第1話 始まっちゃったおれの終わってる生活
暗くて寒い部屋の中心に和太鼓が置かれている。その周りを異様な熱気で囲んでいるのは十数人のむくつけき男たちである。おれは震えながら、それは寒さにであり、同時に恐怖にでもあるが、とにかくがくがくと震えながら、わけもわからず隣の誰とも知らぬ男と肩を組んでいる。
彼らはおれを除いて完全に一丸となっており、文字通り肉でできた一丸となっており、いまにも熱狂しながら何かに襲い掛からんばかりである。
和太鼓が叩かれると、誰ともなく怒号が上がる。おれはあまりの恐怖に失禁しそうになった。男たちは太鼓の合図を皮切りに狭い部屋からぞろぞろと這い出して、一列をなして建物の中を闊歩する。さながら百鬼夜行である。
おれは何も理解しないままその中に混ざり、自分も妖怪の一員であると装っていなければ、この中の誰かに食い殺されてしまうのではないかという恐怖と戦っていた。
行軍が部屋の前に停まる。その瞬間に高らかな放歌高吟が歌い上げられる。歌詞の意味さえ汲み取れないおれにとっては、怪物のあげる雄叫びに同じである。
一番槍が部屋のドアを高らかにノックする。一度、二度、三度。返事はない。諦めて他の部屋へ行くのかと思えば、一番槍は後に続く男を促し、力づくでドアを蹴り開けた。
その瞬間に、部屋の中からおぞましい叫び声が上がり、全裸の男が現れる。一番槍は仲間から受け取った褌を彼に渡すと、部屋の男も褌を締め、速やかに一軍に加わった。
一連の流れを理解できないおれにとっては、邪教の儀式を見るような、神秘的な恐怖でしかない。
そのまますべての部屋を周り、すべての住民を引きずり出したのちには、最初の部屋に戻る。
デカンショ、デカンショで半年暮らす──
あとの半年寝て暮らす──
和太鼓をめちゃくちゃに乱打しながら、わけのわからない歌を歌いまくるのである。総勢三十人近くを数えるむくつけき男たちの集団は、邪教の奇祭の熱狂に酔いしれているのである。
おれは思った。こんなところには、到底いられない。おかしくなるまえに逃げ出さなければならない。
解散して寒さに震えながら、おろしたての布団にくるまって、なんとか眠りにつこうとしながら、おれはそう強く決意するのであった。
こんなことになった経緯を語るには、数ヶ月前に遡らねばならない。おれは大学デビューを目論んでいた。それも華々しい大学デビューである。誰よりも盛大にスタートダッシュを切らなければならない。瞬足で差をつけろ。
地元の進学校を卒業したおれは、地方の国立大学に進学することになった。そこには寮が併設されており、食事は付かず自炊が必要だが、そのぶん宿泊費が安く暮らせることから、中流家庭に生きるおれにとってはうってつけに思えた。
さらには大学デビューにとっても、寮生活は好都合であろうと思われる。最初のガイダンスやオリエンテーションで初対面を迎える他の大学一年生に対して、寮ですでに友達をたくさん作っておけば、圧倒的なスタートダッシュの差をつけることができるだろう。瞬足で差をつけろ(二回目)。
このような目論見のもと、軽い気持ちで寮に入寮願いを郵送したおれは、入居したその日の夜に、すでに強く後悔することになる。
ともあれ、大学生活は始まってしまった。もはや引き返すことはできない。おれはこのつらく厳しい寮でイケてる大学生活をスタートすることはできるのだろうか。
「きみ、名前はなんていうの」
「あっ、えーと……ヤスです」
目の前の男、昨夜のむくつけき男たちの一人である見知らぬ男の問いかけに、ぎょっとしながらおれは答えた。
「ヤスくんか。きみはどこからきたの」
雑談をしながら、いまの状況について考えると、確か寮の広報には今日は新人歓迎の飲み会だと伝えられていたはずである。
しばらくその男と緊張感が途切れないまま世間話をしてから、不意に聞き慣れない言葉が耳をついた。
「それで、ヤスくんは今日はどんなゲイをやるの?」
「ゲイ?」
ゲイというのはなんだろう。普通に考えて男性の同性愛者のことではあるまい。一般的にこれは、一発芸などの芸のことだろうが。
「芸をやるんですか?」
