第2話 夏とかいうバカが考えた季節

 今年からおれの住まいになったこの土地は、周囲を山に囲まれた盆地である。関東は海沿いの湿っていて夏場はスチームサウナみたいなコンクリートジャングルからやってきたおれは、かねてから勝手に避暑地の涼しくて過ごしやすいイメージを持っていたこの土地にどうやら過大な期待を抱いていたらしい。

「嘘じゃん、あちいじゃん」

 ともあれ、ノートをくれた聖人のおかげで無事にテストを乗り越えたおれは、いよいよ夏休みに突入していた。

「盆地は蒸すよ、ヤス。お前のお国がスチームサウナならここはさながら圧力鍋よ」

「蓋はさすがにしないでくれよ」

 歓迎会の飲み会で親しくなった先輩と、おれは寮のたまりで何をするでもなくだらだらしていた。

「海ないぶん、夏場も多少は乾いてるけど暑いし。冬場はこれから経験するだろうけど、めちゃくちゃ寒いから大変だよ」

 優しげな風貌で草食系っぽいが、バンドをやっているらしい先輩のしみじみとした言は、どこか実感に満ちていた。

「先輩は何年目なんですか、ここ」

「……もう、五年になるかな」

「ちょっとエモげに言うなよ」

 バンド先輩はバンド活動に精を出している、というよりは哲学専攻で人生に迷走して、いまだ卒業に目処がつけられずにいる。

「ヤスはこんなふうになるなよ。ちゃんと単位取って卒業するんだよ」

「……肝に銘じます」

 じっさい、すでに留年の危機に一度は瀕した身であった。

 窓の外を眺めると、寮の中庭がみえる。

 たまりの窓には壁伝いに茂る植物のツタがこれでもかと絡みついており、ちょっとしたフォトスポットみたいになっている。

 整理されていなくてやたら汚くて、ろくでもないモラトリアムの箱庭セットみたいな場所だ。

「ヤスは実家帰らんの?」

「やー、交通費もったいないんで」

「一年目の夏休みなんか親御さんもみんな帰らせたがるし、一年生のほうもだいたい帰りたがるもんだけどなあ」

「まあうちは放任ですから」

 もとは教育熱心な親であったが、いろいろあって今はほとんど不干渉である。

「あー、あの……そういえばバンド先輩って彼女いるんですか」

「ちょっと前まではいたけど、今はフリーかな」

 先輩は気色わるいしなを作っておれを見る。

「いやべつに先輩のことは狙ってないんで」

「ああ、そうなの。じゃあなによ」

 急にもとに戻る先輩はちょっと不気味だった。

「なんでもないんですけど、ちょっと女の子にお礼しなきゃならないことがあって」

「おいおい、ヤスくんにも春が来たか!?」

「もう夏っすよ……そうじゃなくて、たまたま全然知らない女の子に講義のノートもらえることになったんですよ。それでだいぶ助かって」

「へー……」

 バンド先輩は感慨深そうに顎を撫でたあと、おもしろそうに言った。

「それでわざわざあらたまってお礼するの?」

「わざわざ、ですかね?」

「大学でノートもらうくらいのことわりと普通だからなあ、なんか高校時代が懐かしくなるよ」

 おれにとっては懐かしむ高校時代などない。もちろん高校で女の子にノートを借りたことなどないし、なんなら男にもない。

「ま、まあ、お礼は個人的にしたいんすよ。友達増やしたいし……で、女の子って何もらったら喜ぶのかなって」

「そだなー、バンド仲間の女の子の誕生日とかにはよくおすすめのバンドの新譜とか、そういうのあげてるかな」

「おー! や、でも相手のことなんも知らん場合はどんな音楽がいいとかわかんないですよね」

「まあ、そうだね。そこまで初対面に近い相手におすすめのCD渡すやつは逆に怖すぎて見てみたいけど」

「おれをヤバいやつにしようとしないでくださいよ」

 バンド先輩は愉快そうにけらけら笑った。

「ま、じっくり考えてみれば? 贈り物ってさ、相手のことを考えてモノを選ぶ時間が、かえっていちばんの贈り物って言うじゃん?」

「おおー! なんかいい言葉! 誰が言ったんですか?」

「俺だね」

「やかましいわ」



 夏休みの間じゅう、愛しの文学少女先輩に会えない日々の続いていたおれは、ほとんど欠乏状態に陥っていた。

 そして茹だるような夏の日、相変わらず起き抜けにだらだらとたまりで過ごす無為な昼過ぎに、SNSで見かけた一枚の写真を機に一大決心をした。

「花火大会に行こう!!」

「は?」

