第12話 文化祭(中)
文学少女先輩はストロング系の缶チューハイ、それもプライベートブランドのクソまずいやつを買ってコンビニを出てきた。煙草を吸いながら用事が済むのを待っていたら、手に持った袋の大きさに驚いた。
「ごめんね。待たせて」
「べつにいいすけど、それ全部飲むんすか!?」
「ヤスくんも飲むでしょ?」
「ええ……明日もいちおう早めに学祭委員のほうに顔出さなきゃいけないんで」
じろりとおれの目を見て凄む。
「私の酒が飲めないって言うの?」
端正な顔立ちで睨まれると本当に怖いような気がして身がすくむ。
「……マジすか?」
「半分くらい嘘」
先輩は楽しそうに笑っている。おれはまだ戸惑っていて、うまく事態を飲み込めなかったが、なんとか笑った。
「……ほんとに飲み屋とかじゃなくていいんすか?」
「いいの」
そういうとズンズン彼女は歩いていく。夕方の車通りの少ない道路をまっすぐ横切って、ヒールのついた靴で河川敷につながる階段を降りていった。
「そっか、土だ」
彼女は何事もなかったように靴を片足ずつ脱いで、草むらに投げ捨てる。そのまま河川敷にずかずか入り込む。
「えっ、汚れちゃいますよ!?」
「いいの!」
すとん、とベンチに座っておれに向かってビニール袋を突きだした。
おれはしぶしぶ受け取って、そこから慣れ親しんでしまったパッケージの缶を取り出した。
「かんぱ〜い」
「……乾杯っす」
小気味よい音をたててプルタブを引き上げて、先輩は一気にチューハイをあおる。おれもそれを見ながら同じ缶を傾けた。
「……おいしくないね」
「まずいっすよこれ」
当たり前にまずい安さと速さと破壊力だけの味が、みるみるうちに味覚をぶち壊すのがわかる。
こんななら普通の買えばよかった、という先輩の言葉におれは笑って、でも飲み慣れてるんでおれは平気です、と強がってみせた。
「ヤスくんのいつも仲良くしてる子って、仏文科の子でしょ?」
「ああ、ミサキのことっすか?」
「そう、藤野さん。今日いなかったよね、文化祭委員だったからいるかなと思ってたけど」
「あいつ今日はどうしても外せない用事があるって実家戻ってて」
「そうなんだ、大変だね」
先輩は少し顔をしかめて本当にミサキを心配しているようだった。
「藤野さん、がんばってるよね。仏文科だけじゃなくてこっちにも伝わってるくらい評判だよ」
「え、そうなんすか?」
「うん。毎週仏文科の二年生以上が出る専門の授業に顔出してて、終わってからも残って先生によく質問してるって」
「あいつ隠れガリ勉だからなあ……」
「そんなこと言わないの」
ふふ、と上品に笑う。
大学の裏手側にある河川敷は、ふだんは医学部の連中が煙草を吸いに来ているたまり場で、学祭の今日は人目もあってか誰もいない。
朝はまだ雨で濡れていた川辺だったが、一日天気の良かった今日、夕方のいますでに下草は乾いている。
沈みかけの太陽が水面を真っ赤に染めていく。昨日の雨で少し増えた水量が鏡を広くして、川沿いの民家の姿をおぼろげに映しながら、川の流れの揺らぎによっていちいち映るものを歪めていく。
「あああ、終わったなあ。ミスコン!」
ちびちびとチューハイを飲みながら、いやに清々しい顔で先輩が言う。
「すいません、先輩が一位じゃなくて……」
「あはは、なんでヤスくんが謝るの?」
計画のこともあって思わず謝ったが、そう言われてみれば確かに変だ。
「いや、先輩がグランプリ狙ってがんばってたの知ってましたし……」
「いやあ、それはがんばったよ? がんばったけど、なんとなくこうなるのもわかってたんだ」
先輩の口調は依然として清々しい。おれの沈鬱な気分も知らないように。
「でも先輩めちゃくちゃ綺麗だし、ミスコン期間かけてもっと綺麗になってたし、絶対いけるって思ってたんすけど……」
「むずかしいよ。私はふだんからお洒落しようとか、綺麗でいようとか、そういうことにお金も時間もかけてきたほうじゃないから」
それなのにこんなに綺麗ってことはすごいことなんじゃないか、と思ったけど言わなかった。
「ヤスくんには夢ってある?」
「なんすかその急なエモ……」
河川敷のなんかいい雰囲気におれもほとんど川のごとく流されかけていたが、不意にあまりの強さのエモがやってきたことでかえって正気に戻る。
「……エモって何? エモーションのこと?」
「なんかこう……まさに今のこのシチュエーションっぽい感じですよ! それこそ感情的な話題というか」
