第4話 空の青さ

三人をすっぽりと囲んでしまう草木を搔きわける。深々と生い茂る青柳は一面に広がる大地と生命の営みを覆い隠していた。三人が足を踏み出すたびに草木は折れ曲がり足下を突く。手で掻き分けるたびに草木は前方に新たに顔を覗かせる。爽やかな空が恨めしかった。汗で貼り付くシャツ、耳もとを行ったり来たりする羽音、道なき道を進む足は疲労がたまり始めている。唯一の救いと言えば、放射するコンクリートジャングルよりは天然ものの方が幾分かましな温度であることぐらいだろう。しょうたを先頭に進み、さおり、下野の順番で列を形づくっている。さおりはまだまだ余裕綽々といった表情だったがしょうた、下野はげんなりとした顔を見せ始めていた。単に体力の問題ではない。やる気がやすりで削られていくような不快感で熱気が零れ落ちてしまうのだ。

「なんだって休日にこんな道を通るのさ」

薄っらと粒立つ汗が布と擦れる。下野は文句の一つや二つ、声に出さなければ一気に破裂してしまいそうだった。岩や枝の他に視界にかかる斜線が歩きにくさを助長している。新品のスニーカーはまさしく真っ白なキャンパスで製作途中の前衛的緑のデザインが特徴的だ。容易にとれそうもない汚れに戦々恐々とするばかりである。言葉が頭を回るたびに嫌気がさす。正解のない堂々巡りの気持ちが尾を引いて、頭が飲み込んで繰り返して同じだった。気づけば足元に沈む。下野は下向きな気持ちばかりではいけない、と心機一転で空を見上げたが、それでも視界にちらりと現れる黄色がかった背高草が気になってしまって仕方がなかった。顔にかからんとする雑草は一・五メートルに迫る程で、威圧的だ。遠くに聞こえる蝉とぼんやりとした日々。下野の一歩一歩に対して蕾を揺らし応対する様は夏至も過ぎた本格的な夏の訪れの予兆に違いなかった。

「仕方ないだろ、平日じゃ学校のなかは人も多いし、あの様子じゃ屋上なんて行けっこない。放課後だって先生たちは歩きまわっているらしいしな。だから日曜日に来るしかないだろ?休日ならゼロとは行かなくとも、まだ人も少ない」

軽く息を吐く。この問答も何度目か。お互いに返ってくる言葉は分かりきっていた。

「だからってさぁ、こんな裏から行くことはないんじゃない?」

学校の裏、待ち合わせの公園から坂を下ること数分。山とも平野とも呼べない半端に盛り上がった土地に学校は背を預けている。手入れなど行われず無造作に放り投げられた土地には広く多年草が手を広げている。海を旅した風は学校によって隔てられ届かない。人が憩いの場とするには不釣り合いな土地だった。音も匂いも五感の全てが人から離れた土地は虫たちの原始的な生態系を形成していた。当然、大人も子供も寄り付かない。ゆえに土地はますます荒れる一方だった。

「学校だってさすがに玄関くらい戸締まりしてるだろ。じゃあ、先生に嘘言って入れてもらうってか?入れてもらってからもついてこられちゃ、終わりだからなぁ。それにだ、浪漫がないだろ」

下野の目を見て、顔には得意げな笑み。言葉を奪われた下野の口からは空の音を鳴らすことしかできなかった。してやったり、と細まる目から彼の不満がいくつか空気に溶けていく情景を見た。

「その他だと窓から入るしかないんだし、任せとけって。とっておきの場所知ってるんだ」

自慢げではあったが、シャツにまばらに緑が目立つ状況では格好がつかない。

「でもさぁ」

下野の返事は歯切れが悪かった。ここまで来てしまった以上、文句を言える立場でもないことも自覚していた。それでも食い下がるのは負の感情も大きな原動力となるからだ。柔らかい土と草木に足を取られずに歩くにはそれなりの体力を必要としていた。同様にしょうたも口を動かして気を紛らわせることには賛成だった。

「まぁまぁ、それよりも屋上に着いたときのことを考えようぜ」

思いつくままに話題を変えた。フィクションではよく見た屋上だったが、何せ直接目にすることは初めてだった。あふれる黒ばかりの町に灯された光は魅力的だ。羽ばき、目が焼け、そうしてなお目に差し込む白を貪る。日常という灰色のコンクリートにそびえる光明が彼らを惹きつけてやまなかった。

