「外堀は埋まっていく」




―――職員室、始業の鐘が鳴るおよそ20分前。




「えっ……今日も休みですか?」



「うーん……なんかね、お腹痛いの一点張りで学校に行けないって。無理やり行かそうとしてもベッドにしがみついて動かないんよ」



「……はあ」



「ご飯は食べてるし、テレビ見たり本読んだりもしてるから、病気とかじゃないと思うけどねえ」



「それは」



「まー、あと二三日もしたらいつもみたいに学校行けるようなると思うから、もう少しだけ様子見させてね」



「あ……はい。もう少し休んだら、来れるようになりますか?」



「大丈夫大丈夫、あの子根っこの部分では強いから大丈夫よ。先生も忙しいのにわざわざありがとうね」



「いえいえとんでもないです……お大事に。舞さんの方にもよろしく言っておいて下さい」



「ん、言っとくね。じゃあ失礼します~」



「あ、はい。こちらこそ失礼します」




 はい……ともう一度だけ返答があって、そこで切れる。



 電話の相手は薬師寺のお母さん……じゃなくて、薬師寺のおばあちゃん。



 薬師寺の父親は長期の出張のため一時的に家を空け、別々に暮らしてるらしい。


 家は父子家庭とのことで、父親の代わりに薬師寺の面倒を見るため祖母が一緒に暮らしてるんだとか……。



 だから、電話の対応をしてくれるのもおばあちゃんで……初めて薬師寺のおばあちゃんと電話をしたとき、そんな込み入った身の上話を聞かせてくれた。



 一応、教師という立場上、生徒の家庭環境は書類を通して知ってはいるんだけど……なんか、おばあちゃんとのこの電話、一週間ぐらい同じやり取りが続いてる気がする。




 

 一週間か……。


 お腹痛で休むにしては流石に長いよな。




 何か他の事情があるんじゃないですかって聞けなくはないけど、保護者相手に疑いを掛けるような質問は相当気まずい。


 それに薬師寺は女子だから、成長期というのも相まってお腹痛と言われると特別な事情を抱えてるんじゃないかって……色々、察してしまう。



 そんな敏感な問題を男性教員である自分が根掘り葉掘り追及することは、流石に無神経だと思う。



 これは逃げとかじゃなくて、割とマジな方向で。




 あと二三日で来る……か。


 前にも同じような台詞を聞いた気がするけど、どうしよもないよな。



 結局は様子を見て……待つしかない、よな。


 



、だなんて思ってませんよね、春宮先生。マイナス一点ですよ」



「うおっ……橘先生」




 電話から漏れでる音声を盗み聞きしようと思えば出来なくはない……それぐらいの距離で、クラス名簿を片手に俺のことを睨み付けてくる橘先生。

 


 恐いです。




「電話の相手は薬師寺さんのお宅ですね、何とおっしゃってましたか?」



「ああ……その、腹痛で来れないと」




 薬師寺の家から連絡が来たなんて一言も言ってないのに、断定する形で橘先生が会話を始める。


 聞かれてたのか、雰囲気で察されたのか。




「腹痛ですか……。ゴールデンウィークが明けてからもう一週間程になりますね」



「まあ……はい」



「はいではありませんよ。どうしてすぐに引き下がってしまうんですか? 腹痛にしても、容態を聞くなり保護者の方に詳しい説明を求めるべきです」



「確かにそれはそうなんですけど………薬師寺は女子じゃないですか……色々あるかなって」




 言い訳がましい弁明。


 だけど、実際のところ踏み込み辛い話題であることに変わりはない。




「はい? 色々とは? あなたは普通に聞くことも出来ないんですか?」



「いや、そうじゃなくて」



「なにが、そうじゃないんですか?」




 察して下さいよ……。




「色々あるんですってば……僕の口からはとても」



「意味がわかりません。その色々とはなにかを説明しなさい」




 歯切れの悪さにイラついたのか、命令口調に変わる橘先生。



 こうなったら、誤魔化し切ることは難しい。



 いや……言えなくはないけどさ。


 言えなくはないけど、絶対気まずくなるし……。




「春宮先生、いい加減にしてもらえますか?」






 いいや、もう……。






「ん……その……あれですよ、生理とか……まあ、あるでしょ」




 不可抗力。


 これは、不可抗力。








「………は?」




「わぁ……この人最低…」







 え……?







「はぁ………。あなたはほんっっっっっっっとうに…………もう、結構です」




 目の前の橘先生が、今までに見たことないくらい顔をしゃくれさせながら呆れている。


 気まずくなるとは思ったけど、想像以上の反応が返ってきてまるで犯罪を犯したような気分。



 そんな、ダメだった?


 言えって言ったのは橘先生だし、一応俺は自重しようとして……。



 それに、向かいに座る愛沢先生から言われたような……。




「春宮先生、あなたのそういうところは明確に問題だと思いますよ」



「問題、ですか? 僕は僕なりに配慮して」



「不要な配慮です。仮に腹痛の原因がその通りだとして、普通一週間も休むと思いますか?」



「そういった場合も」



「ありえません。人によって重い軽いはありますけど一週間も休むことはありません。あまりにも酷いようなら病院に行くなり適時対応して多少は和らげることも出来ますし、一週間も掛かからないうちに学校に復帰出来るはずです」



「一般的にはそうかもしれませんけど、例外だって」



「その例外に確答するほど特殊なケースだとして、学校に何の連絡も入れないというのはおかしな話だと思いませんか?」



「……ぁ」   



「どう思われますか?」



「………はい。確かに、それはおかしいです」

 



