にーさん 音

 ただ響き、同じものが続いた。


――ピアノ、弾けるから。

 何某かのエチュード、そう呟いて鍵盤を弾き始めたので、柔らかな期待を持っていた。

 ただ響き、同じ音節が続く。


――弾けるの?

 答えない。たった4小節ばかりが続く。

 そこから出て行くつもりもなく、自信たっぷりに鍵盤を叩く。


――静かに、夜想曲なんだ。

 エチュードって言っていたのに。

 これは、サティのピカデリー。どちらかと言えばグノシエンヌの方が好みだ。

 けれども、よく聴く数小節しか続かない。


――ピアノ、弾けないよね。

 それには答えない。ムキになったように鍵盤に向かうから、好きなようにさせる。

 ただ響く。上手くないピアノは大抵そうだ。

 響くだけで、音の一つ一つを並べるだけで、全体が見えてこない。


――――これだけ弾けてるのに?

 それは弾けてるって言わないよ。とは言わず、頷く。

 それくらいしかない。

 ただ響き、思い思いの音が転がって。


――怒らないで、これだけ、これだけ弾いたら帰ろ。

 つまらなそうな顔をしてたろうか。

 何かできることを示したい。それを尊重したつもりで、偉そうにしてしまったか。

 拙いメロディと跳ねそうで跳ねない音が続く。


――もう、おしまい!

 不意にデャーンと鍵盤を押して立ち上がる。

 なんだか不機嫌で、こっちを見て膨れている。


――どうしたの?

――ふーん。そうですか、そういうヤツなんだ君は。

 立って並べばわたしのほうが頭ひとつぶん小さい。

 さっ、行こう。手を取ろうとすれば力強く握られる。

 じっ。と見たまま、わたしの手のひらを返してぽとりと小さなものを落とす。


――っえ。クモ? どこに?

――そういうやつなわけ。まあ知ってるけど。

 ピアノの上を彷徨さまよう地蜘蛛は指を突きつければ威嚇する。やるぞ、やっちまうぞ。

 その愛らしさとすぐに壊れてしまいそうな生き物に驚かない。

 いつも不思議に思っていた。


 静かに窓際の枠に逃してやる。

 外は砂嵐で何も見えなかった。


――逃がしちゃいけないんだよ?

――知ってる。


 この地蜘蛛は音を食べて成長する。

 だから見つけたら、すぐに処理することと決まっていた。

 外は不毛の砂嵐がずっと止まずに続いている。


――この外へ出たこの子が、1つの共同体を破壊しつくしたって。

――大丈夫。ここから逃げ出すなんて、出来やしないから。

 しっかり管理されて、息が詰まるほどに安全だから、綺麗な音楽もそれに似て。

 それを不安に思うことはない。

 ピアノが弾けなくても、それが静かに調和を乱しても、それが楽しい。


――ほら、砂だって生まれてからこっちに入ったことなんてないよ。

――どうなっても、知らないからね。

 

 わたしたちはわざわざ、ピアノがある都市にやってきていた。

 責任感もないまま、ただ響いて、蜘蛛は外を探して。

 もう帰らないといけないから手を引いて、


――早く行かないと、間に合わない。

――次でも、いい。君は、弾けるのに、弾かない。


 弾けないんだよ。

 わたしは聞こえないふりをする。

 響かなくなってしまったから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る