「懸けてきたから、戻れない」
「ねえ
小学5年の秋頃に行われた懇談会で、当時の担任から中学受験を勧められた。
その先生の癖が強くて、伸び代の大きい生徒にはより最適な環境を……なんて、熱の籠った答弁で母さんを垂らし込んでいた記憶がある。
元々学校での成績が優秀だったこともあり、真に受けた母さんが嬉しそうな顔をして受験させようと父さんに相談していた光景は今でも時折思い返す。
結局、言われるままに受験することが決まって、塾に通い始めて、淡々と目の前の課題に取り組んでいたら志望校に合格していた。
自分が受かって嬉しいというよりも、受かった自分に喜んでる父さんと母さんを見て嬉しい……そんな感じだったと思う。
「春宮君頭良いね~。勉強のやり方教えてよ!」
進学した学校は全国有数の屈指の名門校……ってほどではなくて、偏差値は65~70辺りをさまようそこそこの進学校。
偏差値が高めで私立の学校ということもあり、絵に描いたような不良や厳しい上下関係は存在しない。
少しチャらついたお調子者がちらほらいる程度で基本的には根が真面目な生徒が多く、普段からはサボっていてもテスト期間にはしっかり勉強に取り組んでそれなりの成績を残す生徒が大半だった。
そこそこレベルの高い学校だから、たびたび成績優秀者が注目されることもあって……中学に入って初めての中間テスト、期末テストで立て続けに学年5番以内の成績を記録したことがきっかけで、勉強を教えて欲しいと席が隣の女子に話し掛けられた。
自分としてはただ受験の延長で課題をこなしているに過ぎないけど、そんなふうに注目されるんだって知って……ちょっぴり、満たされたり。
悪い気分はしないし、少し勉強頑張ってみようかなって。
「春宮またクラスで1番かよ。ほんとヤバいなお前」
中学3年、春。
5月に行われた中間テストでのクラス内順位は一番。
2年の2学期から連続して1番を取り続けていた実績を、偶然にもクラスが同じになったカースト上位の男子に目を付けられ、周囲にいる友達にいかにこいつがガリ勉なのか、いかにこいつが成績優秀なのかを演説され、それを機にクラス内のカースト上位勢達から一目を置かれることになる。
今度一緒に勉強しようとか、ラインを交換しようとか、クラスでもそれなりに目立つ立場の人達からちょこちょこ声を掛けられたり……。
まあ、こんな形で繋がる縁なんてすぐ切れることはわかってるんだけど……やっぱり、自分の存在を認知してもらえるというのは満たされる。
友達が少なく、コミュニケーションを取るのもあまり上手くない、間違いなくカースト下位に属している自分が持つ唯一のアイデンティティ……それが、勉強。
稀にクラスメイトから注目されるのも、担任から褒めそやされるのも、勉強が出来るから。
自分と同じくカースト下位に名を連ねる地味で目立たない生徒達との大きな違い。勉強が出来ていなかったらこうはならない。
それだけで自分は上なんだって、勝った気になっちゃう……。
この頃からすでに自覚があったと思う。
成績優秀者であることへの優越感。
普段目立たない自分の存在を示し、知ってもらいたいという承認欲求。
その自覚が、やがて価値観へと変わっていく。
「お母さんは
中高一貫ということもあり、高校受験は必要なかった。
高校からは内部進学組と受験組とで混ざり合う。
たいして勉強もしないまま淡々と進学する内部進学組に対し、直近まで猛勉強を果たし合格を勝ち取った受験組とでは学力にムラがあり、初めのうちは受験組の多くが成績上位に食い込んでくるというのが例年らしい。
だから負けないように勉強を頑張りなさいと先生が
進学してからもやることは相変わらず勉強だけで、そのおかげかポッと出の受験組に抜かされることもなく無難に成績優秀者を継続出来た。
そうして高校生活の1年目が過ぎて、2年目の夏休み前に行われる保護者付属の進路面談で、担任が開口一番、東大受験を勧めて来た。
現在の志望校を聞くでもやりたいことを聞くでもなく、単に東京大学を目指すべきですと自分ではなく母さんに……。
