第19話呼吸

紅茶の湯気はもう薄くなっていた。

 冬じゃないのに、室内の空気は冷えているみたいだった。


 奏はテーブルの上にノートを開いた。

 古い紙の匂いと、細い字が並ぶ走り書き。

 紗奈が生まれる前から使われていたものらしい。


「ここからは、事実だけを話すわ。

 感情の混ざらない“観測の記録”」


 淡々と言ったが、その声の奥に重さはあった。


「まず──」


 奏は一枚のページを指先で示した。


「紗奈。あなたは生まれつき“未来を見る脳”を持っていた。

 それは予知ではなくて、ログ再生。

 あなたが見る夢は、“可能だった未来の記憶”」


 紗奈の肩が震えた。


 俺は横目で紗奈を見る。

 怯えてるけど、逃げる気配はない。


 それが紗奈の強さだと俺は知ってる。


「でも、未来を見すぎると“脳”じゃなくて“心臓”が先に悲鳴をあげる。

 未来の情報は脳より血流に負荷をかけるから」


 血流。

 心臓の電気。

 胸の痛み。

 全部が一本の線になる。


「六度目の死は世界の調整じゃない。

 観測の負荷だった。

 だから心臓が止まった」


 紗奈はカップを持つ指を握りしめた。


「じゃあ……私、放っておいたら死んでた?」


「ええ。でも死んで終わりじゃない。

 今の世界のルールでは“観測者は死んでも未来に残る”。

 干渉者が世界を巻き戻す限り、ね」


 紗奈は俺を見る。

 その目には怯えよりも、“理解”があった。


「蓮が……私を戻した」


「ああ。何度も」


 言った瞬間、胸が痛くなった。

 過去の全部が喉に刺さる感覚。


 奏はページをめくりながら続ける。


「問題はここからよ。

 七周目の今、“世界”はもう調整を諦めつつある」


「諦め……?」


「ええ。死因による帳尻合わせが限界に近い。

 事故、転落、老朽化、侵入者──

 世界は“偶然”を装う余白が尽きかけてる」


 俺は思わず呟いた。


「だから……紗奈は“生きたまま”狙われた」


「そう。

 生存ルートの管理に切り替えたのよ」


 管理。

 それが追手の正体か。


「連中は何なんだ。あの保護者面した奴らは」


 奏は淡々と答えた。


「政府でも企業でもなく、もっと古いわ。

 “未来を観測する家系”と“干渉を制御する家系”の連合。

 あなたたちみたいな生まれ合わせを監視してる」


「じゃあ……紗奈の家系も?」


「観測側。

 相良家は“未来を見る血”を持っている。

 紗奈は特に濃い個体」


 紗奈が息を呑む。


「叔母さんも……?」


「そうよ。

 でも私は観測者じゃなく“記録者”。

 観測者のログを保管して解析する役割」


 俺は気づく。


 奏は“未来を見ない側”だ。

 だからこそ冷静で、だからこそ紗奈を守れる。


 奏はノートを閉じて、真っ直ぐ俺を見た。


「蓮君。あなたは干渉者。

 世界を“書き換える側”。」


「それは……紗奈を救うことと何が違う」


「大きく違う。

 干渉とは救済じゃなく、選択の上塗り。

 干渉を続けると、未来は形を失う」


「形を……失う?」


「観測者の見る未来には“形”がある。

 干渉者が変えすぎると、観測側は未来を失う」


 奏は紗奈の手を取った。


「紗奈。

 あなたが最近夢を“思い出せない”のはそのせいよ」


 紗奈は小さく震えた。


「そう……なの……?

 ずっと……夢の続きが見えなくて……

 ただ胸だけ痛くて……

 私、壊れたのかと思った」


 俺は即答した。


「壊れてねえよ」


 紗奈が目を見開いた。


「未来が変わってるだけだ。

 俺が変えてる。

 だからお前が見た未来は、もう存在しなくなったんだ」


 奏は俺を見て、深く息を吐いた。


「蓮君。

 それは“救い”でもあるし、“奪い”でもある」


「分かってる」


 本当は全部は分かってない。

 でもそれでいいと思った。


 奏は腕を組んだ。


「では次に話すのは、

 紗奈が“生きたまま管理される未来”と、

 蓮君が“干渉し続けた場合の未来”」


 紗奈が震える声で聞いた。


「叔母さん……どっちが……生きられるの……?」


 奏は答えなかった。

 ただ、二本の指を立てた。


「一つ。

 紗奈は生きるけれど“未来を奪われる”。

 観測者として管理され、干渉の届かない場所で生かされ続ける」


 俺は即座に拒絶した。


「それは監禁だろ」


「ええ。監禁よ」


 紗奈は息を詰めた。


「二つ。

 蓮君は干渉者として世界を敵に回し、

 紗奈は自由に生きられる代わりに──

 未来の形を持たなくなる」


「……未来の形?」


「未来の“安全保証”がなくなる」


 紗奈が俺を見る。

 その目は不安じゃなくて、確認の目だった。


「蓮……それ、どういうこと?」


 俺は迷わず答えた。


「多分──普通の人間になるってことだよ」


 紗奈は目を瞬いた。


「夢がなくて、予兆もなくて、世界に守られなくて、死ぬ時は事故かもしれないし老衰かもしれないし……

 そんな“当たり前の未来”」


 紗奈は俯いた。

 泣きもしなかった。

 でも肩がかすかに震えた。


「……いいな、それ」


 小さな声だった。


「それ、いい人生だと思う……」


 俺は胸が掴まれたみたいに痛かった。


 奏は静かに言った。


「じゃあ、紗奈に選ばせましょう」


「何を」


「生かされる未来か。

 生きる未来か。」


 紗奈はゆっくり顔を上げ、

 涙の跡もない目で迷いなく言った。


「私は……蓮と一緒に、生きる未来がいい」


 その瞬間、部屋の空気が震えた。


 奏は小さく、大人の微笑みを浮かべた。


「分かったわ。

 じゃあ次は、蓮君の選択を聞きましょう」


 俺は迷わなかった。


「俺は紗奈を守る。

 未来がどうなっても。

 世界が敵でも。

 俺がバグでも」


 奏はゆっくり頷いた。


「なら蓮君。

 あなたに必要なのは能力じゃなく、覚悟だけ」


「覚悟なら最初からある」


「いいえ。

 “失う覚悟”よ」


 その瞬間、俺は分かった。


 ここから先は戦いじゃない。

 分岐だ。

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