「べつに感情的になってるつもりはないよ? ただ話したことなかったなあ……って」
酔っ払っているのかと思ったが、先輩はまだ一缶目のチューハイをちびちび啜るばかりで、表情も真面目そのものだ。
たぶんこの人は、こういう話も真面目にできる人で、酒に頼らなくても真剣になれる人なんだ。
「……夢とか、あんま考えたことないっすね」
「そうなんだ。じゃあ夢じゃなくても、いまこうしたいとか、こうなりたいっていうのはある?」
「えー……」
おれはちょっと悩んで、それは言うべきかどうか、言っても失望されないかどうかというじつにみっともない理由で悩んでから答えた。
「……そだな、リア充になる、ってのが当面の目標ですかね?」
「リア充?」
またもや先輩はクエスチョンを浮かべる。
「リアル充実してる、ってことです。暗くて意地が悪くて人に好かれないやつから、明るくて性格よくて誰にでも好かれるやつになりたい、って感じかな」
「へえ、リア充かあ……」
彼女は心からおもしろそうに微笑んだ。
「素敵な目標だね」
「あ、あざっす……」
なんか恥ずかしい。おれの浅ましい考えで思慮深い彼女を微笑ませることができたのか、それとも本当は笑われているだけなのか。
「でも私はきっと、リア充になれないな」
「え?」
さらっと言われる。
「先輩はもう十分、ってかめちゃくちゃリア充じゃないすか?」
「リア充、っていうのがまだよくわかってないけど、ヤスくんの言うようなものなのだとしたら、私にはなれないよ」
「え……なんで?」
先輩はそれでも笑ってた。少し寂しそうに。
「私だって、できるかぎりは関わる人みんなにとっていい人でいたいし、みんなに好かれていたいと思うけど……たぶん、ううん、これは絶対、誰かにとっては、私悪い人になっちゃうな」
「そんな人いませんよ……」
「いるよ。絶対」
おれは先輩がこうして、頑なに絶対と言い切る理由がわからなかった。茜色の太陽は変わらずおれと先輩を照らしている。川面の鏡は少しずつ傾く光を照らし返しきれずに、少しずつ暗い部分が生まれている。
「たとえばさ」先輩は俺に向き直って「私のことを好きな人がいたとするじゃない?」
「えっ!?」
見透かされたような気になって狼狽えると、先輩はころころと笑った。
「慌てすぎ。たとえばの話よ」
「あー、先輩のことを好きな人がいるとして」
彼女は頷いて続ける。
「その人は私のことが本当に好きで、私を大切にしてくれて、明るくて性格がよくて誰にでも好かれる人で、みんなも彼を応援してる。私のこともよく知ってくれていて、私も彼を理解してあげられるから、きっとうまくいくよ。こんなに素敵な彼はいないって、みんなが、彼と私がうまくいったらいいね、って、そう思ってくれてるの」
彼女はチューハイを飲み干して、缶をその細い指で潰しながら続けた。
「でもね、私には夢があるんだ。だからその人の気持ちに応えられない」
一瞬何も言えなかった。
「……夢、すか」
「そう、夢なの。私ね、文学が好きなんだ」
彼女は変わらない笑顔でおれを見て、言った。
「高校生のときに、作家になるのは諦めちゃったんだけどね。でもなんとかして、文学に携わる仕事がしたいなって、いまは思ってる。どんな形でも、文学にしがみついて」
先輩の表情は笑ってはいるけど、真剣そのものだ。
「いまの私は、文学があまりに大きすぎて、浩瀚で、豊饒で、深遠で──文学にとって私は小さすぎる。なんでもない私は、これを前にしたら、いまにも消えてしまいそうなの」
おれは見ているしかない。
「だからね、私は巨人になる。大きすぎる文学を持ち上げて、投げとばしてやれるくらいの」
「……ふはっ、巨人って!」
思わず笑った。彼女も笑った。
「笑わないでよ! 夢なんだから」
「……すげーかっこいいっすよ」
馬鹿だから、先輩の言うことが全部は理解できなかったけど、気持ちは伝わった。
すでに日の落ちた河川敷は薄暗くて、先輩が靴を拾うのに二人してちょっと手間取った。おれたちは結局ほとんどの酒を余して、それをほとんど彼女はおれに押し付けた。
太陽がいなくなって、いまのその場所は少し居心地が良かったが、おれはふわふわとした気持ちで先輩と別れて寮に帰った。
なんも考えないまま枕に顔を埋めると、わけもわからないが、ちょっと涙がにじんできた。
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