「墜ちているから、惹かれ会う」
仕事を辞める。
今年中か、それとも来年か、具体的にいつ辞めるのかはいまだ未定のまま。
だけど、辞めるという決意をした。
たがが外れたのか、一周回って冷静な判断なのか、いずれにしろ辞めると決めてからの日々は凄く楽で……周りなんて全く見えなくて。
生徒からのあからさまな罵倒や陰口、教員からの連絡、何もかもが入って来ない。
ただただ無心の時間だけが過ぎていく。
学校に行って、授業をして、授業が終われば教員としての課題をこなす。これらは全部ただの作業。
そこに感情を裂く必要なんてなくて……もう、これでいいんだって思う。
思うけど、一日のルーティーンのうち唯一作業じゃなくなる瞬間もあって……。
それは。
あぁ……。
今日、薬師寺とどんな話をしようか。
――――(◆)――――
「スラダンは好きです。前の家に住んでたとき……近くの図書館に全巻置いてあって、そこで読みました」
「へぇ……。バスケはするの?」
「しません……。読むだけ」
「そっか。先生もスラダンは好きだよ、全巻持ってるし。薬師寺はスラダンの誰が好き?」
「……え? ……ぇ……別に」
「誰もいない?」
「……いなくも……ない、です」
「例えば?」
「……北沢とか、強い選手が好きです」
北沢。
沢北じゃねーかドアホぅって、そう返したら薬師寺はどんな反応を見せるだろう?
怒るのか、それとも恥ずかしがるのか……まあ、言わないけど。
薬師寺舞。
彼女は漫画を読むことが好きらしい。
学校の話題を振っても良い反応は返ってこない。
だけど、漫画の話題を振ったときだけ妙に食い付きが良くて……その瞬間だけ、初めて会話らしい会話が成立する。
その事実を知ったのはもう何日も前のことで、それからは面談の最後によく漫画の話をするようになって、学校とは関係のない部分で薬師寺の一面を一つ知ることが出来る。
薬師寺舞は漫画を読むことが好きらしい。
そして、漫画に関する知識は割とガバガバらしい。
――――(◇)――――
「中間考査、今日から始まったよ」
「………」
「今日やった科目が数学、社会、国語の3科目。一応答案用紙持って来たから後で軽く目を通してみて」
「……ぅ………いり、ません」
「どうして?」
「……どうせ、解けないし。見たくない」
「他の教科はともかく数学は物凄く簡単だよ? ただの計算だけだしほとんど算数と変わらない」
「一番嫌な科目が数学です。やりません」
「……なるほど。ちなみに一番得意な科目は?」
「……っ」
「何でもいいよ、体育や音楽の実技を含んでもいい。小学生のときに通信簿で一番高い評価を貰えた科目でいいから」
「……ん……んっ」
「薬師寺……?」
「……うっ……うぅ……な、なぃ……」
「ああ、もしかして複数あって絞りづらい感じ? うーん……まあそうなるよな、小学生の勉強なんてどれも簡単だしたくさん良い評価貰えて当たり前っていうか……ある意味答えづらいかも」
「ん……うぅ……なぃ……ない」
「よし薬師寺、たくさんあるであろう良い評価のうち薬師寺が一番好きな科目を」
「だからないのおっっっ!! 普通の評価か悪い評価しか貰ったことありませんっ!」
「…………え? あれ? そんなことあり得るの?」
「……っっっ!?」
「ごめん薬師寺、先生って周りのクラスメイト達と通信簿を見せ合うような子供じゃなくてさ……。もし今のが薬師寺のブラックジョークだって言うならどの辺りが面白いのか説明してもらえたら」
「……くっ、くぅ……くぅぅ……か、帰って」
「うん?」
「帰ってくださいっっ!! もう30分経ちました!」
「う、うぇ、薬師寺!? なんで……えっ?」
「もうおしまいですっ、そんな話するんだったら来なくていいですっ」
「待って、まだ30分も経ってな」
「もう経ちましたぁ! 学校の話嫌だっていつも……なのにっ、こんな……こんなバカにしてっ」