「ヤスくんは、ゲイじゃないの?」
「ゲイじゃないです」
わからなくなってきた。目の前の男がゲイというのは、いったい何を指す言葉なのだろうか。
「えっ、先輩はゲイなんですか」
「ゲイではないけど……」
けど、なんなのだろうか。この人のことが、本当に怖くなってきた。おれはさっさと話を切り上げて、酒の一滴も飲まずに、部屋に帰ろうとした。
そのとき、大きな声が飲み会の談笑を遮った。
「はい。今日は新人の皆さんに、殺し合いをしてもらいます」
「えっ……」
「まちがえた。一発芸をしてもらいます」
やはり一発芸か。とはいえこんなところでうろたえるおれではない。大学デビューのため、高校時代から綿密に計画を積み重ねてきたおれに、死角はない。
初対面の〝つかみ〟のために、何パターンも一発芸を考えてきたおれは、ここで一発寮生の歓心を買い、これからの寮生活を少しでもイケてるものにするのである。いや、こんな寮はやく出ていきたいんじゃなかったのか。わからなくなってきた。
「まずは、ヤスくんから!」
「はい……」
おれは神妙な面持ちで全員の前に出ると、用意してきたサングラスをかけて、開口一番こう言った。
「髪、切った?」
その瞬間、宴会場の空気が完全に硬直した。おれは何が間違っていたのかについて考えながら、自分の席に戻った。
そーですねのほうがよかったのか。拍手を操るやつのほうがよかったのか。真相はもはや闇の中である。もちろんおれの大学生活も、もはや闇の中であるように思われた。
「おもしろいね、ヤス」
「おもしろかったですかね」
「そうでもないな」
さっきから雑談をしていた先輩は、完全におれと目を合わさなくなってしまった。
おれは、完全に終わったと思いながら、缶ビールの栓を開けた。
学科のガイダンスは昼下がりに行われた。おれは人文学部の所属で、コースは文学や言語を習得する学科であった。とはいっても、特に小説や外国語に興味があるわけではなかった。センター試験で数学を使わなくていい稀有な国立大学だから、選んだだけのことだった。
ガイダンスの後は軽いオリエンテーションが行われ、すでに寮生の友達ができているはずだったおれは綺麗にスタートダッシュに失敗し、学科でも新しい友達と言えそうな人は一人も見つからなかった。
「ヤスくんは、好きな小説とかあるの?」
とぼとぼと寮に帰ろうとしたそのときに、おれに話しかけてくる人があった。おれは思わずどぎまぎして答えあぐねた。
「えっと……村上とかですかね(?)」
「ああ! 龍? 春樹?」
「あっ、どっちもです」
どっちも読んだことないが。
先輩は綺麗な人だった。おれに話しかけてくれたということを抜きにしても、綺麗な人だと思った。長い黒髪で、品のいいロングスカートにさりげない花柄をあしらったワンピースを合わせている。
めちゃくちゃ好きだ、と思った。一目惚れだった。
帰りに図書館で龍と春樹の小説を一冊ずつ借りて帰った。先輩はどっちが好きなのかな、とか読んだこともないのに考えていた。
寮に帰って自分の部屋のある二階に行こうとすると、階段の前の部屋から、すさまじい量の煙が噴き上がっているのが見えて、おれは思わず覗き込んだ。
「えっ、火事ですか?」
「あ、煙かったらごめん」
そこにいたのは、爆煙で煙草をくゆらせる寮生だった。彼は悪びれることなく、しかし言葉のうえではあくまで謝ってみせた。どうやら火事ではなく、無限に吸われている煙草の煙のようだった。
「これ報知器とか大丈夫なんですか」
「壊してあるから大丈夫」
「それは大丈夫じゃないんじゃないですか」
そう尋ねると、彼は人懐っこく笑った。
「煙にまみれないともったいないから」
「そ、そういうもんですか」
「安くないからね、ヤス」
そういうとガハハ、と彼はまた笑った。
「…………」
おれが部屋に戻ろうとすると、彼は思い出したように言い出した。
「パチンコいくか」
「えっ」
「打ったことないでしょ。まだ一年生だし」
「パチンコとか、無理ですよ。お金もないし」
「打ち子でいいからさ。言われたとおり打ってくれたらそれでいいし、なんなら時給も出すよ」