 そこにいたギャンブル先輩と外国人寮長がまったく不意のおれの叫びに戸惑っている。

 おれは自信満々でスマホの画面を見せた。

「あー、ちょっと前にそのへんの川でやってた花火大会じゃん。あれ人多くてだりーんだよな」

 と、寮長。

「俺はもう人間は信用できない。六号機の次に信用できない」

 ギャンブル先輩は訳のわからないことを口走る。

「スロットの話はいいんですよ! だからね、花火大会に女の子を誘おうって言ってるんですよ!!」

「はあ……」

 おれの鬼気迫る勢いとは裏腹に、ギャンブル先輩と外国人寮長のテンションはガラの悪い街を走ってウーファーの効いた音楽を車内から地鳴りのようにドゥンドゥン響かせている改造車の車高ぐらい低かった。

「つっても俺はセフレしかいないし、そいつとは別に花火大会とか行く感じじゃないからさ」

 寮長はさらにガラの悪いことを言って難色を示す。

「つっても向こうはけっこう乗り気じゃん」

「おい、言うなよ。俺がその気じゃないっつってんだろうが」

 意外に目敏いギャンブル先輩のツッコミに寮長はうろたえながらも反撃した。

「つーか、ヤスは誘う相手なんかいるのかよ。こんなとこで夏休みじゅうだらだらしてんだから、どうせ彼女いないだろ」

「うるさいですね……」

「いないんじゃん。じゃあパチンコ行くか」

「行きませんよ! 今日という今日は絶対パチンコ行きませんよ! 昨日も天井単発でかなり負けたんだから!!」

「天井ってのはな、本当はないんだ」

 ギャンブル先輩が遠くを見つめ始めるのをなんとか引き戻すように、おれは声を張り上げた。

「あーわかりました! おれがいまからラインして、女の子呼びますよ! そしたら先輩たちもそれぞれ女の子に声かけてくださいね!」

「まあ……いいけど」

 二人の反応は意外で、それぞれ互いに何か示し合わすように目を合わせたあと、わりに素直におれの提案を受け入れた。

 おれは喜び勇んでスマホに向き合い、勢いのままにメッセージを送った。もちろん文学少女先輩宛てにである。


ヤス:先輩今夜空いてますか!? 花火大会とか行きませんか!!


 メッセージが無事送信されたのを見届けて、返事を待つしばらくのあいだ、おれと先輩たちはまただらだらと煙草を吸っていた。

 たまりの灰皿にはぎっしりと吸殻が積み上げられており、いつしか先輩に影響されて吸い始めたおれの煙草の銘柄のフィルターも、立派に灰皿の一角を占めるようになっていた。

 二本ほど吸って、ギャンブル先輩がコンビニに煙草買いに行こうかと言い出したころ、おれのスマホが鳴動した。

「あ!! 返事来ましたよこれ」

「……まあ見てみろよ、ヤス」

 やはり両先輩のテンションは鬼ほど低い。おれはそんな沈んだ空気を払拭するように、意気揚々とスマホを確認した。


栞:ごめんね、今日は用事があって行けないや。


 一瞬で場の空気がどっしりと重たくなる。しばらくの沈黙に耐えかねたように、寮長が言う。

「な?」

 その一言におれは思わず反駁した。

「な? じゃないですよ! まだなんも言ってないじゃん!!」

「なんも聞かなくてもわかるんだよなあ」

 ギャンブル先輩まで寮長に追従する。許せない。けっして許さない、このダメ人間ども。

「おれ……おれはっ、あなたたちと違って一歩踏み出したんですよ!? リア充の夏の大定番、女の子と花火大会を楽しむために、人類にとっては大きな一歩を踏み出したんだ!!」

「結果、わかりきってるもんなあ」

「人類にとっても小さいだろ」

 こいつら……絶対に許さない。

 結局のところ、おれたちはまた変わらずだらだらと煙草を吸い、しばらくして思い出したように煙草と遅すぎる昼飯を買いにコンビニへ行ったのだった。

 取り残された灰皿の吸殻は、まだうっすらと火種が残っていて、切なげに細い煙を立てる。まるでおれみたいだった。



 コンビニから帰ってそろそろ夕方という頃になってもおれはまだ落ち込んでいた。用事があるというのだから仕方ないのだが、やはり好きな人と会えないというのは堪えるのだ。

 たまりにはバンド先輩だけがいた。おれはいつものようにとりとめもない話をしながら、先輩の手巻き煙草にたかっていた。変な味の手巻き煙草を買うのが趣味のバンド先輩は、たまに自分で買って気に入らなかったものをおれに分けてくれるのだった。