「私はねぇ、UFOの破片がねぇ、落ちてるとうれしいかな」

余裕綽々の足音に重なって軽快なリズムの言葉。

「へぇ、破片なんだ」

「そりゃ、本体があるのはさすがにあり得ないからね」

破片であれば彼女の中ではリアリティがあるらしかった。銀に光る流動的な動線、LEDライトが霞んでしまうくらいに反射しする機体。高速飛行が輪郭に靄をかける。骨と肉の箱の内側では眩い電気信号が飛び交っていた。

「UFOはないだろ。あったとしても学校に落ちてるわけもないしな。俺ならだよ、学校の屋上では違法なビジネスが行われてると思うんだ。植木鉢に大麻とマリファナが植えられててな、ここなんて目じゃないくらいに緑なんだ。でな、石崎とかいかにもだろ?あれは俺の目が正しければだけどやってるぜ。あいつがボスなんだよ、おかしいと思わないか?先生だって普通もっと注意するだろ、あんなやつ。なのにいまだに反省なんてしてないし、止まる気配もないし。マフィアだっけ?ここはそういう奴らの施設でそれを隠すために生徒が集められているんだよ」

疑問を投げかける前に我先にと前のめりだ。彼が一心に詰め込んだ数々は具体性だけは富んでいた。しかし悲しいことに石崎博が鎮まる様子を見せないのは彼自身の気質と半ば諦めかけた教師の怠慢が理由に過ぎない。

「私とあまり変わらないじゃん」

「だね」

しょうたの熱量に圧倒されて二人は思わず力が抜けそうになる。足を取られる前に強く地を足で踏みつけて一息の言葉で気合を入れなおした。

校舎との距離はそう遠くなかった。もともと公園から直線距離で二〇〇メートル程度。それを悪路が無理やりに引き延ばしただけである。そのことがより一層もどかしさを生み出していたが、それもすぐ終わるであろうことは容易に理解できた。

「もうすぐじゃない?」

「そろそろだぞ、さとし。さっさと行こうぜ」

生い茂る微かな隙間から人工色の壁と少し泥濘んだ土の様子が覗えた。時間にして二桁に満たないほど分数の旅路が区切りを告げていた。

「よしっ」

さおりは両の足で着地する。

「やっとだね、やっと」

「まだほとんど始まってないようなものだけどな、ほら、ここからだぞ」

「わかってるよ」

憑き物が取れたような爽快さが顔に出る下野。しょうたも肩を数回回すと手を組んで上へと伸ばす。伸びる肩の心地を確かめるとしょうたは壁へ目をやった。

凹凸のあるクリーム色の校舎、薄灰色の汚れと影が醸し出す暗い雰囲気を緩和していた。頭よりもいくつか高い位置には窓が。三人の視点からは白色の天井と稼働していない蛍光灯が見えている。少し辺りを見れば同じような窓が一つ、二つ、三つ以上均等に並ぶ。下野やさおりはそれらの違いなどわからない。並ぶ窓はどれも何の変哲もなく無個性で透き通っている。それでもしょうたにとっては違うらしかった。明確に指を指し示す。

「その窓だな」

一、ニ、三、と窓を数えて四つ目に指を指して止まった。窓、ガラスはめ込まれ隅には黒ずんだ汚れ、向こう側で湾曲した下野たちが水に溶いた絵の具のように楽しげだ。細めた目から窓を刺す視線ものらりくらり、透明な中身に透かされて肩透かしな気分だった。

「この窓がとっておきってこと?」

下野は未だに彼の言葉の一つの外形しかつかめていない。いったい何をうちに秘めているのかは皆目見当がつかないが、それでもいつものように箱を開けて無知を晒すことを良しとはできなかった。下野でも侵入経路であることはわかる。それでもここだけ彼の秘策になり得た理由に疑問符が取れなかった。もしかするとここだけ窓の鍵が閉まっていないのかもしれない、何故、ここだけ閉め忘れるからか、四番目の窓を唯一。それはあり得なかった。用務員は仕事を全うしている。顔に作る谷は年々深く、額から雫が浸食したV字谷に違いなかった。幼い下野たちには齢五十を超えたあたりから区別がつかない。雲の上を突き抜けた塔はそれ以上伸びようと物差しでは測りきれないように、五十も六十も百も木乃伊であっても大差のないように感じてしまう。であるから、かの用務員の齢が五十を大きく超えた高齢者であること認知しても正確な歳を測りきれなかった。しかしながら数字で分からなくとも相当な年齢ではあるはずである。曲がった腰がモップをかける後ろ姿。根を下ろす冬嵐の日の老木の強かさを連想させられた。確かに高齢ゆえに手元を狂わせることくらいあるだろう。であるにしても一つの窓だけで認知に問題の生じる事態は不可解と言えた。

