第8話 仕事してる人は全員死ぬってことは、仕事が人を殺すに違いない
ついに大学祭の直前を迎え、おれたち文化祭実行委員はあるひとつの修羅場を迎えていた。
修羅場というのはインド神話において魔族アスラと軍神インドラの争いの起きた場のことを言うらしい。虚な目でコーヒーを啜りながらミサキが半笑いで言っていた。
「じゃあ……おれたち何と戦ってるんだ?」
「なに言ってんですかヤスさん……そりゃあ、この終わりそうもない仕事の山が魔族でしょ」
「悪魔どもめ……滅ぼしてやる……」
おれは提出期限ごとに仕分けてある書類の山をつつきながら恨めしい声を出して言った。
あまりの疲労にどうしようもなくなってしまった人間たちが、何か壮大な仮想敵を立ち上がらせることでしか、もはやその気力を保てない。
「鬼……悪魔……ヤス……」
「なんでおれも入ってんだよ……」
そんな状況がそこにはあった。おれもミサキも正気を保つためかことあるごとに会話しているが、自分でなにを言っているかは、もはやよくわかっていない。
「ヤスさん、キリンってなんで首が長いんでしょう」
「そりゃ……長いほうが、なんかいいだろ」
「ああ、確かに……」
もはやよくわかっていない。
「……ゾウの鼻が長いのもそうだよな。長いほうがいいんだよ、何事も」
「念仏とかも……長いですしね」
「……ゾウの鼻といえば歌あるよな」
「ぞーうさん……ぞーうさん……」
「ぶはっ、なんだその歌!」
「く、ヤスさんが言ったんでしょ!? ふはっ、でも、なにこの歌……」
「おーはなが長いのね」
「そーうよ、かあさんも、長いのよ」
二人で歌い終えて我慢できずに爆笑したら委員長に普通に怒られた。
「どんな理屈だよ。母さんが長いからって子供の鼻も長いとは限らねえだろうがよ……」
「鼻が長いやつなんてろくでもないですよ、いっさい信用できませんね」
相変わらずもはや会話は成立していなかったが、おれたちは何かに対してめちゃくちゃ怒っていた。もはや怒りをぶつけるしかやりようがなかった。
それでも必死で一枚ずつ書類を仕上げる。書類が仕上がるごとに秒針は驚くべき速さで回転を繰り返し、分針はそれより少し遅く、だが見過ごせない速さで回り続ける。時針の回転におれたちは気付かないが、ふとした瞬間にそこにあってくれと願う場所にはなく、すでに想像した遥か先の数字を指している。
つまり、深夜だった。
「……一年生なんだし、あまり無理せず二人も早めに帰りなよ。戸締りの方法はこの前教えた通りだから。鍵の場所も覚えてるよね?」
「大丈夫っす」
「はーい……」
ついに委員長が帰った。おれとミサキはミスコンSNSの参加者対応、クレーム対応のために委員室にただ二人で残っていた。
「こんなことまで聞いてくんなよ……ちゃんとホームページに書いてあんだろ……?」
「世の中には文盲がいるんですよ、ヤスさん」
「んなこと言ったら怒られるぞ……」
ミサキはあまりの疲れにやや毒が入った状態で、むしろ無気力なおれはその毒にビビっていた。
「ヤスさん、この投稿ってなんの目的があるんですか? この新しい本を買ったってやつ」
おれはろくに画面を見ずに答える。
「本買ったんだろ。ミスコン参加者も大学生なんだし本ぐらい買う」
「違いますよヤスさん……見てくださいよ! 本なんかどこにも写ってないじゃないですか!!」
おれが億劫に画面を見ると、参加者が投稿許可を求めてきたそのツイートに添付されていた写真は、本を買ったという内容に反して参加者の可愛らしい自撮りだった。
「ミサキ、心の目で見てみろ。ここにちゃんと本が写ってるだろ?」
「ヤスさん早く目を開けてください。こんなところで眠ったら死にますよ」
ミサキに揺り動かされて気が付いた。
「ここは……どこ……?」
「ボケてないで仕事してください」
そんなん適当に許可出して予約投稿しとけばいいんだよ、というおれの言葉に納得いかなそうな顔をしながらミサキは言うとおりにする。
この作業は連日続いておれとミサキを苦しめているが、もとはといえばおれがやると言い出したことなのでミサキにはいつも早めに帰ってくれと言っている。
