第3話 やる気出てきた←だいたい嘘

 講義を終えて学生部屋に向かう。大学が始まってひさびさに文学少女先輩に会えると思うと、自然と足取りも軽くなるというものだ。

 学部を問わずにすべての学生が出入りする共通の棟から、文学部の棟に移動する。文学を志す学徒の集うその校舎は、どこか疲れたような様子でキャンパスでも奥まった場所に佇んでいる。

 彼を見ながら歩く道のその途中には、大きな木が何本も植わっている緑豊かな広場がある。大学全体の催し物のときには、中心として使われる場所だ。

 そこにはいくつもの立て看板が立てられていて、それぞれにおのおの何かの宣伝をしている。そのどれにも興味のないおれは、ぼうっとその広告の色だけを流し見している。

 文化祭で劇団の公演があるらしい。知った途端におれは、夏の気怠い身体の重さを振り払うようなやる気の高まりを感じた。

 文化祭。これはやるしかない、とおれは思った。

 夢見心地になりつつ、劇団謹製のアーティスティックな美術の、おれにはよくわからない色彩の前に不釣り合いなアホ面でボケっと突っ立っていると、不意の声におれは驚いた。

「なに見てんの」

「あ、珍しいっすね。ギャンブル先輩」

 大学で彼を見かけるのは非常に珍しいことだった。というのも彼はほとんど授業に出る姿を見かけず、いつどうやって単位をとっているのか、いったい誰も知らないのである。

「劇団か。知り合いに劇団員が一人いるけど、そうとうブラック体質らしいよ。公演前は休みないらしい」

「へええ。そういうサークルって本当にあるんすね」

 おれは結局サークルに入っていなかった。それはあのめちゃくちゃな寮長と新歓を荒らし回ってしまった前科もあったが、シンプルに自分に合うサークルが見つからなかったというのもある。

 明るすぎる人々の中には気後れして入っていけないし、とはいえ暗すぎるサークルに混ざるのは屈辱的でなんか嫌だ。仮にもリア充を目指そうという男が文芸サークルとかの片隅で燻ったまま大学生活の貴重な四年間を浪費するわけにはいかないのである。

「お前もブラックサークルとか、ブラックな団体に捕まらないように気をつけろよ」

「あー、気をつけます」

 ギャンブル先輩のそんな珍しい言葉におれが首を傾げながらも頷く。

「だが、ギャンブルのこの言葉が、のちのヤスの伏線となるとは、いまこのときは誰にもわからなかったのである」

「おい誰だいまおれに勝手に伏線張ったの!」

「あ、寮長じゃん」

 通りすがりの外国人寮長であった。おれのサークル未所属の原因の一端を作っておきながら、こいつだけは本当に生かしてはおけない。



 学生部屋にはいつものメンバーがたむろしていた。各々に予習を進めたりおやつを食べたりしている面々の中に、しかしいつもと違って彼女がいなかった。

 そう、肝心の文学少女先輩である。

「アレッ、今日は栞先輩いないんですか?」

 おれの不用意な一言にぬらりと部屋の奥から現れたのは、不気味な雰囲気の男だった。

「ああヤスくん、よく来たね。きみも熱心に学生部屋に足を運んで読書とは大変殊勝なことだ。まだ暑いだらう、いま茶でも淹れさせよう」

「え、いえ、いえいえそんなことは。それと、おかまいなくです」

 本当にそんなことはないのだ。おれは慌てて先輩に誤魔化しを入れる。彼はブンガク先輩と呼ばれる、日文分野の大御所ともいえる人物で、大学四年生にしてたっぷりと髭を蓄え、年齢不詳の文学の怪人である。

 少年のような純朴な雰囲気を漂わせていながら、同時にすでに老獪な魅力を放っている。教授連中にも一目どころか何目も置かれていて、置かれたモクだけで五目並べから五目チャーハンまでひと通りできてしまう(?)らしい。学部生にして教授と共同研究までしているという話だ。

 実のところ、十年前から学部生としてこの研究室にいるだとか、いやいや百年前からいたとか、百年前じゃ旧制高校だから学部生じゃなく高校生だったはずだとか(字面上は何故か若返っている)、好き放題言われているブンガク先輩だが、それもやむなしというほどのミステリアスなオーラを備えているのである。