「わかった!さっき言ってた麻薬かなんかの話が本当で、これは抜け道なんじゃない?その犯罪をしている人たちが内緒で集まったりするための道で……、なんでしょうたが知っているのかはその、しょうたは犯罪組織の一員でだからさっきもあんな事知ってたし、そうだよ、そうに決まってるよ」

さおりは一人譫言のようにぶつぶつと呟いている。下野は何を荒唐無稽なことを、と言葉が半ば飛び出たが一先ずはしょうたの反応を待つことにした。

「いや……、まぁ、あながち間違いとも言いきれないのか?」

歯切れの悪さが目立つ。

「まぁ犯罪とかについては俺が言っておいてなんだが、今は置いておいてくれ。ここの窓ってだいたいの場合鍵が開いたままなんだよ。橋田と山上のせいでな」

聞き覚えのある名前だった。かといって顔やその特徴が即座に心当たるようなものでもなかった。数瞬頭を捻り、思考の大海原へ繰り出さんとする下野。しょうたは見かねて助け舟を出した。

「覚えてないか?去年とか石崎について回ってた奴」

「あ、それ覚えてる」

さおりは誰に伝えるでもなくポツリと漏らした。下野も途中まで聞いてようやく合点がいったようである。

件の生徒らは典型的な野蛮性と思春期にありがちな過剰な自意識を持ち合わせた人物だ。それに加え石崎博の威を借りようとする小鼠もかくやという狡猾さを持ち合わせているのだから厄介極まりない。

「あいつらがさぁ、ちょくちょくここで遊んでんだよ。ほら、ここらへん良く野良猫とか通るし、そういうのにちょっかいかけて」

濁された言葉の先もおおかた予想はついた。石崎博の陰に隠れていたゆえに大した脚光を浴びることのなかった彼らも相当のものである。

「だからここだけよく日中は空いてて、夜も閉めるのを忘れる。まぁ戸締まりするのだって相当おじいちゃんだしなぁ。前々からなんかできないかなとは思ってたんだよ。でもそんな機会ないし、ちょうどよかったな」

「鍵が空いているのは何となく予想できてたけど、なるほどねぇ」

「へぇ、でもさ、空いてるときがあるのはわかったけど本当に毎回あいてるの?おじいちゃんが気づいて締めたりしないのとか、そもそも空いてない日だったりはしないの?」

時に思わぬ鋭利さは彼女の持つ生来の無邪気さの特権である。下野も賢しらに頷いてみせた面持ちをぴたりと硬直させた。今の話も彼の堂々とした威風が追い風になっていたが、一変して何ら確証はない世迷い言の影をちらつかせ始めた。にわかに首をもたげた不安はいつしか過去の己よりも説得力を帯びていて、きっと開いてなどいないに違いない、と否定の色を鈍く描き殴る。幼稚暴虐の家臣であれど毎日飽きもせず、猫を虐めるものだろうか。少なくとも下野は見たこともなかった。とても毎日と言える頻度ではなかったはずである。すっかり後ろ向きに加速してしまった下野は解放感もどこかへ置いていってしまっていた。しかし、しょうたは止まったように佇まいにも変化がなかった。全くの見当外れではないはずだったが、下野方が萎縮してしまう。さおりも懐疑的な視線を向けつつ、何があるのではと期待せずにいられないようだった。

通学路をあるく日常的な歩調を乱さず、窓へ歩み寄る。手はなんの重しもないように、窓を開放した。

「ほら、空いただろ」

そこには一切の余念を感じさせぬあっけらかんとした口調だけがあった。

「あ、本当だ」

「だろ?」

からからと鳴る気楽な2人に下野は若干の戸惑いと釈然としない気持ちを抑えることに必死だった。

「ちょ、ちょっと待ってよ、結局なんで開いたのさ」

手を半ば差し伸ばしすように問いかけた。

「さぁ?でも開いただろ」

遠い空を見るように言い放った言葉には長い付き合いである下野も虚を突かれ、そして破顔する他なかった。



学校に土足で上がり込む。掠れた土気色は背徳の蜜に満ちていた。風通しの良くない渋滞した淀んだ空気も、今日ならば愛せる気がするほどに。窓の先は視聴覚室である。漢字が立ち並ぶ大仰な名前でも今ではなんてことのない空き教室の一角にすぎない。足元に横たわる廊下の感触と立ち込める空気の印象は対照的である。足を二三度打ち鳴らし、湿り気を帯びた大地とはまた異なる感触を確かめる。床の木目に沿うように爪先を擦る自然的で人工的な様子がやはり学校に来たのだと実感させてくれる。人一人の気配もなく廃墟のような陰鬱さでもない。いるはずのものがいない光景が下野には少し新鮮に思えた。耳を突いて仕方がない沈黙が下野の記憶と重なり、その異物感は如実に彼の心境に表れていた。自分を取り残して世界が消えてしまったような、はたまた世界が本当の姿を取り戻したような。『我』がただ一人中心には立っている。窓が不可解に少年らを映し出しているように、虚ろに他者は存在しているのかもしれなかった。

