第11話 文化祭(前)

 早朝の川沿いの道は濡れた匂いがする。

 前日は雨だった。アスファルトはすでに乾いているが、道を見渡すとすでに乾涸びたミミズの死骸がへばりついている。

 夏になってそれを過ぎてからも何度かこうした雨の次の日は虫の死骸を見る。

 漠然と嫌だな、と思う。

 暗く湿った茂みの中から、わざわざ雨の日を選んで外の世界へ出てきた虫たちは、たぶん外の世界もじめじめして居心地の良い場所だと勘違いしたんだろう。

 もちろんそれは一瞬の幻でしかなくて、思い出したようにすぐ顔を出した太陽が容赦なく彼らを焼いてしまう。

 ちっぽけな生き物の命など、大きな太陽は気にかけない。ミミズは身体が爛れる痛みを感じただろうか。誰に気付かれることもなく、道傍に打ち捨てられる苦しみを味わっただろうか。

 せめてミミズは、外の世界ではやっぱり生きられなかったという絶望を、抱かなかったならいい、とおれはぼんやりと考えていた。

 附属病院の通用口から大学構内に入る。ふだんは通い慣れた道だからいちいち景色を見たりしないが、今日ばかりは昨日の露の残った植え込みの木々の葉や、乾いたばかりの水たまりの跡が気になる。

 延々と歩いて図書館の前まで来ると、青々と茂る並木道がある。春になると桜が咲いて綺麗な道だが、秋から冬は銀杏が臭くてたまらないらしい。

 桜は見たがまだ銀杏は嗅いでない。たぶんそういう複数のいい記憶とか悪い記憶が重ね合わせになって、こういう場所はできている。おれの中にもたぶん、これから重なっていくと思う。

 コンビニに寄ってさっさと煙草を吸って、早足で委員会室に向かった。

「ヤスくん、早いね」

 委員長こそ早すぎる。一番乗りのつもりで朝早く来たのに、すでに委員長はいつもの席で学祭のもろもろに関する最終チェックに勤しんでいた。

「はよっす。今日のおれとミサキのぶんのシフトもらいに来ました」

「……ああ、シフトね。いま用意するからちょっと待ってて」

 そういうと委員長は机の上のまとまった紙束からがさごそと目当ての紙を探し始める。

 そのあいだ手持ち無沙汰のおれは委員室のなかをじっと眺めていた。長いような短いような、でもめちゃくちゃ大変だった期間を過ごしてきた部屋だ。

 委員たちのそれぞれのデスクはお世辞にも片付いているとは言いがたく、私物や食べかけの何かも置いてある。

 おれとミサキの席にも、おれとミサキがいたことがわかるだけの名残りがある。

「……そういえば、今日はミサキちゃんは?」

 委員長がふと顔をあげておれを見た。

 おれは少し言い淀むが、彼の視線は優しく、おれの答えをじっと待っていた。

「しょーがねーやつですよ、あいつは! 急に地元のほうの彼氏がゴネだしたとか言って、昨日から実家に戻ってるらしいっす」

「あー、そうなんだ。恋愛ごとは大変だよねえ」

「なんで、今日のシフトはあいつのぶんもおれがやりますよ。一人でキツい部分はほかの委員に手伝ってもらいますし」

 おれの愚痴を聞くと委員長は笑って、ようやく引っ張り出したらしい二枚の紙を渡してきた。

「じゃあ、大変かもだけどがんばってね」

 そこに書かれていたのはおれとミサキの学祭中のシフト表で、エクセルで作られたスプレッドシートにはなぜか何も書かれていなかった。

「え? なんも書いてないっすよ。ミスプリ?」

「二人はシフトなし。一年生だからね、さすがに明日の後片付けには参加してもらうけど、学祭期間中は基本的にお仕事なしにさせてもらったよ」

「いいんちょ……」

 委員長の熱い心意気におれは感激して、がっちりと握手した。委員長は若干引き気味だったが、嬉しそうに笑っていた。

 おれの学祭が、リア充計画の最大の山場となるであろう大学祭が、いま始まろうとしていた。



 待ち合わせ場所でソワソワしていると、遠くからでも一目でわかる姿が歩いてくる。

 まだ日中は少し暑く、近隣の高校生や在学生の父兄といった外来者で普段より人の多い校内では特に蒸し暑いから、彼女は薄手の白いブラウスに若草色のふんわりとしたシルエットのスカート。

「お待たせ、ヤスくん」

「……ぜんぜん、待ってないです」

 文学少女先輩である。

 時刻は昼過ぎ、早朝から大学構内にいたおれは無論半日ほどすでに一人で過ごしているわけなのだが、もちろんそんなことは言わない。

 なぜならおれはリア充なので。

「汗だくだよ? ほら、ハンカチ」

「あ、ありがとございます……」

 ──あれ、バレてる?