 というかナチュラルにおれとブンガク先輩にお茶を用意しているけど、彼に付き従っている付き人のようなのもいったい何者なのだろうか。

「そうだった、栞くんのことだね。まだ二年生だが、彼女も毎日ここに来ては論文を読んだり、研究書を読んでゐるやうで感心するよ。今日はどうやらゐないが、ふむ、ひとつ調べてあげよう」

 そう言ってお茶を運んできた先輩学生に目配せすると、彼は速やかにどこかへ電話をかける。ひと言、ふた言とおれには聞こえないボリュームでわずかに会話が交わされると、付き人は電話を切ってブンガク先輩にそっと耳打ちした。

 そのどこか見てはいけない光景のような様子を、おれは運ばれてきた冷たい麦茶で喉を濡らしながら、おずおずと見つめる。

「待たせたね、ヤスくん」

「ぜんぜん待ってません。いやマジで」

 ものの数分の出来事だった。

「ヤスくん、注意して聞きたまへ。結論から言へば、彼女は大学の文化祭の、ミス・コンテストなるものに出場するために、準備してゐるらしい」

「ミス・コンテスト!!」

 というと、アレか。ミスコンというやつか。文化祭のリア充定番イベントの中でも最たるものである、ミスコンなのか。

「このとおり、ぼくは世人から隔絶された暮らしだから、そのミス・コンテストなるものが如何やうかは知らないが、あの賢明な栞くんのことだから、文化祭にふさわしく文明的で豊かな催しなんだらうね」

 たぶんブンガク先輩が考えるよりもう少し、いやずっと軽薄でチャラチャラしたイベントですけどね。

「あの、ブンガク先輩。おれ、もうひとつ頼みがあるんです」

 おれがその頼みを告げると、ブンガク先輩は静かにひとつ頷いた。おれは丁寧に礼を言って学生部屋を出た。



ミサキ:りんごバターフラペチーノのみました。タンブラーありがとうございます。


 学生部屋からようやく帰ってきた寮のたまりでいつものごとく課題から目を逸らしつつ煙草を吸っていると、初めて見る名前からメッセージが来ていた。

 遅れて写真が送られてくる。そこには見覚えのある透明なタンブラーに、なみなみと注がれた飲み物が写っている。

 底のほうに例のりんごバターと思しき黄色いクリームが沈んでいて、中間層には白いミルクのような層があり、上段にはキャラメルソースがかかっているようである。

 特筆すべきはそのさらに上にこんもりと盛られているらしい生クリームだろう。おれはその量の多さに瞑目し、その膨大な熱量カロリーを想った。

 よく見れば、その写真はカフェらしい背景に、飲み物がたっぷり注がれたタンブラーを持った女の子の写真のようである。しかし首から上の部分は編集されているのか、写真の全体サイズはスクエア上に切り取られており、彼女の顔は見えなかった。

 彼女の手はゆるくタンブラーを掴んでいるだけで、もう片方の手はピースをするでもなく所在なさげにだらりと垂れていて、よく考えれば妙な写真である。

 友達に撮ってもらったのだろうか。それにしてもプレゼントしたものを使ってもらっているというのは、それだけで嬉しいものだ、とおれは痛感した。


ヤス:こちらこそ使ってくれてありがとう


 万感の思いを込めてメッセージを返すと、すぐに彼女はかわいいクマがぺこりとお辞儀するスタンプだけ返してきた。

 思い上がりかもしれないが、もしかしておれと彼女は友達になれたんだろうか。

 なんか、ちょっとやっぱり舞い上がってしまうくらい嬉しいな。



 翌日は休日で、昼過ぎに起きたおれは約束の場所に向かっていた。

 ブンガク先輩のお付きの人にメッセージで簡潔に伝えられたその場所は、サークル棟の一角に居を構えており、おれが中に入っていいものかと逡巡している今の間にも、休日というのに忙しそうな二、三人が出入りしている場所だった。