おれがしぶしぶ了承すると、彼は笑いながら、何事も経験だからさ、と言った。
徒歩五分のパチンコ屋まで二人で歩いて、途中のコンビニで彼は煙草とフライヤーのチキンを二つ買い、ハンバーガーのバンズのようなパンも買っておれにくれた。
「これ、どうするんですか」
「挟むんだよ。ばかじゃねえのか」
彼はタルタルソースをかけるとうまいと言って、おれのぶんのソースも取ってきてくれた。チキンのハンバーガーはうまかった。
パチンコ屋はうるさくて目もチカチカしたし、おもしろくはなかった。ぞろぞろと一列になった椅子に座って、実にそれらしい小汚いおっさんから、若い大学生のような人まで、様々な人たちが、きらびやかなパチンコ台と向き合っているのは、どうしてかおかしげで愉快だった。
ただ、一、二時間で五千円ほど儲かったのは、少しだけ魅力的だ。
「一人で行くなよ」
「どうしてですか」
「負けるからだよバカ」
彼はそれなりに勝ったはずなのに、渋い顔をしていた。おれは不思議だった。夕方に差し掛かったパチンコ屋の建物が落とす影は、奇妙に伸びたり縮んだりしていて、不気味だった。
履修登録をしながら、初回の授業に出なければならない。この並行作業に一年目のおれは、やや手間取っていた。そこでとりあえず興味のありそうな授業には片端から顔を出すことにして、どれを取ることにするかは後回しにするのだった。
大学の授業は、専門科目と共通科目とに分かれてあり、所属する学部学科の専門となる科目と、すべての学部の学生が受けることになる科目とで分類されている。一年生のうちは、後者を中心にとることになる。
おれは授業に出るたびにだいたい同じ席を取るようになった。落ち着くからである。教室の中でだいたい同じような景色を見て授業を受けられれば、それぞれ違った内容の授業でも、同じような平静さで受けることができるというわけである。
しかしまったく退屈な授業ばかりである。共通教育とは名ばかりで、学問的な内容を含んだ授業もあるにはあるのだが、一般教養や大学でやるようなことかというような職業訓練的な授業も多分にある。
おれはあくびを噛み殺しながら、授業を受けていた。そんな日々が続いたころ、ふとしたことに気がついた。
どうやら、おれと同じように、すべての授業で同じような席に陣取っている学生がいるらしいのである。
それは偶然に気が付いたことで、同じ授業に毎週出ていながらも、おれはたいして周囲に注意を払っていないし、人の顔も覚えないたちなのだが、ちょうどおれの座る席の右手前の席に座っている学生の、ノートだけが授業中、よく目につくのである。
そこには、面白い授業でも退屈な授業でも、分け隔てなく、ぎっしりと板書がとってあり、時には授業で話していたことを噛み砕いて、自分なりのメモとして書き加えていることもあった。
そんな真面目なノートがいつでも視界に入っているのだから、気が付くのは遅かれ早かれ気が付いたであろうが、おれがはっきりとそのノートの持ち主を認識したのは、ふだんは几帳面なノートがとられているその紙面に急にその日だけ、ポップなクマの落書きが描かれたからだろう。
おれはぎょっとして、ついノートの持ち主を見たが、後ろ姿のみで、顔は見ることができない。女の子で、髪はみじかく、金に近い明るい茶色に染まっていた。その明るい髪色と、ふだんの真面目なノートの内容にギャップを感じて、そしてその日のらしくないクマの落書きにさらに二重の意外性をおぼえて、その日から、そのノートを覗き見るのがおれの趣味のようなものになってしまった。
趣味がいいとは言えないが、気になるからには仕方ないとご了承いただきたい。
ノートの主はいつも顔は見えないが、きっちりと毎回優秀そうなノートをとって、帰っていった。おれは彼女のことを少しも知らないまま、何故か彼女に親近感を覚えるようになっていた。
おれは授業が終わるたび、学科の研究室のような学生の部屋に出入りしていた。日本文学学科の学生部屋は雑然としていて、誰かが読みさした新書や文庫本が散らばっており、学生はいつも決まったメンバーしかおらず、その中にあの文学少女先輩もいた。
何を隠そう、おれが出入りしているのも、そのためである。
