第9話 いい匂い←「い」が多すぎる

 それからは本当の地獄だった。

 文字通りブラック労働委員会の長である委員長はさすがのブラック体質からミサキが電話をかけたその時間にもまだ起きて仕事をしていたらしく、写真合成の件を聞くと早急に対応すべきだと言っていくつかの対応策を提示してくれた。

 おれとミサキはひとまず、当該アカウントについて詳しく調べた。投稿されているツイートに見覚えはなく、最初に利用してもらうはずだったアカウントとは別のアカウントを、参加者が私的に取得して利用しているものらしかった。

 確かに問い合わせで指摘されている自撮り写真と合成されたらしいアイドルの写真とは構図など似通っている部分が多く、写真自体にも合成の痕跡のような画質の低下やブレが散見された。

 それはしっかりと見なければわからないレベルで、そのせいかツイッター上でもまだ合成疑惑についてツイートしているユーザーは少なかった。

 そうこうしているうちに早朝になって、おれとミサキは慌てて参加者に連絡をとり、合成疑惑の真偽を確かめると、参加者にアカウントの削除を依頼した。

 恐ろしいことに参加者はたいして悪びれてもいない様子で、バレちゃったのかぐらいの反応で仕方なしにアカウントを削除することに同意してきた。

 すべての対応が済んだのはすでに昼過ぎになってからで、一睡もしていないおれとミサキは早くに事態の確認にやってきたこれもまたほとんど寝ていない委員長しかいない委員室で、死に体になっていた。

「二人ともお疲れさま。ごめんね、こんな大変な対応をたまたま一年生の二人だけでやらせることになって……」委員長は自分の疲れもあるだろうにあくまでおれたちを慮る。「学務の偉い人とかへの説明とか、ここからの後処理は俺がやっておくから」

「すみません、よろしくお願いします……」

「します……」

 ミサキが息絶え絶えに言って、おれも倣う。

 そうしておれとミサキはへろへろになりつつも委員室を出た。

 太陽の光がゾンビを焼き殺すようにおれたちに襲いかかる。消えてしまったと思われた残暑はしかし十月のはじめになってまた頭を持ち上げている。

「……おなかすきましたね」

「おー。腹減ったな」

 そのぐらいしか言葉が出てこない。

「ファミレスいくか?」

「こんなボロボロでファミレスなんかいけませんよ」

 亡霊のような掠れた声で言うミサキは昨晩から引き続いて眼鏡で、そう言われればいつものキラキラしたリア充オーラは消え失せてしまい、ボサっとした印象がないでもない。

「寮帰ったらなんも食うもんねえんだよな……コンビニでなんか買ってくかな」

「えー、不健康ですよ……」

 ミサキの説教もいまは何も聞こえない。

「つってもいまからメシ作れるか?」

「それは……無理だけど。うち常備菜ありますし」

 ジョウビサイという言葉の響きに一瞬、疲労からの頭の働かなさも相まって思考停止したが、常備と菜に分解してようやく意味を理解した。

「いいなあ。てかミサキは本当しっかりしてるよ」

「節約してるだけですよ」

「いいお嫁さんになりそう」

「いまの時代そういうのセクハラですからね」

 ふだんなら非難がましくおれを見るミサキだが、いまはその元気がないらしい。

「あー、うち食べにきますか? たいしたものないですけど」

「え、いいの!?」

 思わぬ申し出に歓喜する。女友達の家に呼ばれて手料理をご馳走になるとかめちゃくちゃリア充っぽいじゃん。

「なんか変に喜ばれるとやだなあ……でもまあ、コンビニごはんは健康に悪いとか言った手前、一応」

「めちゃくちゃ腹減ったし、なんか食わせてくれるならめちゃくちゃ嬉しいよ」

「ま、じゃあ……いいですよ。でもほんとにたいしたものないですから、期待しないでくださいね」

 妙にテンションが上がったおれは、とぼとぼと歩くミサキの後を雛鳥のようについていった。

 向かった先は小さなアパートで、節約していると言っていただけあって、ミサキのアパートはボロいとは言わないが、歴史がありそう(オブラート)なこぢんまりとした建物だった。

「ちょっと待っててください。いいって言うまで絶対入ってきちゃだめですよ」

「うおー! 定番のやつじゃん! じつはこれから機織はたおる気なんだろ?」

「動詞みたいに言わないでください。織らないし」

 そういうとミサキはさっさとアパートの二階へ階段を昇っていき、部屋に入って、何やら二分ほどして戻ってきた。

「……片付けてきました。入っていいですよ」

「じゃ遠慮なく、お邪魔しまーす」

「……ほんとに遠慮ないなあ」

 すぐに戻ってきた様子を見るに、また通された部屋のさっぱりとした内装を見ても、おれの部屋とはまったく違う、ふだんから片付いた部屋のようだった。

「……なんかおれが思い描いていた女子の部屋のイメージと違うな」

「わるかったですね。ていうかそんなもの思い描かないでくださいよ気持ち悪い」

 ミサキはそれ以上口答えするのも疲れるといった様子で、そのままキッチンに向かっていった。

 じろじろ見るのも失礼だと思って横目でちらちら見ると(意味ないじゃん)、簡素だと思っていた部屋の中にわずかに少しずつ小さなクマの人形があったり、窓際に鉢植えもないのに茶色の謎の霧吹きがあったり、部屋の隅のパソコンが繋がれたコンセントの枠に無関係なシールが貼ってあったりする。