「これからどうする?」

不思議と下野の声は弾んでいた。

「あぁ、ここからは屋上に向かうわけなんだが」

「それなら私に任せてよ」

彼女は人知れず活躍の場を渇望していた。発端は彼女であったが、ここに至るまではしょうたが主導になっていたのだ。草間を縫うさなか鳴りを潜めていた彼女の爛漫な笑顔が少しの欲求不満を感じさせた。

「まずはどっちの階段から行くかでしょ」

この南北に伸びる校舎は南と北、それぞれに一つずつ階段が設置されていた。職員室に隣接して南階段が、視聴覚室に隣接して北階段が居を構える。一階から三階にわたってその基本構造に一切の変わりはなかったが、屋上に限ると話は違っていた。

「あぁ確か屋上は南階段からしかいけないのか。でも、だからといってわざわざ一階の職員室の目の前を通る必要なんてないだろ」

「だね、そっちから二階まで登って、それからあっちから屋上までいこうか」

そっちからあっちへ、北から南を指で指し示していた。

話し合いを終えた三者は恐る恐る、隙間から様子を窺うように扉を開く。焦慮と不安が三人に珍妙な小走りを演じさせていた。


「ねぇねぇ、スポーツって見る?」

二階の廊下をひたひたと歩き、中間地点を越えたあたりでさおりが尋ねた。

「どうしたんだ?急に」

「いやぁ、歩いてるだけだし、何か話そうかなって。ほら、オリンピックもあるしね、8月とかに」

「あぁ、ロンドンのやつか、ロンドン五輪。ニュースなんかで盛り上がってるのは何となく分かるけど、親が見ないからなぁ。正直テレビ点けて見ようって気にはなれないな。でも、あれぐらいは知ってるぞ、あの、オンライン化だったりインターネットを使おう、みたいな話。ニュースでチラッとだけど」

ロンドン五輪。四年に一度の祭典は僅か数週間に迫る足取りで近づいていた。イギリスの都市ロンドンで行われるそれは人々の国民意識を再確認し、煽られたナショリナリズムが団結の兆しを見せていた。夏の陽光と共に訪れる気炎は陽炎のように儚く、そして真意の掴めぬ曖昧さだった。しょうたはそこに若干の居心地の悪さを感じずにはいられなかった。メディアを挟んで向こう側、堀深く、いかにも西洋といった立ち居振る舞いの公人が壇上で大手を振っている。まさしく国民の賛同の台風の目である彼らが巻き起こす大嵐と驚異の風速は日本列島さえ巻き込んで、瞬間風速なれど無視できぬ流れが生まれつつあった。

「あぁ、インターネットを活用して配信するって話でしょ?まぁ、私もテレビで見るから関係ないけどさぁ。それより、しょうたも見ようよ、オリンピック。ルールが分からなくても雰囲気で楽しいと思うけどなぁ。一つくらい好きな競技とかあるでしょ」

「いや、ないな。まず家は誰もスポーツ見ないし、俺だって好きじゃないし。見たところで何が楽しいのか分からん、それだったら本でも読んでた方が良いだろ」

「なにさ、つまんないなぁ。サッカーとかは?注目だ、って言ってる人もいるけど」

「自分でやるならまだしも、人のを観ても楽しくないだろ」

テレビのみに収まらずソーシャルメディアを活用する、俗に言うソーシャリンピックは近代のテクノロジーを表す一つの指標である。大人が集まると十人に三人はスマートフォンを持ち歩いていた。しょうた、さおりには馴染み深い光景であっても急勾配の普及率が現実にある。ほんの数年前、時代の節目ごとに衝撃を与えてきた異国の地からまたも時を飛ばしたような品が来訪した。黒船を連想させる黒光りしたフォルムはてくのろじーに相応しくひどく未来的だった。生き急ぐ現代人よりもせせこましく生活に浸透する。いつしかそれは染み付いて離れなくなった。今を生きる者たちにとって満足感と可能性に満ちた品である。現状に歓喜することは良い。しかしそれと同時に解体され、夢が機械に成り替わるテセウスの現代社会で人々がどのように大志を抱き続けるかは一つの課題でもあった。日進月歩の歩みでも止めることは許されない。一つの解としてなされたのがソーシャリンピックの実現だ。古代オリンピックの終了の三九三年から約一六〇〇年が経った。かの名高きオリンピアからの香りは四次元の中でアテネと重なり、受け継がれた奥底の心は電子情報体を手足としてさらに足を踏み出そうとしていた。さおりはぼんやりとした様子で目を輝かせた。

