第7話 登場人物はすべて二十歳以上です(嘘)

 昼飯を食ってミサキと別れたあと、おれは休みの日には珍しく大学に向かっていた。行き先は馴染んだ日本文学分野の学生部屋だが、休日の閑散としたそこへの道程はまるで別のようだった。

 偽文学少年であるおれは、大学に通うついでに研究室に行って村上何某の小説を読むふりをすることはあっても、わざわざ休みの日まで学生部屋に行くことはないのだ。

「よく来て呉れたね、ヤスくん。今日は、ぼく主催の宴会だ。もう少しで栞くんが来て、全員が揃うだらう。そうしたら、一緒に出かけよう」

 おれを出迎えたのは、いやにツヤツヤしたブンガク先輩であった。

「あ、ブンガク先輩。そういえば仕事のほうは落ち着いたんですか?」

「うん、お陰様で無事に済んだ。ぼくの仕事のほうは当分の心配は要らない。これで栞くんにも心配をかけずに済むと思へば、気が晴れる」

 ブンガク先輩の笑顔は一言ひとことごとにツヤツヤと無限に照り輝くように見え、やつれて痩せたようにすら見えていたその風采は、以前に況してもふとましく豊かになっていた。

「ではあゝ、濃い酒でも飲まう。冷たくして、太いストローで飲まう。とろとろと、脇見もしないで飲まう。何にも、何にも、求めまい!」

 そして上機嫌が頂点に達したのか、ついに何かを詠唱し始めた。

「何言ってるかわかんないんすけど……」

「中也ですよね。ヤスくんが困ってますよ、道真ドーマ先輩」

 その鈴の鳴るような声に振り返ると、待ち焦がれた文学少女先輩だった。

「ああ、さうか。悪かった。気分が乗ると気に入った詩句を諳んじてしまうのは、ぼくの悪い癖なんだ。詩といふのは、一切が神への捧げ物だから。気に入ったものはいつでも心に浮かび上がるのだ」

「そ、そうなんすね……」

 何故かひさびさにブンガク先輩にドン引きして、おれたちは大学を出た。先頭を意気揚々と闊歩するブンガク先輩の姿は、まるで七福神を率いる布袋様のようだった。

 大学を出てからの道は慣れ親しんだものだった。さすがに夏まで通った大学の周りの地理については、おれもある程度は詳しくなっている。それでも、少しずつ、何か、知らない景色が増えてくる。

 しだいに道はどんどんうねり、いままで見覚えのないような細い路地へとずんずんゆく。ブンガク先輩はニコニコしながら何も気にせず、迷いのない足取りで進んでゆく。

 周囲を住宅街に囲まれて、まだ夕方というのに何故か日光が十分に差さなくなり、おれたち日本文学分野一行は少しずつ暗くなる道に飲み込まれてゆく。

 ずんずん。ぐんぐん。ずかずか。ぐいぐい。

 どんどん暗くなっていく。道はうねりうねりうねりうねってゆく。細くほそくほそくほそくなってゆく。

「え、栞先輩、いまおれたち、どこに向かって……」

「道真先輩しか知らないの。私たち日文の行きつけの居酒屋までの道は」

「そ、そんなことあるんすか……いや、変じゃないですか? だって、なんか……」

 空の色がヘンな気がする。道じたいが波打って、航海中の船の上を歩いているような気がする。

 ぼうっと、ただ歩く以外の意識を失ったような時間が、永遠か、あるいはもっと短い一瞬のあいだ続いて、気付けばおれたちは立ち止まっていた。

「いらっしゃい。いつも贔屓にしてくれて」

 店長らしき渋い男の人の声がぼんやりと聞こえる。

「やあ、こちらこそありがとう。今日は浴びるほど飲ませて貰うから、覚悟しておき給へ」

 ブンガク先輩ののほほんとした声に、おれは我にかえった。

 店に入って席に着くと、何も注文していないのに一斉に飲み物が運ばれてきた。それは高級そうな切子のデカい猪口と、一升瓶が五本ほどである。おれが思わずみんなを見ると、六人ほどの飲み会というのにこの五升の酒に誰も違和感を感じないらしい。

