第4話 好きにならない理由の方が少ない

六月の終わり、体育祭の余韻だけがまだ校舎に微かに残っていた。

屋上に吹き抜ける風は生暖かくて、でも雨の匂いを含んでいて、梅雨の境目らしい空だった。


「蓮、飲み物買ってきた」


そう言ってペットボトルを差し出してくる紗奈は、息が少し上がっている。

階段を駆け上がってきたらしい。


「走ったのかよ。階段四階まで」


「だってさ、早く喉潤したいじゃん」


「俺の分買ってこいとは言ってないけどな」


「買ってきちゃダメって言われてない」


平然とした顔で言うのがずるい。

蓋を開けると微炭酸のレモンティーだった。夏限定のやつ。


「……俺が好きなやつ、なんで知ってんの」


「知ってるよ。いつもこれ飲んでるじゃん。観察力だよ観察力」


観察力、か。

俺は逆に、紗奈の飲み物なんて覚えていただろうか。

思い返すと全部違っていた。日によって緑茶もコーヒーも麦茶も飲む。

つまり“決まった好きがない”。

そういうところに生っぽい自由さがある女子だった。


俺が飲みながら屋上のフェンスにもたれると、紗奈は何のためらいもなく横に立って空を見上げた。


「今日さ、天気予報では雨だったんだよ。だから屋上来れないなって思ってたのに……ちゃんと晴れた」


「晴れてねぇだろ。曇りだろ」


「蓮、細かすぎ。雨降ってなければ晴れでいいの!」


そう言って笑う。

笑うと目尻に細い皺が寄って、口元が柔らかくなる。

人の笑顔なんてどれも似たようなものだと思ってたけど、紗奈の笑い方だけは一瞬で区別できる。


「ねぇ蓮、体育祭のさ、最後の借り物競走のやつ……」


「あれな」


「あれ、蓮が言ったでしょ。『幼馴染』って。で、私、呼ばれたでしょ」


「……まぁな」


「正直に言うと、あれ地味に嬉しかったんだよね」


「……そうかよ」


そう答えながら、あの時の拍手と歓声が耳に蘇る。

借り物競走の最後のお題は“幼馴染”。

蓮は迷いなく紗奈を指差し、紗奈は走ってきた。

周りが騒いで「お似合いじゃん」とか「絶対付き合ってるだろ」とか冷やかす中で、紗奈は笑っていた。


「だってさ、幼馴染って便利じゃん。

仲いいのに告白の必要ないし、距離近いし、いちいち格好つけなくていいし、

恋も友情も曖昧なままで全部許されるんだよ?」


「お前それフォローしてんのかディスってんのか分からん」


「褒めてる。すごい褒めてる」


褒めているようには聞こえなかったけど、紗奈の声には棘がない。

だから俺は傷つかないで済む。


そのあと紗奈は突然しゃがみ込んで、靴紐を締め直し始めた。

淡い青のスカートがふわりと揺れる。


「体育祭の後さ、写真めっちゃ送られてきた」


「俺も来た。クラスLINEが地獄になってた」


「分かる。通知が500とか笑うよね。

でね、私、ちょっと自惚れしちゃったんだよ。

なんか、どれ見ても私笑ってて。生きてるって感じした」


その言い方が胸に引っかかった。

ふざけてるようで、どこか本音に近い温度。


「……悪くねぇじゃん。自惚れてろよ。似合ってるし」


「似合ってるって何。言い方よく分かんない」


「似合ってるんだよ。そういうの」


言った瞬間、紗奈が目を丸くした。

驚いた、というより“掘られた”みたいな顔。

でもそれも数秒で消えて、いつもの調子に戻る。


「ふーん、そう……だったんだ」


と呟いて、フェンスの向こうを見下ろす。

グラウンドの白線はもう雨で半分流れていた。


沈黙は長く続かなかった。

紗奈は急にターンして、スマホを俺に向けた。


「ね!これ見て!!」


そこには体育祭の集合写真。

俺と紗奈が後列で肩を寄せて写ってるやつ。

そして、紗奈が指で拡大したのは俺の顔だった。


「この蓮、私的に優勝なんだけど」


「どういう基準だよ」


「なんか優しい顔してんじゃん。普段はさ、なんかこう……被害妄想強そうなのに」


「お前な、それ褒めてねぇからな?」


「褒めてるってば。優しいって。しかもさ、知らないとこで優しいやつが一番優しいんだよ?」


それを言った瞬間、風の音が止んだ気がした。

俺だけじゃなく、空気ごと止まるような秒間。


「……別に優しくねぇよ」


「そうやってすぐ否定するところも優しいんだよ」


「意味が分からん」


「分からなくていい。私は分かってるから」


そう言われると、俺は何も言えなくなる。

紗奈はそういう言葉を選んでくる。

押しつけじゃなくて、聞き分けの悪い人にだけ届く言い方。


だからこそ好きになる。

そして困る。


——好きだ。

とても言えないけど、ちゃんと好きだ。


屋上を出て階段を降りる途中、紗奈が小さく息をついた。


「ねぇ、蓮。私っていいやつ?」


急に投げられた問いだった。


「……誰と比べて」


「世界全部と」


世界全部。

どうしてそんな欲張りな聞き方をするのか。


「良いとか悪いとかじゃねぇよ。

お前は……なんか、

“ちゃんと生きてる感じする”」


そう答えたら、紗奈は少し驚いて、それから笑った。


「……そっか。よかった」


階段を降りきる頃には、日が傾き始めていた。

校門を出ると、商店街の方から甘い匂いがした。


「あ、クレープ新作の匂い」


「そんな匂いあるかよ」


「あるの!あの甘ったるくて後悔する匂い」


「どんな匂いだよそれ」


「じゃあ後悔しに行こうよ。食べて」


また誘われた。昨日も誘われた。

毎日一緒にいるみたいになってる。

そして俺はまた断れない。


「……分かったよ。行くわ」


「やった!蓮は優勝」


「何の表彰だよ」


「“私の人生で一番使い勝手がいい幼馴染賞”!」


「それ絶対悪口だろ」


「褒めてるよ。めちゃくちゃ」


紗奈は笑いながら走り出し、俺は仕方なく追いかける。

追いかける背中は、夏になる手前の季節みたいに軽い。


——好きにならない理由のほうが少ない。


俺は走りながらこっそり思った。


そしてその事実が、たまらなく苦しかった。

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