第27話失われた名前、思い出す脈

放課後の廊下は、冬の光を透かして薄く青い。


紗奈は歩いていた。

理由もなく胸が痛いのに、理由が必要な人生をずっと生きてきたような顔で。


蓮はその背中を見つめていた。

理由もなく心臓が跳ねて、理由なんてどうでもよくなるのに。


紗奈にはまだ“ログ”がある。

蓮にはもう“記憶”がない。


それがこの周回の非対称。


蓮の胸は、干渉の代償として空洞になった──

はずだった。


だが、空洞は鼓動を続ける。


ドク、ドク、ドク──


蓮は息を飲んだ。

このリズムを知っている。

この速度、この揺れ、この“呼び名のない衝動”。


名を失っても、脈は忘れない。


紗奈が気づいて振り返る。


目が合う。

それだけで世界が揺れる。


紗奈は胸の奥に、七周分の“死”を抱えた瞳で言う。


「……話したいことがあるの」


蓮は返答できなかった。

心臓が答えていたから。


二人は屋上へ上がる。

夕陽は、死んだ未来と生きている現在の境界線に差し込んでいた。


柵にもたれた紗奈は、風に髪を揺らして言った。


「蓮。あなたは……もう覚えてないんだよね?」


蓮は答えられない。


覚えていない。

たしかに覚えていない。


なのに──なぜ温度まで想像できる?


手を伸ばせば、誰の涙を拭った感触かまで思い出しそうだ。


紗奈の声が震えた。


「本当はね……怖かった。

 世界と戦うことも、未来が決まっていることも、

 でも一番怖いのは……」


そこまで言って、紗奈は涙をこらえた。


「“私だけ覚えてる”ことだった」


頬を伝う涙の跡は、七周分のログ。


蓮の胸の奥で、何かが裂けたように痛んだ。


説明も理由も要らない痛み。


蓮は口を開く。


「……俺は思い出せない。

 でも、心臓は知ってる。

 それじゃダメか?」


紗奈が顔を上げた。


夕陽が瞳の中でゆっくり揺れる。


「ずるいよ、それ……」


そう言ったが、涙は笑っていた。


その瞬間──


風が止まり、空気が固まる。


カチ、カチ、カチ──

世界の裏側で時計が鳴るような音。


紗奈は凍りついた。


「来る……干渉の“揺り戻し”……!」


蓮は意味がわからない。

だが、身体は察していた。


次の瞬間。


空の色が沈むように変わった。

屋上の扉が軋むように開く。


相良奏(叔母)が立っていた。


風にコートの裾を揺らし、冷たい目で言った。


「進み過ぎたわね、二人とも」


紗奈が叫ぶ。


「叔母さん、止めないで!

 もう干渉は済んだの。私たちは──」


奏は首を横に振った。


「干渉は“結果”じゃなく“過程”に作用する。

 代償は、まだ取り立て途中よ」


蓮の背筋に冷たい電流が走った。


紗奈が一歩前に出る。


「蓮の記憶はもう奪われた!

 これ以上、何を──」


奏は静かに告げた。


「記憶だけじゃ足りない。

 本来は“関係そのもの”が回収される。」


紗奈の顔色が消えた。


関係──

それは出会いも、感情も、選択も全部を含む言葉。


蓮だけが沈黙していた。


理解が追いつかない。

脳は空白のままなのに、心臓だけが暴れ続けていた。


奏は蓮を見た。


「蓮君。あなたは今日中に“選ばされる”。

 忘れるか、終わるか。

 二択よ」


世界が静まり返る。


紗奈が息を呑む。


「やめて……その選択は──」


奏は遮った。


「どちらを選んでも未来は動く。

 ただ──誰が死ぬかだけが変わる。」


蓮は初めて声を荒げた。


「待ってくれ、誰が……?」


奏は淡々と答えた。


「あなたか、紗奈よ」


夕陽が完全に沈む。


蓮はただ、理解できないまま理解していた。


──選ばなければ世界が選ぶ。


心臓がまた跳ねた。


ドクン


紗奈が蓮の手を掴む。


震えながら言った。


「選ばないで。

 選んだ瞬間に未来は決まる。

 まだ“揺らしてる途中”なんだよ……!」


奏が静かに付け加える。


「タイムリミットは日付が変わるまで。

 それが干渉の本当の代償」


蓮は空を見上げた。


夕闇の向こうで、知らない星が脈打っていた。


記憶がなくてもわかる。

この選択は周回の中で最も重い。


蓮は息を吸い、そして──


「……俺は──」


選ぼうとした瞬間。


紗奈が蓮の唇を塞いだ。


言葉を奪うキスだった。


世界が止まり、空気が震えた。


離れた紗奈は涙を浮かべて笑った。


「未来に名前を与えるのは“最後の瞬間”でいいんだよ」


屋上の風だけが冷たく吹いた。


蓮の心臓は壊れたみたいに跳ねていた。


もう誰にも止められない予兆が、音を立てて進んでいた。


──そして夜が来る。


次の周回は、まだ始まっていない。


だが“誰が終わるか”は、もう決まりかけていた。

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