第21話失われる
玄関の開く音と同時に、
脳の奥で“プツン”と糸が切れた感覚がした。
何が消えたのか分からない。
ただ確かに──“落ちた”。
奏が誰かと小声で話している。
内容は聞こえない。
俺は紗奈の手を握ったまま、動けなかった。
紗奈が震える声で言う。
「蓮くん……今、なにか……」
「分からない。
でも……なんか、抜けた」
紗奈の表情が痛々しく歪む。
俺の脳内には、穴がぽっかり空いていた。
そこに何が入っていたのかは分からない。
それが最悪だった。
奏が戻ってきた。
「蓮君、紗奈。荷物をここに」
奏の後ろには、淡いグレーのスーツを着た男が立っていた。
30代前半くらい。悪人面じゃない。
表情は読めないが、敵でも味方でもない空気。
奏が紹介する。
「彼は沖田。
うちの研究に協力している“監視側”の人間よ」
“監視側”という単語に、紗奈がビクリと肩を揺らした。
俺は言う。
「監視って……誰から?」
奏ではなく沖田が答えた。
「国家、と言えば早いかもしれません。
未来認知の能力を持つ者が出た場合、
統制しないと“世界の線”が乱れる」
淡々とした声だった。
奏が補足するように言う。
「蓮君と紗奈はもう、“線を乱し始めている”。
だからこうして動きが早いの」
俺は息を飲む。
沖田は淡々と言う。
「まず確認したい。
蓮君──君は、未来を変えた自覚があるか?」
俺は紗奈を見て、それから頷いた。
「ある。
紗奈を……死から救った」
沖田は一切驚かない。
「干渉済み、か。
なら、ゆっくりしている時間は無い」
紗奈が声を震わせて言う。
「なに……何をする気なの……?」
沖田は紗奈を見る目が少しだけ優しかった。
「保護だよ。
君たち二人を研究施設に移す」
“研究施設”という言葉に、紗奈は青ざめた。
俺は紗奈を庇うように前へ出て、言う。
「行かない。
紗奈は……連れていかせない」
沖田は首を横に振る。
「君を連れていかないと意味が無い。
干渉者は“二人セット”だ。
片方を隔離しても未来は変わる」
奏が静かに言う。
「沖田、少し黙って」
沖田が口を閉じる。
奏は紗奈に向き直り、柔らかく言った。
「紗奈。落ち着いて。
“保護”という言葉は悪く聞こえるけど、
監禁じゃない。
ただ──干渉の進行を遅らせたいのよ」
紗奈は必死に言う。
「でも……蓮くんが……
記憶が……!」
奏がうなずく。
「そう。
蓮君の代償は止まらない。
施設に移っても止められない。
でも“遅らせる”ことはできる」
俺は息を呑んだ。
「遅らせる……?」
奏は淡々と説明する。
「干渉の代償は、周囲の刺激で加速する。
デート、会話、感情、触れ合い──
“紗奈との体験”が強いほど、
世界はその分だけ削って辻褄を合わせようとする」
紗奈は言葉を失った。
俺の胸が締め付けられる。
沖田が言う。
「正直に言うと、
君たちはそろそろ危険域だ。
七周目で救っている時点で相当な干渉だが──
状況はもっと悪い」
俺は聞いた。
「どう悪いんだ」
沖田は答える。
「“世界側の修正”が追いついていない」
奏が補足する。
「だから蓮君は“過去”を失っている。
そのうち“現在”も削られる」
紗奈が掠れる声で言う。
「いま……どのくらい……進んでるの……?」
奏は紗奈を見る。
そして俺を見る。
「蓮君。
紗奈と“初めて話した時のセリフ”を言ってみて」
初めて──話した?
俺は考える。
考えて──
……出てこない。
声も情景も、音も、色も。
何も無い。
俺は紗奈を見る。
紗奈の唇が震えている。
目が潤んでいる。
奏が小さく呟く。
「“初対面”はもう削れてるわね」
沖田は腕時計を一瞥し、言う。
「奏。
時間切れだ。
二人を移動させる」
奏は紗奈の肩にそっと触れた。
「紗奈。
あなたの夢は未来を視る力。
蓮君は未来を変える力。
どちらも認識された。
隠し通す選択肢は、もう無い」
紗奈の頬を涙が伝う。
紗奈は俺の手を強く握った。
「行かないで……
知らないところに行ったら……
蓮くん、もっと忘れる……!」
俺の心が壊れる音がした。
俺は紗奈の手を握り返し、言った。
「忘れない。
絶対に忘れない。
何が消えても……」
言いかけた瞬間、また頭の奥で何かが“落ちた”。
今度ははっきり分かった。
──紗奈の声の“最初の印象”が消えた。
明るかったのか、静かだったのか、
高かったのか、低かったのか。
全部抜けた。
俺は言葉を失ったまま、紗奈を抱き寄せた。
紗奈は嗚咽しながら俺にしがみついた。
奏が小さく言った。
「蓮君。
紗奈を救いたいなら──行くのよ」
沖田が扉を開ける。
冷たい夜の空気が、室内へ流れ込んだ。
もう戻れない場所だということが
嫌でも伝わってきた。
俺は紗奈の手を握り、言った。
「紗奈。行こう。
一緒に──絶対に終わらせる」
紗奈は涙でくしゃくしゃの顔で、頷いた。
そして俺たちは玄関を跨いだ。
その瞬間──
俺の頭の中でまた、小さな記憶が落ちた。
何を失ったかすら分からないまま。
ただ一つだけ残っていたのは、
“紗奈を手放したくない理由だけ”
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