 おれがようやく決心してドアをノックしようとすると、入れ替わりで部屋から出てきた人がいる。

「おう、いらっしゃい。もしかしてきみがブンガク先輩の紹介の……」

「ハイ! ヤスです、よろしくお願いします」

 彼は感じの良さそうな人で、明るく染められた短い髪を嫌味にならない程度のワックスでセットしており、すらりと伸びた手足が印象的だった。

 おれを見て爽やかに、にこりと笑ったその笑顔は、まさにおれの理想とするリア充そのもので、思わずおれが女だったらこの人を好きになっていたかもしれないと思った。

「さあ、入って入って。散らかってるけど、お茶ぐらい出そうじゃないか」

 おれはありがたくペットボトルの緑茶をもらって、まだ暑い外の空気を振り払った。

「さてね、まずは自己紹介させてもらおうかな。俺は文化祭実行委員長をさせてもらってる。みんなには委員長って呼ばれてるが、まあきみも好きに呼んでよ」

「おれは日文一年のヤスです。いちおう、まあ、寮に住んでます」

「へえ! あの寮にね、楽しそうなところだよね」

 おれは委員長の気さくな反応に実のところかなり驚いた。何故なら寮に住んでいると言ってこれまで好意的な反応が返ってきたことなどなかったからである。

「きみのことはある程度はブンガク先輩から聞いているけど」

 というか、この人も四年生のはずなのにブンガク先輩のことは先輩呼びなのか。ブンガクさんほんとはいくつなんだよ。

「文化祭実行委員のお手伝いをしてくれる、ってことでいいのかな?」

 そう、今日この文化祭実行委員会を訪ねたのは、まさしくそのためなのである。おれはミスコンに参加するという文学少女先輩のために、何かできることはないかと必死で考えた。

 というかもっと言えば先輩のために何か大きなことを成し遂げて、先輩におれを好きになってもらおうという遠大なリア充作戦を計画したのである。

 名付けて、ミスコン大作戦〜文学少女先輩を大学で一番の美少女にして、ひいてはおれの彼女になってもらおう作戦〜である。

「もちろんです。文化祭実行委員の活動には前々から興味を持っていて、おれもこの大学の一員として、みんなの役に立つ活動に参加したいですし、高校の頃から文化祭という、なんというかお祭り感? が大好きだったので、おれもその輪に加わりたいんですよ」

 だいたい嘘である。高校時代は文化祭の日は三年間全部休んでいたし、準備に参加したこともない。

「うんうん、いい心がけだね。素晴らしい頼りになる一年が入ってくれそうで嬉しいよ」

 委員長は相変わらずニコニコしておれを見ている。なんとなく申し訳なくなっておれも笑い返した。

「一年生といえば、フェスティバルのほうはどうだったんだい? 俺は付き合い上そっちにもかなり顔見知りがいるんだが、きみは実行委員とかはしていなかったようだけど」

「エッ」

 フェスティバル? ってなんだ?

「ああ、その日は体調を崩してしまって!! 本当に楽しみにしていたので本当に残念だったのですが、熱が出るわ蕁麻疹が出るわ全身から血が噴き出るわで大変だったんですよ!!」

「ええっ、本当かい? それは大変だったね、というか、生きててよかったね、ヤスくん」

 またおれは嘘をついてしまった。そろそろ死にたくなってきた。

「でも本当に残念だね、フェスティバルは一年生の一回しか機会がないのに。クラスの出し物に参加したりするのも楽しいし、軽音サークルの一年生有志で組んだバンドなんかも、毎年おもしろいしね」

 ああ、思い出した。フェスティバルというのはアレだ、毎年文化祭とは別で一年生だけが大学からちょっと離れた公園を借りてやる、文化祭もどきのようなものだった。

 確か夏休みの初めのほうにあって、おれはダルくて普通に行かなかったのだった。

「そうそう、フェスティバルといえばきみと同じ一年生だが、文化祭実行委員にもきみの同期で、フェスティバルの実行委員あがりの子が一人いるから、うちの詳しい活動内容なんかについては、その子に聞くといいよ」

「あ、そうなんですか。助かります」

 おれがフェスティバルをダルくてサボったことがバレないように、とにかくその子にもおれの病欠という嘘だけは貫き通さねば。

「今日は……ええと、来てないみたいだね。本当は今もそこそこ忙しい時期だから、すぐにでも即戦力として参加してほしいんだが、仕方ない。次の予定はメッセージで送るから、連絡先を交換しよう」

 おれと委員長はその場でラインを交換して別れた。おれはこの忙しい実行委員の仕事に武者振るいしつつも、きっとリアル充実した大学生活の訪れを感じてワクワクしていた。



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