「落ち着いて、落ち着い」
「この、このっ……早く靴履いてください!」
「待ってって、少しでいいから弁解させて」
「もし次こんな嫌なこと言ってきたら、ばあちゃんに頼んで出入り禁止にしてもらいますっ!」
バァン。
強く扉を閉められる。
なにか、薬師寺にとって重大な地雷を踏んでしまったのかもしれない。
おそらく、初めてだと思われる薬師寺との本気のやり取り。
学校の話をするときの薬師寺は相変わらず目を合わせてくれない……だけど、最後の最後、怒る薬師寺の瞳はしっかりと俺の瞳を捕らえていて……。
今日、知ったことは二つ。
薬師寺の一番嫌いな科目が数学だということ。
薬師寺は以外にも気が短いということ。
――――(▲)――――
「きょ、今日は、学校の話はいいです」
「一応連絡事項とか最低限話さないといけないこともあるんだけど」
「いいです」
「……ああ、そう。……じゃあ、なにか適当な話でもしようか?」
「………」
「薬師寺さ、休日って何してるの? 日曜日とか」
「……ぇ」
「適当な話だよ。適当に返せばいい」
「べ……別に、ないです。なにもしません」
「なにも? シャンプ読んだりはしない? あとゲームとか」
「ぅ……シャンプは……月曜日にばあちゃんが買って来てくれて、その日のうちに全部読みます。休みの日までに何回も読み返して……だから、休みの日はなにもしません。ゲームも持ってません」
「あぁ……」
「たまに、ばあちゃんと一緒に買い物に行くくらいです」
なにもしませんと言う薬師寺が、妙に寂しげで儚げに映った。
目の前でぽつんと一人、膝に手を置いて少し気まずそうに……。
でも……そうか。
薬師寺はまだ中学生の子供だから、読みたいときに好きなだけ漫画を読めるわけじゃないんだ。
お小遣いは有限で、おばあちゃんにねだるにしても限りはあるはず。
漫画を読むことが大好きで、それ以外に何もしないって言うなら……きっとその時間は退屈で、孤独なはずで。
不意に……。
ほんと、不意に。
漫画貸してあげようかって言いそうになった。
何もしないって言う薬師寺に、何かしてあげたいなって思った。
――――(▼)――――
「たぶんだけどさ、先生のこと『春宮先生』ってちゃんと呼んでくれるの、薬師寺が一番多いと思う」
「……そう、ですか?」
「うん」
「へぇ……。みんなは……なんて、呼びますか?」
「春宮」
「うっ……ふぅ……ふぅぅ」
「ん?」
「今のは、ちょっと面白かったです」
「面白くないよ。舐められてるだけだし」
「ふふっ……ふぅぅ……ふっ」
「笑いすぎ……。よし、そろそろいい時間だし今日はもう行くよ。いつもお茶用意してもらってごめんな、次は先生がなにか持ってくるから」
「あっ……あの」
「それじゃあ、また明日」
「春宮先生っ」
「私は……たぶん、春宮先生が、今までの先生の中で一番たくさんお話をしました……。ま、また明日っ」
薬師寺が笑うところを初めて見た。
笑い方が少し特殊で……笑うとき、どうしてか笑い声を圧し殺して隠すように手を口元に添える。
明らかに人前で笑うことが不得手な人間の笑い方。
笑っているときの薬師寺は年相応に可愛らしくて、もっと自由に笑えばいいのにって思った。
最後、薬師寺の言った一番たくさんお話をしましたという言葉。
普通に嬉しくて……同じだよって言いそうになって、ギリギリのところで止めた。
だって、ここで嬉しく感じるのはあまりにもお門違いだから。
笑顔も俺との会話も、本来なら友達だったり同級生だったり、相応に向けるべき相手がいるはずで……そう思ってしまうことが凄く不敬に感じられた。
特に俺の場合は、そんな資格がないから。
――――(△)――――
薬師寺との距離感が少しずつ変わってきつつある……ような気がする。
