第8話 最強の無力
目を開いた瞬間、世界が白く弾けて、感覚が追いつくまで時間がかかった。布団の感触、枕の匂い、時計の秒針が刻む音。それらが徐々に耳へ、皮膚へ、脳へ戻ってくる。
また朝だ。
四周目。
紗奈は、また死んだ。
俺の目の前で。
四周目。俺がついていたのに、紗奈は交通事故で死んだ。俺の腕を掴んだまま、横断歩道の途中で倒れ込むように。車の運転手の驚愕した顔と、紗奈が血の中で薄く笑った顔が、脳の裏に焼き付いている。
今、朝の光の中で肺が震えて、俺は悟った。
これはもう“偶然”じゃない。
(世界が紗奈を殺している)
そんな結論は、多分間違っているし、多分正しい。理屈や説明なんて今はいらない。感覚の方が証拠になる時もある。
俺は顔を洗って鏡を見る。目の下のクマがひどい。四周目を過ごした時間は、前より長い。つまり――
(ループは任意じゃない)
紗奈の死が“条件”だ。
紗奈が死ねば、世界は朝をやり直す。
俺の意思は関係ない。選択肢も拒否権もない。
なら、試されているのは俺だ。
紗奈を救えるか。
それとも心ごと折れて投げ出すか。
「……悪趣味すぎるだろ」
吐き捨てて制服に着替え、家を出る。空気は冷たい。五周目まで来ると、世界の匂いすら変わって見える。見慣れた景色ほど不気味だった。
学校に着くと、紗奈が教室で笑っていた。
その瞬間、脳が焼けるように痛んだ。
紗奈が死ぬことを思い出しただけで、息ができなくなる。人間は同じ死を二度目に見た時点で耐えられなくなると思ってた。でも三度目も四度目も、耐えられなかった。
紗奈は俺に気づいて手を振る。
「おはよ、蓮」
「……おはよう」
声がうまく出ない。平然を装うつもりが、全然無理だった。
「どうしたのその顔。寝てないの?」
「色々あってな」
「ふーん、隠す気ないの珍しいね」
紗奈は笑う。その笑顔は、本当に健康的で明るくて、どこからどう見ても生きる側の人間だ。
なんで死ぬんだよ。
なんで死なされるんだよ。
教室の喧騒の中で、俺は紗奈を観察する。瞳孔の開き、歩き方、声量、反射、肌色、爪の半月、息の乱れ――何もかも正常だ。
病気の可能性は薄い。
事故も偶然とは言い難い。
建物の老朽化も、転落も、交通事故も、どれも「世界が牙を向いた」みたいなタイミングだ。
紗奈は椅子に座りながら俺に訊く。
「蓮、放課後ひま?」
「ああ。紗奈は?」
「空いてるよ」
「なら一緒に帰ろう」
「え、急だね」
「必要なんだよ」
「……なんかそういう言い方されると嬉しいけど、ちょっと怖いかも」
紗奈は苦笑した。
怖いで済んでるのが不思議なくらいだ。
*
放課後、俺たちは校門を出る。人が多い道を選んだ。交通事故の再発を避けるためでもあるし、転落も崩落も起きるはずがない環境を選ぶため。
紗奈は言う。
「ねえ蓮、今日はどこ寄る?」
「寄らない。真っ直ぐ帰る」
「えー……」
「ダメか?」
「ダメじゃないけど……蓮にしては珍しいなって」
また言われた。俺はそんなに普段のんきに見えてたのか。
「珍しいとか普通とか、どうでもいい」
紗奈が顔を見る。困ったような、心配するような顔だった。
「今日の蓮って、ちょっと必死?」
「必死だよ」
「何に?」
「紗奈に」
紗奈は一瞬立ち止まった。頬が赤い。耳まで赤い。
「…………なんか、そういうの、急に言うのずるいよ」
「時間がないんだよ」
「え?」
「何でもない」
紗奈はまだ赤い顔のまま言う。
「蓮、ほんと変だよ。優しい顔なのに言うことは強引で……そういうとこ、好きだけど」
その瞬間、心臓が止まるかと思った。
嬉しかった。同時に絶望的だった。
(好きって言葉を聞くために、俺は何周して、何回死を見たんだ?)