おれは今日も村上のどちらかの文庫本を手に、長机のこれまた決まった位置に陣取って、本を開くだけ開いて読むでもなく、横目で先輩をちらちらと盗み見ていた。
先輩はいつも難しそうな本を読みながらうんうん唸っていたり、お昼に持ち込んだお弁当を食べて幸せそうにしていた。おれはそれを見ているだけで幸せなのである。
今日は先輩は例に漏れず難しい本を読んでいて、その内容が一年生のおれには到底推し量れないような深淵な内容であることは疑いようもなかった。
ふと、先輩が気がついて言った。
「あれ、ヤスくんは今日も読書?」
あああ、先輩が話しかけてくれた。嬉しすぎる。もしかしてこの先輩も、おれのことが好きなのかもしれない。だとしたら嬉しいな。いますぐおれも好きだと伝えたい。
「えっあっ、そうです。村上っす」
これぞ村上のひとつ覚えである。実際は龍と春樹のふたつ覚えである。
こうしておれはダブル村上を武器に、先輩にお近づきになろうとしている不埒者で、ダブル村上には悪いが、これもおれの大学デビューのための重要な作戦のひとつであり、彼らにはひいては読者の幸福のためと思って、辛抱していただきたい。
厳密にいえば、ダブル村上はやっぱり難しくて読めなかったので、おれは読者ではないのだが。
「おもしろいよね、それ」
「おもしろいっすよね」
読んでないのだが。今日はどっちの村上を持ってきたのかさえおぼつかないのだが。
それからおれは、小説の話は残念ながらできないので、文学少女先輩のバイト先の話や、大学での話をせがむ。いつものように先輩が楽しそうに話してくれると、おれはそれを聞いているだけで幸せなのである。
こうして、今日も楽しく話せたな、とおれは内心で満足して、学生部屋を出た。先輩はまだ残って勉強していくね、と言っていたので、一緒に帰りたかったが一人で寮に帰った。
先輩の黒髪に夕陽が透けて輝いていたのが、部屋を出る帰り際に見えて、心の底から彼女が好きだとおれは強く感じたのであった。
めちゃくちゃ外国人みたいな顔の寮長が寮に帰るなり急におれに声をかけてきた。まだ春先というのにサンダルに短パンで、とにかく顔が外国人っぽい。なのにめちゃくちゃ日本語が流暢である。
「なあヤス、お前もう晩飯食った?」
「えっ、まだ食ってないですけど……」
「じゃあ行くか」
そのまま連れ去られるようにして向かったのは、何故か大学であった。飯を奢ってくれるのかと思っていたおれは、今さっき出たばかりの大学に連れ戻されて、わけがわからないでいた。
「大学に飯屋なんかあるんですか? 学食はもう閉まってるし……」
「めちゃくちゃいい飯屋あんだよ。ついてこいよ」
そう言うと急にさわやかな笑顔に切り替えて、サークル棟の方へずんずんと向かっていった。
「こんにちはー! すみません、新歓に来たんですけどー!」
「ちょっ、先輩」
「黙ってろ」
そこは映画研究会の部室で、そこには新入生らしき集まりができていた。やんわりとした歓迎のムードを感じて、かえっておれはめちゃくちゃ居心地が悪くなる。小声で先輩にたずねる。
(マジでいいんですか、こんなことして)
(うるせえな、こっちは生活かかってんだよ)
呆れかえっておれは何も言えなくなった。だが、考えてみればおれと先輩は利害が一致しているようにも思えた。
というのも、おれはかねてから愛しの文学少女先輩の所属しているサークルを知りたいと思っていたからだ。直接聞くのは恥ずかしいから、聞けていなかったが、新歓で偶然に出会うのであれば、運命の二人の出会いとして申し分ない。
おれはこのどうしようもない先輩をダシにして、その日の夜はありとあらゆるサークルの新歓を荒らしまわった。
先輩が一年生という設定なのに酒をガバガバ飲みまくり、大暴れするたびに無理矢理連れ出して別のサークルの新歓に移動するのは大変だったが、それでも文学少女先輩に出会いたいという気持ちが、おれを突き動かしていた。
「おいヤス、もっと酒持ってこい!」
「先輩、まずいですよ!」
「あのぉ、一年生がそんなにお酒飲んだら大変だよ? サークルも責任は持てないし……」