初めの剥き出しだった警戒心も、下を向いてひたすらに目を合わせようとしない拒絶的な姿勢も、少しずつではあるものの改善されつつある。
あくまでも少しずつというだけで、今だに警戒されたり拒絶的な態度を取られることはあるけども。
言葉を交わす度に段々と目が合う機械が増え、会話に応じて薬師寺の機嫌が見え隠れする程度には近くなった……。
こうしてほとんど毎日薬師寺の家へ押し掛けては面談を繰り返してるわけだから、お互いに馴れてくるというのは自然なことだけど……たぶん、それだけじゃない。
それだけじゃくて、妙に近く感じるのは……俺も薬師寺も、互いにボロボロだから。
互いに墜ちるとこまで墜ちるてるから、心の距離が近づいて、どこか惹かれ会ってるのかもしれない。
同じように墜ちてる人間を見つけて、自分だけじゃないんだと安心したいだけなのかもしれない。
これが感傷に浸った独りよがりなのか、それとも……俺だけじゃなくて。
薬師寺は、どう感じてるんだろう。
もし……もしそうだっていうなら、それで互いの距離が近づいてるっていうなら……それは、とても皮肉なことで。
一つだけ、勘違いしちゃいけないことがある。
俺は、一方的に自滅して墜ちていったということ。
薬師寺は、墜ちたのではなく墜とされたということ。
――――(∇)――――
「今日はシャンプの日か……。読むのは面談が終わってからにして欲しいんだけど、ダメかな?」
「ダメです静かにしてください」
「静かにはしないよ、話すために来てるんだから……。まあ読みながらでもいいから返事はして欲しい」
「………」
「薬師寺さ……、薬師寺は何かやりたいことを見つけたらいいと思う。あんまり、先生が偉そうに言える立場じゃないけど」
「……ぇ……やりたい、こと?」
「うん。前に話したの覚えてる? 休日に何するかって話して、何もしないって薬師寺が答えたの。あれさ、先生の中で少しだけ引っ掛かってて……考えてみたんだよ」
「……ふぇ?」
「例えば薬師寺は漫画を読むことが好きだろ? そこから発展して、自分から漫画を作ってみるとか」
「……む、無理です。絵描けないし」
「描けなくてもいいよ、ゼロから始めて学んでいけばいいんだし。それでもダメなら物語を作るだけでもいい、小説を書いてみるとか」
「で、出来ません……思い付かないし」
「例えばの話だよ、実際にやれって言ってるわけじゃないから。でも……そういうふうに何か一つでも打ち込めるものがあったら、前みたいに何もしませんなんて答えにはならないんじゃないかって」
「ん……漫画を読むことじゃ、ダメですか?」
「全然ダメじゃないよ。ダメじゃないけど、長くは続かないだろ? 今読んでるシャンプだって後数時間もすれば読み終える。読み返すにしたって限りはあるし、一回目ほど新鮮な気持ちで読めるわけじゃない。それにどっちかって言うとシャンプを読むことは薬師寺にとっての好きなことで、厳密にはやりたいことに入らないと思う」
「んっ……んー……そう、ですか? 難しい……」
「まあ見つけろと言ってそう簡単に見つかるものでもないけど。それでも無いって言うなら見つけようとする努力ぐらいはしてみても損は無いと思うよ。何かは残るから」
「……春宮先生は、やりたいことありますか?」
「うーん、偉そうに言って悪いけど……ない……なかったって言うのが正しいかな。だからこないだの話が引っ掛かって、今蒸し返してるんだと思う」
「えっ……ない? ないのにこんな話……偉そうに」
「それはごめん。でもその無いを経験してるから薬師寺には何か見つけて欲しいなって思っただけ。大人になってからじゃ色々と間に合わないから」
「間に合わない……ですか?」
「間に合わないし、大人と子供とじゃ価値が違うんだよ」
「……ん?」