「あーあ、こんな燻んだ火より綺麗な花火が見たかったなあ……」

「花火なんかなにがありがたいのかね。俺はよっぽど煙のほうがありがたいけど」

「バンド先輩には風流がわからないんですよ!」

「謂れない暴言よ」

 おれはほとんどへそを曲げていた。

「バンド先輩だけじゃない、寮長もギャンブル先輩もそうなんだ……女の子と花火大会に行って、リア充らしい大学生活を送ろうというモチベーションが欠片もないじゃないか! おれも先輩たちも、このままこの寮でだらだら腐って死ぬんだあ!」

「それは普通にやだな」

 おれがウンウン唸っていると、バンド先輩は耐えかねたのかおれに尋ねる。

「それにしてもさ、どうしてそこまでヤスくんはリア充にこだわってんの? 彼女ほしいとかヤりたいだけとかそういうことならシンプルでわかるんだけど、そんなんでもないでしょ?」

「あー……まあ、別に性欲ないとかではないっすよ。そりゃね」

 おれはいちおう釘を刺しておきつつ、悩みながらも話し始めた。

「おれ、高校時代めちゃくちゃガリ勉だったんすよ」

「えっ、うちの大学いるのに!?」

「失礼でしょうが!!」

 けらけらと乾いた笑い声を聞きながら、おれは咳払いして話をもとに戻す。

「だからね……まあわかると思いますけど、ガリ勉だったけど、勉強は出来なかったんですよね。めちゃくちゃな進学校で、中学まではそりゃ本当におれも優秀だったんですけど。高校入ってからなんでか成績落ちちゃって。というか、本当はそこまで頑張ってなかったのかな。だんだん頑張ってるフリだけ上手くなった感じ? ってゆーか」

「あー……わかるかも」

 バンド先輩は笑いをひっこめて、今度は真面目に聞いてくれるようだった。

「それで、進学校で、自分ではガリ勉だったつもりだから、遊んでるやつとかチャラチャラしたやつが嫌いだったんです。本当はそいつらのほうがずっと成績よかったし、要領よくて遊びも勉強も両立できてたやつらってだけなんすけどね」

 バンド先輩はもう何も言わなかった。

「そんなんだから、おれはどんどんクラスで浮くし、当たり前に友達できなくて、プライドばっか高くて勉強も一人でドツボにハマるから、どんどん成績も落ちていくしで、悪循環? だったんですよ。いま思えば、ほんとにバカだったなあって思うんですけど」

 おれは高校時代のあの頃を思い出すと、いつも寒気がする。鳥肌が立つ。自分の愚かさに。自分のどうしようもなさに。

「でも、高三の夏になって、おれに話しかけてくれたやつがいたんです。そいつは体育会系の部活やってて、友達もたくさんいて、成績も部活に全力だったわりにはちゃんとしてて。そいつが高三の夏、部活をはやく引退したからってクラスに顔出すようになって。なにを思ったのかおれに声かけてくれたんです」

 それでも、あのころ光はあった。確かにおれを照らしてくれた光はあったのだ。

「そいつはいままで部活ばっかでほとんどクラスのこと知らなかったから、おれが浮いてることも知らなかったんでしょーね。言っちゃえば偶然ですよ。でも、おれにしてみれば本当にありがたかった。あんまり突然だったんで、おれもそいつとだけは肩肘張らずに自然に話せるようになって、卒業までそいつとだけは、たぶん、友達だったと思います」

「いいやつじゃん」

「ほんと、そーっすよ、ね!」

 おれはからっと笑った。いま浮かべられるこの笑顔はたぶん、全部あいつのおかげなのだ。

「だからね、おれはあいつみたいに、誰かに必要とされる人になりたいんです。ただの偶然だった、あいつはおれを助けようなんてつもりなかった。それでもおれは勝手に救われたんですよ。だから、おれがあいつみたいに明るくて、誰からも愛されるリア充になれば、いつかおれも誰かにとって、おれにとってのあいつみたいな人になれたらなーって……」

「いいんじゃない?」

 バンド先輩は優しそうに笑っていた。それが嬉しくて、おれも笑った。

「ちょっとクサい話しすぎましたかね……」

 と、その時、たまりに乱入してくるふたつの影があった。

「死ね! ヤス!!」

「ハァ!? なに、なんすかこれ!?」

 現れたのは寮長とギャンブル先輩で、彼らはおれに向けて火が噴き出す手持ち花火を発射していた。

「アツっ!? アッツ!! やめてくださいよマジで!? それ人に向けていいもんじゃねーから!!」

「花火大会だぞオラァ!!」

「ヤスにはここで死んでもらう」

 寮長はめちゃくちゃテンションが高く、ギャンブル先輩はなぜかヒットマン風の渋い声を出していた。

 おれは窓から中庭に逃げ込むが、二人とも追って花火を向けてくる。いつの間にかバンド先輩も混ざってそこはまるで地獄の様相を呈していた。

 そうして、おれの夏が終わった。無為なようでいて、なんか充実してたような、でもやっぱり無為な夏休みであった。



 夏休み明け、どんなに身体が拒絶していても講義の開始日はやってくる。

 おれはひさしぶりの、だがいつも通りでどこか馴染んだ道を歩いて、大学にたどり着いた。まだまだ猛暑の夏日の最中で全身から噴き出すように汗が滴り、背中に張り付いたティーシャツが気持ち悪かった。