生徒の進学実績=学校の進学実績に繋がるわけだから純粋にただの打算でしかないことはわかってるけど……当時の自分は目先の成績にしか興味がなく、先生にそう言われても……ああ、これ小学生のときにもあったなって、その程度の感想しか抱かなかった。
小学生のときに起きた出来事は、高校でも起こるらしい。
東京大学なんて言葉を聞いた母さんはおおはしゃぎもおおはしゃぎ。
その場では家でゆっくり話し合ってみますなんて言いながら、家に帰るやいなや進学実績の高い大手予備校の資料を取り寄せるべく、ひたすらパソコンの前でカタカタ舞い上がっていた姿はたぶん一生忘れない。
じきに父さんが帰って来て、母さんからの報告を聞いた父さんは……まあ、行きたいとこがないなら目指してみたらいいんじゃないかって、珍しくちょっと嬉しそうにしてた。
学校では優等生として度々注目を集めて、自分自身のスキルを遺憾無く発揮して、適度に満たされては今が充実してるなって錯覚してた。
ホントに、このときまでは良かった。
「おおっ、春宮また東大受験か……。いやいいけどさ、将来のこととか色々考えてるか?」
受験は、3回失敗した。
どうやら成績優秀者としての自分が通用したのは学校という狭い狭い箱庭の中限定の話だったらしく、その範囲を学外まで広げたとき、真の成績優秀者達を前にして力の差を思い知らされた。
現役のときは、本番の感触から落ちるだろうなと思ってそのまま落ちた。
そこできっぱりと諦められれば良かったけど……まあ、そういうわけにはいかない。
今までの自分を支えてきた唯一のアイデンティティとは何か――?
それは、勉強だ。
勉強しか取り柄がなくて、勉強しかしてこなかった人間が受験に負けて終わるわけにはいかない。
期待してきた周りの人間に、あいつは受からなかったんだって思われることが癪で……。
通用しなかった事実に自分自身が許せなくて……。
不合格を母さんと父さんに伝えた後、来年もまた受けるからって当たり前のように浪人を告げた。
今思えば、ここがターニングポイントになってたと思う。
このときは後一年も勉強すれば必ず受かるって謎の自信があったんだよな……。
あぁ……辛かったなぁ。
全く思い通りにいかず一年二年って……。
本番が近づくと学校に調査書を取りに行く必要があって……あれ、お前まだ受験生やってんのって担任の顔が本当に嫌だった。
苦しかったなぁ……。
必死に勉強してるのになぜか去年よりも成績が下がったり、浪人までして不合格で……なのに、現役バリバリで受かる人間も普通にいて嫉妬で狂いそうになったり、年が経つごとに色々思い知らされて……ぐちゃぐちゃのズタボロになって、気が付けば合格してた……3浪目で。
受かったとき母さんは喜んでくれたけど、父さんは何とも言えない微妙そうな顔をしてて……。
俺も……あれっ、これで本当に良かったのかって。
ひょっとしたら取り返しのつかないところまで来ちゃったんじゃないかって……、受かってるのに凄く微妙で……少しだけ、恐くなった。
「響、お前は大学出たらすぐに就職しなさい。院には行かなくていい」
入学して間もなく、父さんから大学院への進学は出来ないよと釘を刺された。
3年も浪人して、親にはたくさんのお金を使わせた。
貯金を切り崩してその上での今があることと、単にお金の問題を除いても多浪したのだから一年でも早く就職して欲しいと、そんな意味合いが込めらていたと思う。
入った科類が理科だから、順当に行けば理系の学部に配属されてゆくゆくは院にも……なんて考えていたけど、父さんにこう言われたなら仕方がない。
母さん相手に反抗は出来ても父さんには逆らえないから、二つ返事でわかったと答えた。
この頃の自分は大学受験という呪縛から解放され少しは余裕を持てたから、割とあっさり受け入れられて……故に、自分の将来について真剣に向き合う機会が与えられた。
やりたいことは何か?
どの年齢でどれぐらい稼ぎたいか?
地位や世間体は?