 ただ蒸し暑いだけだ、大丈夫、と思い直しておれは先輩に向き直った。

「じゃあ、行こうか」

 先輩は楽しげに足取りも軽く学祭を見物し始める。おれは慌てて先輩について行った。

「何したいとか、あります?」

「……エスコートしてって言ったのに、さっそく私に聞くの?」

「や、とりあえず聞いとこうかなって……意地悪言わないでくださいよ」

 先輩は笑っている。おれも嬉しくなって笑った。

「なんか、軽く食べたいね」

「おっ、じゃあ模擬店でも巡りましょう!」

 おれたちは次々そこらで賑やかにしている露店を冷やかして行った。そのたびに、あの店はどんな人たちがやってる、とか、どんなトラブルがあって大変だった、という話をできるだけ面白おかしくして、おれは先輩に話していた。

「あ、タピオカ屋さんだね。喉かわいたから、ちょっと寄っていこうよ」

「オススメはマンゴージュースっすよ。原価いちばん高いらしいんで」

「ふふ。なんかガメついね、ヤスくん」

 店頭の女子大生が軽く睨んでくるのに、おれはひらひらと手を振ってかえした。

 結局先輩はミルクティーにして、おれは宣言通りマンゴージュースを頼んで店を出る。ちうちうと冷えたカップから飲みながら、おれはまだ話す。

「あの店は最初、タピオカじゃなかったんすよ」

「え、じゃあなんだったの?」

 先輩はおもしろそうに聞いてくれる。

「ラクロスサークルなんすけど、サークル内が二つの派閥に完全に分断されてるんですよ。そこでチュロスやるかワッフルやるかでめちゃくちゃ揉めてて」

「ええー、チュロスもワッフルも一緒じゃない?」

「だと思うじゃないすか! でもあの子たちそう言っても全然納得してくれなくて!!」

 ふふ、と品よく笑う彼女の笑顔。

「どうしてタピオカになったの?」

「二つの派閥で話し合ってもらったんすけど、お互いがお互いの選んだものやるくらいならタピオカのほうがいいって」

「そこは一致したんだ……」

「仲良いのか悪いのかわかんないっすよね」

 彼女は笑ってくれた。そのたびにおれは嬉しくて、次へつぎへと露店を案内した。

 少しずつ大学構内の、ふだんならなんでもないような記憶がうっすらと漂っているだけの場所に、先輩と過ごしているいまの時間、楽しくて嬉しくて輝いてる時間が、しっかりとわかるように張りついていくような気がする。

 そうしていくうちに、おれにとってこの場所がとても大事な場所であるみたいに思えてくる。

 おれは太いストローから口に飛び込んでくる粒を噛みしめながら、いつか詩を引用していたブンガク先輩のことを思い出して、彼みたいに詩人っぽく、この時間が永遠であればいいのに、と思った。



 気付けば夕方になっていた。おれと文学少女先輩はステージの観覧席に座って、微妙にマイナーな芸人のトークショーを聴いていた。

 そのトークはご当地ネタとか、大学生のあるあるネタといった毒にも薬にもならない話題ばかりで、なんとなく聞き流していた。

「……今日は、楽しかったね?」

 おれはうなずいた。先輩の顔は正面のステージからの光に照らされて、横からみると不思議に影が浮かびあがっている。

「もうすぐ、ミスコンの結果発表っすね」

「……終わっちゃうんだなあ、ミスコン」

 先輩は寂しそうでいるような、なにか肩の荷が降りてほっとしたような口ぶりで言った。

「大変でした?」

「うん、大変でした」

 おれも大仰にうなずく。

「楽しかったですか?」

「……うん。楽しかった、ね」

 芸人がはけていく。もう次のステージで今日の日程は終わってしまう。そう思うと、やっぱり胸がぎゅっと締めつけられるような気持ちになった。

「じゃあ……行くね」

「はい。ここで見てますから」

「本当に、今日はありがとうね」

「こちらこそ、楽しかったです」

 ゆるく手を振っておれに笑いかけた先輩は、そのままふらふらと、彼女にしてはしっかりとしない歩きかたで、ステージ脇のほうへと向かっていった。

 なんとなく、彼女がそのまま消えてしまうんじゃないかとふと馬鹿なことを考えて、おれはかぶりを振ってその考えをかき消そうとした。



 そのあとのことは、なんとなく夢をみているような心地だった。

 文化祭委員の誰かだろうか、司会役の学生とおのおの着飾ったミスコン参加者たちがステージのうえに並んで立っている。

 その光景はおれにはあまりに眩しくて、自分ごととは思えない。あのステージの準備も、ミスコンの票集計も、ぜんぶに参加してきたはずなのに。

 おれは太陽に照らされる小さなちっぽけな生き物に自分がなったような気分だった。

 結局のところ、あの光の向こうにおれは届かないのではないか。

 一員になったつもりで、必死で働いてはみたものの、どだい無理な話だったのではないか。

 おれはこの場にすらふさわしくなくて、あの光を浴びることもたぶん許されなくて、ましてや光の向こうにいる人と一緒にいることなんて、できやしないのではないか。

 司会役の委員が、何がおもしろいのか愉快そうに票集計結果を吐き出した。そのときにはもう、おれはほとんど具合が悪かった。

 その名前は、先輩のものじゃなかったからだ。

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