「こ、こんなに飲むんすか?」

「道真先輩、蟒蛇うわばみだから」

 ウワバミってなんだ、と思いつつもなんとなく言いたいことはわかった。これを全部飲むつもりなのか、ブンガク先輩は。

 店の中を見渡しても、他の客は一人たりともいなかった。妙な煙のような薄靄に包まれた店内は、怪しげな雰囲気でありながらも、どこか清澄で、居住まいを正されるような心地もして、おれは困惑する。

 と思うやいなや、ブンガク先輩は一升瓶の一本めに手をかけると、猪口を放り出してひとりでにがぶがぶと飲み出した。

「え、え……!」

 その間、まわりは一切一言も発さない。おれの大学生のイメージとしては、こうした一気飲みを前にしては周囲の人間はその蛮行を讃える賛辞コールを送るのが礼儀と思っていたので、その静謐と異様な空間にただ圧倒されていた。

 しばらく、その沈黙があって、おれがどうしたものかと戸惑うばかりでいると、本当に一升瓶を飲み干したブンガク先輩が瓶を静かに下ろし、音もなく机に置いた。

 ほどよく上気した桜色の顔となったブンガク先輩は、満面の笑みで俺たち一人ひとりの参加者の顔を見回すと、ゆっくりとした口調で言った。

「──さあ、きみたちも飲み給へ。今宵は、ぼくの奢りの大宴会なのだから」

 ふと隣の文学少女先輩を見ると、彼女の顔はまだ酒も飲んでいないのに、ほんのり赤らんでいて、宴会の主役たるブンガク先輩に微笑みかけるそのかんばせは、おれの憧れたいちばん美しい女性の顔だった。

 そのときはじめて宴会に大喝采が訪れ、拍手と賛辞が席じゅうを横溢する。おれは遅れて戸惑いながらも、弱々しい拍手をしたのだった。



 正直に言えば昨日のことはほとんど覚えていない。おれは勧められるまま飲み慣れない日本酒に口をつけたような気がして、それが寮で戯れに飲んだ日本酒の安酒の味とはまったく比べ物にならないほどの甘美な味だったような気がして、おれはブンガク先輩に負けないほどそれを次々に飲み干したような気がして、めちゃくちゃ上機嫌でいろんなことを口走ったような気がして、気付けば朝だった。

 寮の自分の部屋で目が覚めたことにまず驚いた。

 翌日、いつものごとく午前中から文化祭委員室で仕事をしていたおれとミサキは、ついに忙しさに耐えかねてコンビニに向かった。

 大学の前のコンビニはパン屋がやってる珍しいやつで、焼き立てのパンが売っているのが良いとミサキが言っていた。おれは煙草しか買ったことがない。

「ごめん、先戻ってていいよ」

「パン食べてるんでいいですよ」

「ここで食ったら行儀悪いだろ?」

「うるさいな、私買ったものはできるだけ早くその場で消費するのが一番いいと思ってるんですよ」

「どういうこと?」

 ミサキはろくろを回しながら言った。何故か説得力のある口調だった。

「コンビニのこういうパンとか、ホットスナックとかも、そりゃ普段はやりませんけど店の前で食べるのが一番美味しいと思ってますし、本屋さんで買った本も店から出たらすぐ開けて帰り道で読むのが一番おもしろくないですか?」

「なんか、わかる気がするのはなんでだろうな」

 そうは言いつつ、おれはコンビニの前の灰皿に陣取って煙草に火をつける。ミサキはちょっと離れたところでまだ温かい惣菜パンを食べ始めた。なんだかんだいって待ってくれる気遣いだろう。

「はああ、やっと生きてる感じだ」

 煙の方向に気を遣いながら大きく息をつくと、ミサキが不意に尋ねた。

「ヤスさんって一年生なのに煙草吸ってますよね」

「おう、今更ツッコまれると逆に驚くな」

「そんなに言いたくないですけど、よくないことじゃないですか」

「いやおれ、浪人してるから」

「うそだ」

「登場人物はすべて二十歳以上ですって書いてあっただろ?」

「はあ、それなんてエロゲですか」

「うわっ、それ口に出して言う人いたんだ! ていうか、え、ミサキさんってそういうネタいける人なんですか、初耳」

「やったことはないから! もとはといえばヤスくんが出したネタでしょ……や、だめだ。なんか言い訳すればするほど墓穴が深くなるような気がする。いまのなしでお願いします」