 講義室に着くと、エアコンでキンキンに冷やされた室内の空気がおれの身体を一気に冷やした。

 おれは今朝から、というかこの日を迎えるまでの数日間、ずっと気掛かりだったことをまず確認した。

(よし……!)

 いつもの席に座る。新たに履修登録期間が始まり、これまでの講義は終わってしまって、新しい講義を受けなければならないけれど、おれは相変わらずこの席に座っている。

 そして、それは彼女も。

 いつもの景色はなにひとつ欠けることなく、ぼんやりとした教授のどこか気の抜けた喋りも、最前の席を必ず一列空けてまばらに座るやる気のない学生たちの居眠りも、そして、右手前に座る彼女のノートの端正な書き込みも。

 おれはほっと息をついて、いつものように何ともない考えごとをしながら、それなりに授業の内容に聞き入っていた。

 ぼうっとしていると気付けば講義が終わっていて、おれはいつもと少し違うことをした。

「あの、すみません」

 そういえばおれは、彼女の名前もまだ知らないのだった。

 振り返った茶髪の彼女は、おれの顔を見ると少し不思議そうな顔をして、けれどすぐにおれのことを思い出したような反応だった。

「ああ、ノートのひと。今度はちゃんと板書してる? 毎週ちゃんとまとめておかないと、いくら般教でも単位落としちゃいますよ」

「肝に銘じます……じゃなくて、えっと、いちおうノートのお礼、じゃないけど、これ」

 そう言っておれは、カバンからひとつの包みを取り出して、彼女に渡した。

「……? なんです、これ」

「よくわかんなかったんですけど、カフェのギフトカードと、タンブラー、ってやつです」

 彼女は目を丸くしていた。

「え、私にくれるの?」

「あげます。本当はもっと気の利いたもの選びたかったんだけど、おれプレゼントとかしたことないし、女子の欲しいものとかわかんないから」

 おれのそう言ったのを聞くと、彼女はちょっと吹き出して笑った。おれはなぜ笑われたのかわからず不服だったが、彼女の明るい笑った顔を見たらすぐにどうでもよくなった。それぐらい彼女の笑いかたは感じがよかった。

「初めての彼女にあげるプレゼントみたい、これ」

「……なんか、恥ずかしいからやめて」

 彼女の冗談におれがあまりの免疫のなさに参っていると、しだいに彼女もかえって照れくさそうにしていた。なんだこれ、ちょっと青春なのか。

 しかし、そのしばしのおれだけが勝手に甘酸っぱい時間も過ぎ去り、不意の声が遮った。

「みさきー、次の授業いこー」

「あ、うん! ちょっと待っててー」

 みさき、と呼ばれた彼女は講義室の出入り口で待っているらしい友達に手を振って合図すると、おれに向き直って言った。

「ありがとう、これでフラペチーノ飲む。それじゃあ、わたし友達待たせちゃってるから、行きますね」

 フラペチーノっていうのが何かは知らなかったが、おれは彼女が喜んでくれたので、嬉しかった。素直に彼女を見送ると、おれも次の授業に向かわなくてはならないが、それでも少しだけ余韻に浸っていた。

 ああ、でもそんなに急に友達にはなれないか、やっぱり。初対面に近いのにノートくれっていう、得体の知れないやつだしなあ。我ながらあのときはちょっと挙動不審だったし。

 まあいいか、また話しかけるきっかけがあるかもしれないし。そのときは明るく話せるリア充になっていよう。そうすればあの、みさきという子とも、仲良くなれるかもしれない。

 そう思って、ノートをまとめてバッグに詰め込もうとしていると、

「あ、よかった! まだいた」

 駆け足で戻ってきた彼女が、ちょっと上がった息を整えながら、

「ごめん、ライン交換するの忘れてた! せっかく知り合ったんだし、授業もだいたい被ってるし、情報交換しましょうよ」

 わずかに上気した頬をなにげない愛想でゆるませて、なんでもないことのようにそう言った。

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