない」


紗奈が震える。


「ログの外……周回の外……?」


奏は頷いた。


「その代わり、

 “未来”も“可能性”も“救済”も失う。

 ただ生きるだけの世界よ」


蓮は黙っていた。

紗奈の表情を見て、理解した。


紗奈は世界を“救いたい”わけじゃない。

ただ蓮を“失いたくない”のだ。


紗奈が蓮を見る。


「蓮……逃げよう。

 私たちだけで……」


蓮は紗奈の手を取った。


だけど次の瞬間──


ドクン……ッ!


胸に強烈な痛みが走り、蓮は片膝をついた。


紗奈が叫ぶ。


「蓮!?どうしたの!?」


奏が目を細めた。


「揺り戻しが始まったわね。

 世界が“選択を急がせてる”」


胸の奥で心臓が暴れる。

失った記憶の断片が神経を焼くように走る。


視界が歪む。

音が遠のく。


蓮は息を震わせながら声を絞り出した。


「紗奈……

 俺は……」


紗奈は必死に蓮の手を握った。


「言わないで!

 まだ決めないで!

 お願いだから──!」


蓮の痛みが突然止まる。


世界が吐息一つで静まった。


そして、背後で

スマホの通知音が鳴った。


誰のものでもない。

──世界からの通知。


スマホ画面には短いテキストが浮かんでいた。


【選択まで残り03:59:12】

【対象:相良紗奈/小野蓮】


蓮と紗奈は息を呑んだ。


そしてその下に、もう一行。


【未選択時の標準結果:紗奈の死亡】


紗奈が凍り付く。


蓮の中で何かが切れた。


痛みも、迷いも、思い出せない恋も、全部が一瞬で一点に収束する。


蓮は震える声で言う。


「……世界が、紗奈を選んだってことか」


紗奈は唇を噛んで首を振った。


「違う……違うよ……蓮……

 私、死にたくない……」


蓮はゆっくり紗奈を抱きしめた。


記憶がなくても、抱きしめ方だけは身体が知っていた。


蓮は紗奈の耳元で呟く。


「大丈夫だ。

 俺が……世界を選び直す」


紗奈の呼吸が止まった。


夜風が屋上を満たし、世界の時計が進む。


クライマックスはもう始まっていた。

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