 ミサキの何かがバレたような気がするが、おれもアニメとかは好きなのでべつに差別とかはしていない。高校時代クラスでおれと同じように浮きながらも、隅っこの方で団結して暗いまま蔓延っていたオタクの奴らはちょっと気持ち悪かったけど。

「……そういえば、前言ってたヤスさんの好きな人ってミスコンの人なんですか?」

「エ、ナンデ?」

 思わぬ方向から飛んできた予期せぬ反撃に思考停止する。

「だって最近ミスコン関係の仕事増えてきて、ヤスさんって他の仕事よりだいぶ緊張してるし、SNSの投稿内容の確認してるときなんかニヤニヤしてるし」

「そんなことねえだろ!?」

 ミサキはおれの反応を見てそれこそニヤニヤし始めた。

「あーあー、ヤスさんのくせに、ミスコンに出るくらいの美人さんを追っかけてるなんて。身の程知らずのひとですねえ」

「うっせえなあ!? や、べつにいい感じ、だし? 仲も悪くないし!?」

 そういうとミサキは本当に驚いた顔をした。

「へえ! 片想いとかじゃなく、本当にいい感じの人なんですか?」

「そ、そうだよ……いや、おれの勘違いかもしれんけど! たぶん、仲は悪くない、と、思う」

 そうだよな、ただの先輩後輩よりはラインもしてるし、いろいろ話してると思う。

 そう自問自答していると、ミサキが途端に不平不満たらたらの顔になった。

「はあ、生意気だなあ。私にも彼氏いないのに、なんでヤスくんにいい感じの相手がいるんでしょうね」

「それは知らねえよ……てか、お前かわいいし性格もめちゃくちゃ良いのに、それこそなんで彼氏いないんだよ」

 思わず素朴な疑問を言って、しまったと思った。

「え、ヤスさん……私のことかわいくて性格めちゃくちゃ良いと思ってたんですか?」

 一転してまたニヤニヤ顔に戻ったミサキは、鬼の首を取ったような言い方でおれを責める。おれは煙草をなんとか深く吸い込んで、落ち着きながら誤魔化そうとする。

「いや、べつに客観的に言っただけというか……べつにおれがそう思ってるからどうとかじゃねえよ!?」

 よく考えたら全然誤魔化せてないなこれ。

「は、ははーん、ヤスくんにも見る目あるじゃないですかー? 私の魅力に気付くなんてね」

「……余計に恥ずかしくなるから茶化すなって。や、実際ミサキはすげえだろ。なんか、おれの理想のリア充って感じ」

 ミサキは首を傾げる。

「リア充って恋人いる人のことじゃないんですか?」

「そう使う人もいるかもだけど、おれの中では違うんだよな。なんかさー、明るくて、優しくて、みんなに好かれるようなやつのことだよ」

「……ふうん。ヤスくんは、私をリア充だと思ってるんですね」

 ミサキの声はちょっとだけ重かった。そのことを怪訝に思いつつもおれは素直に答える。

「や、だってそうだろ? 正直言って憧れるよ」

「ヤスさんはその、ヤスさんがいうところのリア充になりたいんですね」

「そりゃ、なりたいな。みんなに愛されるおれになるには、もっと努力が必要だろうけどさ。大学入って少しずつ変わろうとしてきたし、最近じゃ友達も、ほら、いてくれるし……」

「じゃあ、本当のヤスさんのことは誰が愛してくれるの?」

「え?」

 ごく小さくつぶやかれたその声は聴こえないほどで色を失っていて、その表情もいつもの微笑に紛れて、何も見えなかった。一瞬だけ沈黙があって、ミサキは声をあげて笑った。

「きっと、なれますよ! ヤスさんの言うとおり、最近はもうすっかり優しくて明るくて、リア充らしくなってきましたから!」

「そ、そうかな?」

 行きましょ、と促すミサキの後を追いかけて、おれは手元を見ないまま灰皿に煙草を押し当てた。

 じゅう、と水に落ちて消えた火種の音がどこか嫌な感じがして、おれは灰皿を振り返ったが、煙草は間違いなく灰皿に落ちていて、やはり火種はどこにもなかった。

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