「またそれですか? ヤスさん一人に任せたらめちゃくちゃな問題起きるかもしれないでしょ」
だが、ミサキはそう言うといつも帰るのを拒否した。なんだかんだ言って面倒見がいいのがミサキなのである。おれはミサキのそういうとこが好きだった。
なんだかんだ文句を垂れつつ参加者やSNSユーザーの質問、メッセージの一つひとつに丁寧に答えていくと、だんだん自分がミスコン運営という人格のない存在のように思えてくる。
「あああああ、もうだめだ」
「……どうしたんですかヤスさん」
「おれって何者なんだ?」
「急に哲学ぶらないでくださいよ」
そう言いつつも、ミサキも目がぐるぐるしてきているのがわかる。
「コンビニ行こう。とにかくなんか食べたり飲んだりしよう。それで人間としての記憶を取り戻す」
「……そうしましょう」
思ったよりすんなりミサキは同意して、おれたちは委員室を出てコンビニへ向かった。
おれは手当たり次第にカゴに商品を入れる。ミサキはお気に入りの唐揚げ多めの弁当を買っていた。おれは吸引力の変わらないアレ並の吸い込みで煙草を吸って、限界まで加速してコンビニを出た。
ミサキは帰り道めちゃくちゃ大きな声でぞうさんの歌を歌っていた。おれは爆笑していた。
委員室に戻ると、当然、修羅場である。
修羅場・イズ・カム・バック。
「ケンタッキーってなんであんなに食べにくいんでしょうね……100年近くやってて、誰かが食べやすくしようとか考えなかったんですかね」
ミサキがPCを睨みつけながら唐揚げを口いっぱいに頬張って言った。
「食べにくいのがいいんじゃねえの。あの肉にかじりついて骨から肉をそぎ取ってるときだけ、人間って野生に帰れるんじゃねえの」
「狩猟時代に帰ってるんですか!?」
「帰ろうよ、狩猟時代に!!」
一狩り行こうよ。
変なテンションになってきたおれは買ってきたコンビニ袋をでかい音を立てて机に取り出した。
「野生に帰ろう!!」
そして、袋からロング缶のビールを取り出す。
「ちょっヤスさん!?」
有無を言わせぬ勢いでプルタブを開け、喉を鳴らしてそれを飲み込んだ。
「……野生にアルコールはないでしょ」
「……うるせえな」
おれはミサキの前にも黙って缶チューハイやらおつまみやらを並べていく。ミサキはじっとりした目でそれをただ眺めている。
「飲まなきゃ仕事になりません」
「……」
ミサキはおれと缶チューハイとを交互に見比べて、観念したようにため息をついた。
「今日だけですよ」
「ヤッター!!」
ミサキも缶チューハイを取るときには、もう笑っていた。
「おい、ヤス! もっと飲め!」
「ハイッ!!」
ミサキに命じられるまま、おれはどんどん酒をあおっていく。完全に酔っ払ったミサキは俺の飲酒を止めようとしていた影もなく、おれにいくらでも酒を飲ませようとしていた。
なんてことにはならず。
ミサキは何事もないような顔をして二本目の缶チューハイをあおっていた。
「ヤスさん、飲んでばっかりですけど仕事終わったんですか」
「今やってます……」
だが、状況自体はさして変わらず、おれはミサキに命じられるままメール対応に追われていた。ミサキのほうが飲んでるんですけどね。
おれはロング缶のビールを飲み干しただけですでにわりとあたたかくなってきているにもかかわらず、ミサキは缶チューハイ二本ほとんど飲んでしまっても顔色ひとつ変わっていない。あ、いま缶を握り潰したからもう二本飲んだらしい。
「あー、だめだ。目がごろごろしてきたからコンタクト外しますね……」
「えっ」
そう言うとミサキはなんかおしゃれなハンドバッグから革の眼鏡ケースを取り出した。
「ミサキってコンタクトだったんだ」
「そうですよ。言ってませんでしたっけ」
慣れた手つきで目からレンズを取り外す。それを見ておれはちょっと怖くなった。目に触るのって痛そうじゃん。
「それ痛くないの?」
「最初はちょっと違和感ありますけど、慣れたらたいしたことないですよ」
取り外されたレンズに興味津々にしていると、ミサキはちょいちょいと手招きしてきた。おれが手を出すと不意に外したレンズを手のひらに載せてくる。
「うおっ。くれんの?」
