第13話世界が先に泣いた

紗奈の手は冷たかった。

 寒いからじゃない。

 さっきまで泣いていた体温の余韻だと、握った瞬間に分かった。


「ど、どうしたんだよ……なんで泣いてる」


 俺は問いかける。

 七度目のスタート地点に立つのは初めてじゃないはずなのに、声だけは初手みたいに震えた。


「れんくんが……来てくれたから」


 その理由だけを、紗奈は絞り出すみたいに言った。


 問題はそこじゃない。

 本当の問題は紗奈が“泣いていた理由を説明できる世界線”が存在しないはずなのに泣いていることだ。


 前の周回で紗奈は俺の腕の中で死んだ。

 あの結末は“巻き戻されて”いないと紗奈は知覚できない。


 それでも泣いている。

 それはつまり、説明が付くのは一つだけ。


 世界のほうが紗奈の心を先に泣かせている。


 追跡する影はもういない。

 だけど気配は消えていない。

 監視カメラよりも低く、犬よりも高い位置から見られている感覚。


「……紗奈、今日は俺と遠回りな」


「え、なんで?」


「いいから」


 紗奈は逆らわない。

 昔からそうだ。

 俺が本気の声を出すと、内容よりも“怖さ”じゃなく“信頼”で従ってくる。


 そのせいで何度も死んで、何度も巻き戻ってる。


 遠回りしながら歩いていると、紗奈が指を絡めてくる。

 指の長さ、爪の丸さ、手の汗の温度、どれも本物の紗奈だ。


「ねぇ、れんくん」


「ん」


「今日ね……すっごく嫌な夢、見たの」


 足が止まった。


 夢?


 この七周目に入ってからここまでで、紗奈側から“記憶の残滓”を示すような単語が出るのは初めてだ。


「嫌な夢って?」


「……私がね、倒れちゃうの。息ができなくて、れんくんの腕、掴んで……。目が覚めても胸が痛くて、なんでか泣いちゃって……」


 心臓発作。

 五度目の死因。

 紗奈は“部分的に”持ち越してる。


 それは世界の仕様なのか、侵入者の干渉なのか、蓮の力の副作用なのか判別はつかない。


 でも分かることは一つだけ。


 紗奈は死んだ後も苦しむ。世界が巻き戻しても、苦しさだけは置いていく。


 これが世界の慈悲に見えるか?

 俺には拷問にしか見えない。


「……夢か」


「うん。でも現実みたいで、すごく怖かった」


 怖いのはこっちだ。


 世界はルールを隠したまま、仕様変更まで加えてくる。

 思い出の消失は蓮側だけじゃない可能性が出てきた。


「紗奈」


「なあに?」


「これからしばらく、俺の言うこと全部聞いてくれ」


 紗奈は一瞬だけ驚いた顔をした。

 でもすぐに笑う。


「聞くよ。れんくんが言うなら、ぜんぶ」


 ——その“ぜんぶ”が過去に何度彼女を死なせたかも知らずに。


 夕焼けの色が空から剥がれるように暗くなっていく。


 紗奈の家に着く直前、背後から違和感が走った。

 振り向くと、道路の遠くに“誰か”が立っていた。


 街灯より背が高い。

 でも成人より細い。

 だけど歩行者ではない。

 長く伸びた影が地面に吸い込まれていく。


 紗奈は気づいていない。

 それが余計に不気味だった。


 俺は紗奈を家の中に押し込んだ。

 理由も説明しない。

 説明したら紗奈が振り返るからだ。


「れんくん?」


「いいから入れ。鍵かけて。あと窓も」


 紗奈は逆らわないまま玄関を閉めた。

 鍵が回る音を確認した瞬間、俺は道路に視線を戻した。


 誰もいない。

 なのに風の流れが逆転していた。

 木の枝が一方向に揺れて、街灯の光が滲み、遠くの救急車のサイレンだけが正常だった。


 救急車。

 五度目の死の再現か?


 いや、それよりも大事な変化に気づいた。


 俺は紗奈と出会った日の記憶を思い出せなかった。


 この七周目に入ってからじゃない。

 玄関を背にして道路を見たこの瞬間だ。


「マジかよ……ここで削るのか……」


 世界は容赦しない。

 代償のタイミングすら選ばせてくれない。


 俺が紗奈を守ると決めた “その行動” の瞬間に、紗奈との出会いの記憶を奪っていく。


 紗奈の夢は紗奈に傷跡を残し、

 代償は蓮から根を奪い続け、

 影は黙って監視を続ける。


 紗奈の家の灯りが落ち着くまで、俺はしばらく玄関前に立ち尽くしていた。


 そして静かに思った。


 ——世界はもう、俺たちより先に泣いている。

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