漠然とは想像が出来ても具体的なイメージは固まらない。
自分の力を示せて、今まで積み上げてきた時間が無駄にならない何か……。
考えて考えて……時間を掛けて色んなものを調べて……それでも、その何かが見つからない。
何をすべきなのか、何になるべきなのか、答えが出ないまま悶々と時間だけが過ぎていき―――。
結局、答えは出ないままで……代わりに時間を掛けた対価として一つの思想が身に付いた。
『これから先の人生は、これまでの懸けてきた全てに対して見合った生き方をしなければならない』
母さんに中学受験を勧められたあの日から、今に至るまでほとんど勉強しかしてこなかった。
同級生達が放課後遊びに出かけたり、部活に勤しんだり、恋をしたり、各々が青春を謳歌するなか自分だけが勉強。
勉強すること自体は嫌いじゃなかったし、成績優秀者である自分に価値を見出だしてきたわけだからそこに後悔はない。
ただ、周りが遊び呆けてるなか自分だけは努力を重ねて来たわけだから、その分は報われなければいけない。
誰もが羨む職に就いて、たくさん稼いで、サボって来た人間とは明確に差を付けないと……そうじゃないと、釣り合いが取れなくなる。
ちゃんと、意味があるものにしないとダメだよな。
――――(🖤)――――
考えが固まってからは、とても早く時間が過ぎた。
友達なんて必要ない。
本当に必要なのは円滑に単位を取得すべく情報を共有出来る知り合いだけ。
新しい春が来て……また次の春が来て……あっという間に……。
さあ、就活だ。
知ってる……ここからは……。
「あれ、春宮さんまた落ちたんすか? あっ……あー……なんかすいません、僕だけ」
「君、もう少しアピールした方がいいよ。ほら、東大っていっても現役生ってわけじゃないしさ……。なにかないの? 勉強以外にして来たこと」
「えーっと、一応三浪してるわけですし多少なりともフィルターが掛かる部分はあるんですよ……あっ、もちろん多浪してても凄い企業に入る人は普通にいますよ! ただ個人によってかなり差があるというか……ここまで落ちてるなら少しレベルを下げて身の丈に合った企業を受けた方が……」
やめて……。
全部知ってるから、もうやめて。
「春宮さんっ、もういっそのこと院に進んだ方がいいですって! 春宮さん見てると思いますもん、真面目に勉強頑張っても多浪して面接ゴミなら良い企業には入れない。オレなんて一浪二留っすよ!? 大学の成績も良くないし……ねっ、就活なんてしても辛いだけだしとりあえず院に入って現実逃避しましょ?」
わかったから……。
「ねえ響、あんた高望みしすぎなんじゃない? もうちょっと色々考えてから……」
やめろって……見せるなって。
「お前みたいな人間採りたい会社なんかあるもんか。自惚れるのも大概にしろ」
「だからやめろってっっっっっっっっ」
意識が、覚醒する。
――――(∇)――――
「……ぁぁ」
夢を見た……物凄く、嫌な夢。
今までの自分の人生の、後悔が残るであろう瞬間を一つのテープにまとめて映像化したみたいな……。
どうして、こんな夢を見たんだろう?
寝間着のTシャツがびしょびしょに濡れて、貼り付いて気持ち悪い。
喉が乾いたしシャワーも浴びたい。
このまま横になっていたいけど……まずは、水。
薄い掛け布団を払いのけて起き上がろうとする直前、ゴロンと物が落ちたような軽い衝突音が聞こえる。
音の方向へと視線を向けると、そこには放り出されたスマホが……。
なんとなしに手に取って時間を確認してみる。
「……留守電」
時間よりも先に着信履歴の表記が目に付いた。
「母さん……」
母さんからの、留守電?
今の時間は午前3時過ぎ……。
寝たのが22時頃だから、それ以降に電話を掛けてきたのか。
「………」
反射的に留守電を復音させようとして、手が止まる。
前の……電話での言い合いが頭を
言い合いというよりも、母さんの言葉に腹を立てて一方的に騒いでただけだけど……なんか、気まずい。
…………。
いいや、所詮は留守電だし気負う必要なんかない。
止めた手をスマホに添える。
タップして……。
「響……寝てるの? それとも無視? 寝てるならしょうがないけど、無視だったら怒るわよ? 子供じゃないんだからそういうことは止めなさい。……でね、前のことだけど、もう一度ちゃんと話したくて電話してるの。ホントは直接が良いけど、あんたが出ないから留守電にしとく」
「………そうね、前は母さんが無神経だったと思う。そこは謝るわ……ごめんなさい。あんたはもう社会人だから色々と折り合いをつけて、目の前のお仕事に集中して欲しいって、そう思ったの。大学も卒業したし大丈夫かなって……あんたの気持ち無視して決め付けようとしてた」