「使い捨てのやつだからいいですよ」
おれのコンタクトレンズへの新鮮な反応を、ミサキは楽しんでいるようだった。
「ヤスさんコンタクト見るの初めてですか?」
「うん。目悪くなったことないし」
まじまじとレンズを眺めると、そこには小さな汚れやなにかでできた模様が見える。それはけっこう綺麗で、光を透かして見ると絵のようだった。
「なんか恥ずかしいからあんまり見ないで」
「ミサキがくれたんじゃん」
またじっとりした目で見られる。
「なんでコンタクトにしたの? おれ両方つけたことないからわからんけど、明らかにメガネのほうが楽じゃん?」
「たいした理由じゃないですよ」
ミサキはまたはぐらかす。おれがこうしたことを聞くと、隠すようなことじゃないとおれは思うのに、こうして誤魔化されるようなことがあった。
それでもおれが好奇心からごねると、ミサキはしょーがないな、と言って答える。
「えー……だって、男の子ってメガネの女の子好きじゃないでしょ?」
頭の中がはてなでいっぱいになる。
「そんなことないんじゃねーの? ほら、メガネっ子とか言うじゃん」
「そんなのおたくとかそういう人たちの話でしょ?」
ミサキはナチュラルにオタクにひどいことを言っていた。おれは苦笑いして返す。
「つうかミサキがメガネかけたいか、コンタクトにしたいかって話じゃん。男の子が好きだからとか、あんまり関係なくね」
「関係大アリですよ。わかってないな、ヤスさん。リア充になりたいとかいうくせに」
ミサキは肩をすくめていた。
「モテたくてコンタクトにしたんだ」
おれが揶揄うようにそう言うとミサキは、
「まあ……そんなもんですよ。大学生なんて」
何か少し明るい、けれど後ろ向きな、たとえば諦めのような色がわずかに滲み出た声の色で、そう答えて、ミサキはメガネをかけた。
その寸前に見えたミサキの目は、少しも酔ってないと思っていたが、さすがに二本も飲んだ缶チューハイのせいか、少しだけ潤んでいた。
「あー……もうだめ。頭おかしくなっちゃうよ、ヤスさん。やめて……むり、もうできませんよ」
「まだいけるだろ……あと一回、一回だけでいいから……」
「やっ、むり、むりむり……し、しょうがないな……ほんとに一回だけですよ」
「よっし……いくぞ……」
おれが覚悟を決めると、ミサキは息を呑んだ。
「……おい貴様! その汚い手をどけろ!」
「ブハハハハハハ!!」
また爆笑してしまった。
「なんで笑うんですか……っく、これ! めちゃくちゃ名シーンじゃないですか!?」
「お前も笑ってんじゃん!? てか、ほんとに名シーンなんだけどいま聞くとめちゃくちゃおもしれーんだよ……」
ミサキが唐突に一人バック・トゥ・ザ・フューチャーをやり出して、おれはこのワンシーンに何故かものすごいツボってしまって、ミサキもしだいに笑うようになったのである。
「はあ……はあ……もうそろそろ帰りましょうよ、ヤスさん。もう三時ですよ」
「そ、そうだな……ひ、ひっ……あと一件だけメール対応したら、帰るから」
おれは笑いながらそう言って、パソコンを眺め、メールを開いた。ミサキのいうとおり、デスクトップの時刻表示はすでに三時を回っている。メール返信にしてもさすがにこの時間にはできないし、返信の文面だけ考えて、下書きに残して明日返信することにして──
「えっ……」
その漏れた声に、ミサキがまた笑って、なにまたボケてんですか、ほんとにいいから、もう終わらせて帰りますよ、とかなんとか言って自分もパソコンを覗き込む。
「なんですか、これ」
そのときはすでに、おれもミサキもすっかり酔いが冷めてしまって、ついでに眠気や疲労まで吹き飛んでしまっていた。
そこには、ミスコン参加者の上げているらしい見覚えのない自撮写真と、それに並べられている有名なアイドルの写真が並んでいて、
「ヤバいだろ、これ」
「……ちょっと、委員長に電話してみます」
このミスコン参加者の写真の合成疑惑についての問い合わせメールが、たった一件届いているのだった。
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