映研のおねえさん、すみません、と内心でおれはぺこぺこ平謝りしている。
「うるせえボケ! 俺のどこが一年に見えんだよ! とっくに成人してるわ!」
ついに言っちゃった。
「ってかお前、数学科の三年だろ! そういや、三年が新歓荒らしまわってるってグループラインで言われてたけどマジだったのかよ!」
先輩が据わった目で叫んだ。
「ずらかれ!!」
「ハイッ!!」
結局その晩、文学少女先輩に出会えることはなく、
おれはゲロまみれになった寮長のダル絡みに一晩中付き合い、ファーストキスを奪われることになった。
夜の街を慣れないアルコールとゲロの匂いに苦しみながら寮に帰りつく頃には、おれの意識はなかった。
最悪の夜だった。
寮生との飲み会での最悪なエピソードについては事欠かない。たとえば例のギャンブル先輩は、ある日の飲み会の帰りに神社に供えられていた缶ビールを手に取ると、嬉しそうに飲み始めた。おれは必死で止めたが、周りはあいつは神なんだよと言ってありがたがって拝んでいた。
外国人寮長は、泥酔するとだれかれ構わずキスしようとする。寮には男しかいないから、自然と景観は地獄になる。そのうち変なテンションになった男連中は舌を絡めてディープキスするようになり、水音が聴こえてくると最悪な気分になる。
ホストをやっているらしい先輩は毎晩朝方になってから帰ってきて、廊下で爆音でビジュアル系の歌を歌うので、おれはニワトリよりよく目が覚める。
こうした最悪な日々の中で、おれの寮生に対する怒りは、ほとんど極大にまで膨れ上がっていた。
寮生たちに悩まされて満足にテスト勉強もできないまま夏休み前のテスト期間を迎えていたおれは、最速で留年の危機と向かい合っていた。
このままではまずい。大学デビュー以前に、留年してしまっては寮の腐った妖怪たちと同じになってしまう。おれはなんとしても留年を回避して、まだまだ挽回可能なはずのリア充生活を手に入れなければならないのである。
そこでおれは考えた。思えば、おれとほとんど同じ授業をとっていて、なおかつおれよりもはるかに真面目にノートを取っている学生がいるのだ。
直接声をかけたことなどない。ましてや今から声をかけるなど、友達関係のすでに固まってしまっている夏前の教室では難しい。
だが、やらねばならない。男にはやらねばならないときがある。
おれはいつもの教室のいつもの席から、いつもよりちょっとだけ勇気を出して、彼女に話しかけた。
「あっ、あの」
声が裏返った。めちゃくちゃ恥ずかしかった。
「え、なんですか?」
短い返答がやけに冷たく感じて、初めて見る彼女の感じの良さそうな顔もほとんど目に入ってこなかった。
「えと、その、ノート、見せて欲しくて」
「えっ? この授業の?」
「や、ぜんぶ」
「……どういうことです?」
おれの女子に対するコミュニケーション能力の低さといったら、おれの想像を遥かに超えていた。文学少女先輩に対してあれだけハキハキと話せているのは、やはり恋の力であるのだなと思えば、嬉しくもあったが、そんなことは今はどうでもいいのだ。
「ああ、なるほど。たしかに、そういえばあなたって私とけっこう授業かぶってますよね」
なんとか意思疎通できたと思えば、安心したのか舌がもつれてしまう。
「そうなんよ」
「なんよ?」
「そ、そうなんですよ」
「ふふっ……」
彼女はもつれたおれの語尾をちょっと笑った。
「いいですよ。ノートぐらい、減るもんじゃないしね。このあと空いてたら一緒に図書館行きますか? コピー取ってあげますよ」
「ありがとう……! マジで、命の恩人です」
「大袈裟すぎますよ」
彼女はそのあと言ったとおりに図書館のコピー機で自分のノートの要点をコピーすると、おれにまとめて渡してくれた。
そのノートは本当によくまとめてあり、授業中眺めていたとおり、彼女の几帳面な性格や真面目なところが手にとってわかるようなノートだった。
おれは彼女の名前も連絡先も聞かなかったことを後悔した。なぜならお礼をする宛がわからなかったからである。
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