世界が紗奈を殺さない理由なんて、どこにもなかった。
*
帰り道、紗奈は俺の腕を掴んで歩いた。横断歩道を渡る時、俺は紗奈を自分の後ろに隠すようにした。車、信号、運転手の視線、歩行者の流れ――全部チェックした。
俺は最強だ。
少なくとも、この街で紗奈を守る方法については、もう常人では追いつけないレベルで情報を積んでいる。四周目の経験値は伊達じゃない。
(どれだけでもやれる。全部潰せる。世界の隙を殺せる)
だから紗奈は――
その時、紗奈がふと言った。
「ねぇ蓮、私、今日すごく楽しいよ」
「……そっか」
「蓮ってね、変で優しくて、笑ってなくてもちゃんと見てくれてて……だから一緒にいると安心するの」
「それは困る」
「え?」
「安心してると死ぬから」
紗奈はぽかんとした顔をした。
「……なにそれ」
「いや、忘れてくれ」
紗奈は笑った。俺は俯いていた。気づいたら手が震えていた。
紗奈が死ぬ瞬間を何度も見たせいで、俺は紗奈が生きているだけで泣きそうになる。
でもその涙は幸福じゃない。恐怖だ。
(生きていることが、いつ切れるか分からない)
俺は紗奈を家の前まで送り届けた。
「じゃあ、また明日」
「ああ。絶対に」
紗奈は笑って俺を見た。
「蓮、また明日会えるって当たり前じゃん」
「当たり前じゃない」
紗奈は瞬きし、少し困った顔で言った。
「……当たり前じゃないって、蓮が言うと重いな」
「重くていい。重さがないと、落ちる」
「落ちるって?」
「……気にするな」
紗奈が家の中に消えるまで、俺はその場を動かなかった。もし玄関が崩れでもしたら?誰かが紗奈を襲ったら?車が突っ込んだら?
(疑いすぎだって笑われても、死ぬよりマシだ)
紗奈が完全に見えなくなってからようやく帰路についた。
その夜、俺はほとんど寝なかった。ニュース、事故の統計、建造物の老朽化、自治体の工事計画、交通量のデータ、犯罪発生マップ、目撃情報、SNS、全部洗った。
(世界は紗奈を殺す。その方法は選ばない)
なら潰せるだけ潰す。
それが“最強”の動きだ。
それが最善だと思っていた。
そして五周目の朝。
紗奈は死んだ。
原因は――心臓突然死。
ベッドの上で、眠ったまま。
事故でも老朽化でも転落でもない。紗奈が呼吸をしていなかった。ただそれだけ。
俺は紗奈の部屋に駆けつけた。救急車も来た。医者も来た。親も泣いていた。
俺だけが立ち尽くしていた。
俺は世界を殴りそうな勢いで言った。
「嘘だろ……事故も、環境も、全部潰したんだぞ……!」
誰も聞いていない。
俺以外、誰も世界の手口を知らない。
医者が言った。
「稀なケースです。健康だったとしても、起きる時は起きるんですよ」
そう言って紗奈から離れた。
でも俺は知っていた。
(違うだろ)
健康だった。
検査も問題なかった。
兆候も無かった。
(それでも死ぬのなら――それが“世界の意思”なんだろ)
紗奈の手首は冷たかった。
世界が巻き戻す気配が、背中に迫る。
「ふざけんなよ……!」
紗奈の額に触れながら、俺は呟いた。
「俺が邪魔なら、俺を殺せよ……紗奈じゃなくて……!」
世界は答えず、視界が歪む。
時間は、また朝へ巻き戻る。
六周目の朝。
俺は笑った。
本当に、心の底から笑った。
「最強?笑わせんなよ」
紗奈を守るための情報も、心理も、物理も、全部積んできた。その上で突きつけられた答えは――
(救えない)
それが“最強の無力”だった。
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