 完璧に詰められた。



 でも、そっか……そう言われれば、そうだと思う。



 はっきり否定されて、橘先生の意見に納得してしまう。




「ですから尚のこと詳しい説明が必要なんです。あなたはよく知りもしないで、わかったつもりになって様子を見ようとした……ましてや生理だなんて、本当に」 



「……すみません」




 なんだか、じわじわと恥ずかしい気持ちになってきた……。



 お腹が痛いってことはそういうことなんだろうなって、わかった気分になって浸ってた………恥ずかしい。




「いいですか春宮先生、私は学年主任です。自分の受け持つクラスだけでなく一年生全体の生徒に対してある程度の情報を把握しておく義務があります。少し前から薬師寺さんが欠席していたことは当然認知していましたし、春宮先生の対応も近くで見守っていました」



「え、見てたんですか……? だったら」



「だったらじゃありません、あなたがいつ動くのかを待っていたんです。腹痛が原因で一日二日休む程度なら私もおかしなことだとは思いませんけど、それ以降からは明らかに不自然。いつ春宮先生が保護者に説明を求めるのだろう、いつ春宮先生が薬師寺さんのお宅に出向いて様子を見に行くのだろう、そう思いながらずっと待っていました」



「………」




 その結果、全く動きもせず様子を見るという決断を下し続けた自分に限界を感じて声を掛けてくれたのが橘先生だと。




「生徒の情報を把握しておくことは大切ですが、新任教師である春宮先生を指導、監督することも大切な役割の一つなんです。学年主任ですから」



「……はい」



「私の言いたいこと、わかりますね?」




 叱るべき対応を取れということだろう。


 様子を見るのではなく、すぐに動けと。




「今日、放課後に薬師寺の家を訪ねてみようと思います。それで……今どういう状況なのか、調査してみます」



「よろしい。腹痛なら腹痛でどのような症状が出ているのかを詳しく。もしそうでないなら何故学校に来ないのか、その事情をしっかりと」



「そうでないならって」



「生徒を疑いたくはありませんが、嘘を付いてる可能性だって十分考えられます。ただのズル休みにしろ、深刻な事情を抱えてるにしろ、5月のこの時期に休むことを覚えてしまえばこれから先の中学生活に間違いなく大きな影響を与えてしまう。だからこそ、今のこの段階で早期の対応が大切になって来るんです」



「……な、なるほど。でもそれって仮の話ですよね?」



「あくまでも、仮の話です。そうでないというならそれに越したことはありません。とにかく、現状がわかない以上はこちら側から動いてその事情を突き止める。春宮先生、お願いしますよ?」



「は、はい。心得ました」


 


 圧を掛けられたわけじゃない、特別な含みがあるわけでもない。


 なのに、橘先生の言葉が妙に刺さる。

 


 今、自分の考えや心の在り方は間違っていて、その一つ一つを正されていくような……そんな、見透かされた感じ。



 橘先生は俺なんかよりずっとずっと教員としてのキャリアがあって、どういった状況でどんな対応をするばいいのかその答えを知っている。


 だから学校からの信用もあるし、学年主任という役割も任されている。




 その上で、橘先生の言葉に見透かされてると感じてしまうのはなぜだろう……?



 正解を知っていてそれを教えてくれてるわけだから、何も考えずその通り動けばいいだけなのに……この、モヤモヤした気持ちはなんだろう……。






―――俺は。





「春宮先生のことですからまた妙な勘違いを起こす前にもう一つ。春宮先生は薬師寺さんの担任なわけですから基本的には春宮先生自身が薬師寺さんと向き合う必要があります。何かトラブルがあったとして、それを解決するのはあなたです」



「………」



「ですが、何もかもを一人で解決すればいいというわけではありません。それが出来るなら理想ではありますけど、高々一人の人間に出来ることなんて限りがありますから……そこの部分、勘違いはしないように」



「橘、先生……」






「春宮先生、もし薬師寺さんが深刻な問題を抱えてるとして自身の手に余ると判断したなら、まずは私を頼りなさい。いつでも話を聞く準備はしておきますから。いいですね?」












 

 橘先生との会話。


 最後にそう言われて、少しホッとした。



 なんだ、いざというときは助けてくれるんだって思っちゃったから……。



 そう思ってしまったら……もう、甘えざるを得ない。







――放課後、薬師寺宅を訪問してみるもそこには誰もいなかった。



 誰も、迎えてはくれなかった。






――――(♠️)――――





 

 誰しもが無意識に気付かないフリをしてしまう……なんてこと、一つや二つくらいはあると思う。



 今自分は気付かないフリをしていると、自覚があるわけじゃない。


 考えるのが嫌で、それを認めるのが嫌で、無自覚に何も感じないよう心がどこかに隠してしまう。




 そういうこと、あると思う。




 きっと大抵の場合はそれを受け入れず、時間の経過と共に昇華されていき、昇華された後は何事もなかったかのように胸の中は今までの心で満たされて。

 

 本当は、無意識とかそんなもの関係なく気付こうと思えば気付けるはずなんだけど……だいたいは、なあなあにして逃げてしまう。




 逃げれるうちはそれが一番幸せだから、いいんだ。




 いいんだけど……。



 逃げられない場合は、どうなる?

 




 一から自分の心と向き合って、無自覚なものに対してちゃんと自覚を持って……なんて、そんな優しいものはない。


 本当に逃げられない状況にあるなら、周りも環境もそんなゆとりは許してくれない。




 逃げられない場合は……、、


 周囲にその事実を突き付けられるんだ。



 今こういうことになってますけど、どうして気付かないフリをしてるんですか?


 初めから、全部気付いてましたよね?




 はっきりとそう言われる。


 心の準備とか受け入れる準備とか、何にも出来ていないタイミングでいきなり突き付けられる。




 そうして突き付けられた後は、償いの時間が始まる。

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