「母さんなりに気負わくていいよって伝えたかったの……。だけど……うん、やっぱり無神経だったわ。あんたからすれば大学入るのに凄く苦労して、今までたくさん勉強してきて、それを父さんと母さんが望んだ部分もあるのに、虫の良いこと言っちゃった……。あんたにとってはとても大きなことなのにね」
「でもね、あんたはあんたで意地になりすぎてる部分はあると思う。昔から一度こうだって決めたらそこに固執しちゃうとこあるでしょ? 別に自分の考えなんて都合の良いふうにコロコロ変えたっていいんだからね? 拘らなくていいの。今の自分が楽になれるなら、楽しくなれるなら、そっちに変えたっていいの。大事なのは今の自分よ、今が幸せならそれでいいと母さんは思う……。まあ、またこういうこと言うとあんた騒ぎそうだからしつこくは言わないけど」
「あっ、あとね、その不貞腐れた態度は何とかしなさい。あんたにとってはそうかも知れないけど、学校の先生って世間では凄く立派な職業よ。なりたくてもなれなかった人がたくさんいるんだから……今のあんた見てたら、周りの先生方に凄く失礼に映ると思う。ちゃんと気を使いなさい」
「あんたが今いる場所は学校で、そこで働いて、お金を稼いで生活出来てるの。働いてるんだからお金が貰えて当然なんて考えはダメよ、感謝することを忘れちゃダメ。どれだけ納得がいかなくても、そこだけはちゃんとわかってないとダメだから」
「はいおしまいっ、これ以上言うことはないわ! 夏になったら一度こっち帰ってきなさい。電話じゃなくて顔を会わせて話をしましょ。じゃあね!」
留守電が、切れる。
気が付けば、耳に当てていたスマホを床に置いて母さんの話を聞いていた……。
ごめんなさい、か。
母さんが自分から謝るなんて珍しい。
例え非があっても俺に謝ることなんてほとんどなかったのに。
そっか、今回のは謝るんだ……謝る必要なんてないのに。
この前怒ったことなんか気にする必要はない。
全部わかってるから……図星を当てられて癇癪起こしただけだって。
理由を付けて母さんのせいにしようとしてただけだから。
大学受験なんてまさにそう。
始めたのは父さんと母さん……後は学校の先生だけど、みんな浪人してまで東大に入れなんか言わなかった。
期待してたのは現役のときだけで、浪人するのも頑なに志望校を変えなかったのも全部自分の意地……全部、自分で決めたこと。
父さんと母さんは負い目に感じてたと思う……自分達から勧めたこと。
だから、浪人を止めなかったんでしょ?
だから、口出しせず自由にやらせてくれたんでしょ?
知ってるよ。
知ってて浪人してた。
仕事のことだってそう。
教員採用試験を勧めてきた母さんに、少なからず不満があったから勢いまかせにぶつけてしまっただけで……。
別に、教師という職を下に見てるわけじゃないよ。
ただ、納得がいかないままこの道に進んでしまったから、そこが気持ち悪くなって爆発しちゃったんだよ。
母さん……。
今さら考えを変えろなんて、そんなものは無理だ。
都合の良いふうにコロコロなんて出来ない。
だってさ、それをやっちゃったら今までの時間はどうなる?
教師になるなら東大なんか入る必要なかったじゃんか。
浪人までして、こんだけ勉強する必要なんてなかった。
それならほどほどに勉強頑張って、後はたくさん遊べばよかったってなるだろ?
学校の思い出も友達の思い出もそれ以外も全部含めて、、、
なんっっっっっっっっっっっっにも残ってないんだよ、俺には。
その全部を取っ払ってリセットしろって?
積み上げてきた全部を忘れて楽になれって?
無理だって、ここまで来ちゃったんだから。
受験で多浪して、就活に失敗して、理想とはかけ離れた職に就いて……たぶん、これから先の人生も思い通りにいかないまま過ぎていくんだと思う。
受け入れざるを得ないってわかってる、変えようがないから。
でも。
それでも、ずっと思い続けるよ……こんなはずじゃなかった、今まで積み上げてきたものと全く見合ってないって。
納得がいかないこの気持ちは一生引きずり続ける。
わかってる。
それが、ダメなんだよな?
ここで、変えなきゃいけないんだよな?
この仕事辞めて次の道に進んでも、ここで変われないと何回も同じことを繰り返し続けるんだよな?
根本的に割りきらないと、意味がないんだよな?
わかってる。
わかってる……わかってる……。
わかってるわかってるわかってるわかってるわかってる。
わかりたくないけどっっっっっっっっっっっっ。
吹っ切らないと、いけねぇんだよなぁ……。
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