「何も見つけられないまま大人になるとさ、したいしたくないに関わらず決まったことを仕方なくやるしかなくなる。大人になってから何かを見つけても、そのときの自分にはすでに立場や環境があって、そう簡単に取り払うことなんて出来ないんだよ……。だから、決められる今何かを見つけて自分で決めていくことに価値があるんだと思う。薬師寺にはまだまだ時間があるから」
「………」
「まあ、大人になってみたらわかると思うよ。割とはっきり別れてるから」
「……ぅ……うぅ………ん……」
「薬師寺?」
「は、春宮先生は、たまに難しい話をします……。上手く答えられません」
「あぁ……うん……まあ、答えなんて適当でいいよ。語りたくて、聞いてもらいたいだけだから」
「……ん……よく、わかりませんけど……。春宮先生は……学校の先生、辞めたいですか……?」
「あれ、そういうふうに聞こえた?」
「はい」
「いや……」
「あと、学校でもそんな感じでした」
「え……?」
「授業とか休み時間とか……普段、あまり話さなかったり怒ったりしてる先生でもたまに笑ったりしてて……。なのに春宮先生だけ大人しくて、楽しそうにしてるとこ……見たことない、です」
核心的な一言ってわけじゃないけど、割と強烈に刺さる一言ではあったと思う。
年端もいかない女子生徒相手に対した経験を積んでもいない自分が浅いカタルシスに浸っていたら、想定外のカウンターがみぞおちに飛んできて途端に息が出来なくなるような、不意の一撃。
当然薬師寺からすれば無自覚なんだろうけど……そうか、そんなふうに見られてたのか。
案外、人は人のことを見てるのかもしれない。
興味を持たないだけで、見て知っているのかもしれない。
俺は薬師寺の言葉に、どう返すべきだろう?
辞めるよなんて言えるわけがないから勿論そこは誤魔化すとして、学校での俺は………。
「別に辞めたいとかは思ってないよ……うん。さっきも言ったけど、大人になったら今の立場や環境があるから簡単に辞めることなんて出来ない。しばらくは先生だよ」
―――結局、自分を持たない人間というのは追い詰められ、都合が悪くなると逃げ出すしかないんだ。
弱いから、経験値が足りないから、面と向き合うだけの勇気を持てない。
ただ。
ただ、逃げるならついでにとは思った。
気まぐれで不意討ち様にスルッと……なんて、そう都合良くはいかないだろうか。
「そんなわけでさ、一応先生だから……先生として薬師寺に聞かなくちゃいけない」
薬師寺を見つめる。
普段なら反射的にふいと反らされる瞳が、俺を映して離れない。
珍しく……ほんと、珍しく薬師寺と見つめ合い続ける。
「薬師寺、お腹の調子はどう?」
「……っ」
目が逸れる。
僅かに空気を吸う音が聞こえる。
「最近ちゃんと聞けてなかったから、具合はどうかなって……。今の体調とか治る見込みとか、あとどれぐらいかかりそう?」
目は逸らされてもいい。
もう一度、ゆっくりと薬師寺を見つめる。
「……ぅ……っ……」
サラりと短めの黒髪が揺れる。
丸い瞳は空をさまよっていて、忙しなさがいっぱいに伝わってくる。
「もしさ……もし、もうお腹痛が治っていて、他に学校に来れない事情があるって言うなら」
「春宮先生」
凛と透き通る薬師寺の声に遮られる。
不思議と、スーっと意識が引き寄せられる。
さっきまで泳いでいた瞳が、いつの間にか意志を込めてしっかりと俺を見据えている。
「まだお腹は痛いです。治らないですし、もし治ったとしても今度は足が痛くなると思います。足の次は頭で、頭の次は背中が痛くなると思います」
「学校には行けません」
はは……、またこれか。
ついでとか言って勢いに任せてみても結局はこうなるか。
なあ薬師寺。
薬師寺はいつまでこれを繰り返す?
俺は、いつまで薬師寺を見捨て続ける?
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