「あー……霧吹きあるけど野菜でも育ててんの?」

「それ、ヤスさんがいま嗅いでる部屋の匂いのためにあるんですよ」

「ファブみたいなもんか」

 おれが部屋の空気をスンスンと嗅ぎながら言うと、

「なんか腑に落ちないなあ……ていうか、そうやってわざわざ嗅がないでくださいよ!」

 ちょっと元気を取り戻したミサキが非難した。

「お前が嗅げって言ったんじゃん……」

「嗅げとは言ってないでしょ! 変態ですか」

 部屋の空気を嗅いでいたら、さっきから鳴っている電子レンジの低い音にともなって、なにかいい匂いがしてきた。

「これは……生姜焼きじゃな?」

「すごい嗅覚。これは変態確定ですね」

 感心したようなミサキが持ってきたのはまさに二皿の生姜焼きと、タッパーで解凍されたらしい白いご飯であった。

「こんなのしかないですけど……サラダも持ってきますからちょっと待っててくださいね」

「めちゃくちゃ豪華じゃん。てか生野菜なんか食うのマジでひさしぶりかもしれん」

「……いよいよヤスさんの食生活が心配になってきました」

 レタスとプチトマトのサラダは何食ぶんかに分けられて冷蔵されていたらしく、二つの小さな木皿に載せられて出てきた。

「すげー……丁寧な暮らしじゃん」

「絶対それをばかにしてるひとの口ぶりでしょ……もういいから食べましょうよ、お腹すいたし」

 二人で並んで小さなテーブルに座って、遅すぎる朝飯を食う。生姜焼きは作り置きといっても香ばしい匂いを立てていて、味付けは少ししょっぱいくらいのちょうどいいご飯のおかずである。

「うまい」

 それ以外なんも言えなかった。限界の空腹があるといっても、それにしてもミサキの料理はめちゃくちゃうまかった。

「どーも」

 ミサキはぶっきらぼうにそれだけ言って、自分もうまそうに肉を食っていた。その横顔は肉の喜びもあるだろうが、料理を褒められたのも確かにちょっと嬉しそうだった。



 ご馳走になって、おれは食後のお茶までご馳走になり、なんとなく居着いてミサキとぼんやりテレビを観ていた。

 お互いにさっきまでの緊迫感でまだ神経が興奮していて、眠れそうにない。昼下がりのワイドショーはどうでもいいニュースばかりを取り上げて、コメンテーターがああだこうだと言っていた。

 そのどうでもよさに託けて、おれたちもどうでもいい会話に専念してみる。

「ミサキは高校んときとかどんなやつだったの」

「ふつーでしたよ。まあ、学級委員とか生徒会とかいろいろやってましたけど」

「普通じゃないじゃん。でもそっか、なんかイメージ通りだな」

「……やだなあ、私もやりたくてやってたわけじゃないですし」

「立候補したんじゃないの」

「したけど……ま、そういうのあるじゃないですか」

「あー、まあね」

「ヤスさんは?」

「言いたくないくらい陰キャだった」

「イメージ通りですね」

「おい……」

「……でもヤスさんって、正直だし、なんだかんだいって優しいし。いいやつですよね」

「おっ、おれを評価する流れがきてる?」

「調子乗らないでください」

「はい……」

「私はあんまりいい子じゃなかったからなあ」

「そうなの? イメージないな」

「……そうなんです! いい子になろうとして私もがんばってたんですよ」

「いまのミサキはいいやつじゃん」

「私を評価する流れはいいですから。でもなんか、いい子になろうとして、それでいいのかなって最近は思います」

「いいんじゃねえの? だって、そんなミサキのことがみんな好きなんだしさ」

「……まあ、そうなんですかねえ」

「そうなんですよ」

「……」

「でも、いい子になろうとしたら、嘘つかなきゃいけないときもあるじゃないですか?」

「……そうか?」

「あるんですよ」

「……」

「だからね、そういう私があんまり好きじゃなくて」

「……そうか」

「……私、嘘つきたくないから、ヤスさんに言っとかなきゃいけないことがあって」

「うん」

「学祭までに、私また実家に戻らなきゃいけないかもしれないんです」

「……おう」

「お父さんのことです。だから、ヤスさんにはあんまり心配してほしくないけど、言っときます」

「わかった」

 おれは食べ終えた皿を洗って、ミサキの家を出た。相変わらず陽射しは強くて、寮に帰るまでの道のりが永遠に感じられるほどだるく、目が痛かった。

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