「今のは良くないんじゃないのぉ?高橋先生だってサッカー好きだって言ってのになぁ」

「あいつに好かれようとなんて思ってないから」

首を動かすこともなく眼球だけさおりを示す。しょうたは高橋光夫という教師を思い出すが、自身の好きなこととなると気持ちが先行して呂律の回らぬ国語教師を仰ぎ見る気にはなれなかった。

「そういうさおりは本は読まないのかよ?」

階段の手摺りを掴み、そこを中心点とした円周状の運動で一息に二段、三段駆け上がる。

「なんかなぁ、やる気でないんだよね」

舌を少し出して苦味をアピールする。

「残念だなぁ、読みやすいのなんていくらでもあるのに、絶対読んだ方が良いと思うのにな」

しょうたの間延びした声に対してさおりはやや呆れ気味だった。

「例えばファンタジーとか興味ないの?分かりやすいやつ、いくつか貸してあげるけど」

「はいはい、わかった、わかったから。それぞれ好きなものを見ればいいよね」

「だろ?」

意趣返しに気を良くしたしょうたは階段を一段飛ばしで登っていく。身体を押す勢いのままさおりと下野を引き離す形だった。それに負けじと追従するさおり。ひっそりと歩く下野だけが影を踏む形で距離を開けていた。階段の何もない空間の広がりがより一層声を響かせている。硬いゴム質の音。遠くへ飛んでは消えていた。下野はその音を頼りに彼ら二人が先にいることを把握していたが、その寄る辺が途端に失せた。ちりりと不吉な妄想が明滅するも答えは数歩曲がると瞭然だった。二人の前に立ち尽くす待ちに待った扉は茶錆が目立っていて、とても桃源郷への入り口とは信じ難い。そんな一枚の扉。薄灰色の扉は壁に溶け込んでいる。端の欠けた深緑の掛け金と小さな南京錠だけが境い目を表している。凹凸の粗いすりガラス向こう側の景色を青と灰色とだけ教えてくれていた。三者は息を呑み、手を伸ばし、見つめ続けた。三様の反応を見せながら眠っていたのは似通った感情であった。しょうたが南京錠を掴むと隙間風が通る。中手骨を撫でる微風に含まれているのは空気中の塵と潮の残り香である。鼻腔を通り過ぎて数秒、振り返ると薄れ始めるような記憶が今この時だけ淡さを放っていた。掌で南京錠を転がす。躊躇なく右半身を扉に預けた。青い空を射る音共に呆気なく開いた。


「なんもねえのな」

さしたる障害もなく空は依然青いままだった。自由に動き回る風の心地が誰にも観測されることなかったこの場所を実感させた。足音にかぶせる砂利の擦れる音が聴き取れた。視界に細く海が昇る。トタン屋根の波が迫る。彼の生きた世界の全容は大きくも小さくも感じられた。流れの停滞する井の中で大海を夢に見た。それは今影を見せている。反射する青が大海以上の自由の面影を残している。海沿いの道路を走る自動車の中には乗っているのは。モーゼのような波の切れ目から顔出す黒い髪は。揺れる夏草は。酷く矮小だろう。それでもこの場にいる現実と無数の広がりに可能性を感じずにはいられなかった。雲の切れ間に映る数枚の羽ばたきは空気を押しのけている。ただそれだけ、影響は世界に変革をもたらすことはなく誰一人新たに焚べられる闘志の火はそこにはない。蝶の羽ばたきは世界を変えるというのに、彼の心に火種はまだなかった。されど薪は積み上げられた。彼の人生における大火のために。瓦礫と砂粒の舞う殺風景を時に彼は思い出すのだろう。瞳孔に反射する空の青さを知った。一歩に満たない半歩。息は口に留まり、雑音は耳をついたまま。

「まぁ、悪くはないんじゃない?そろそろ帰る?」

深く息を吸い込み、肺を満たしてさおりは問いかけた。

「あー、まだ大分早いしなぁ、暇だし公園でも戻るか」

日は南に掲げられている。無造作に手を放り出す。項垂れるように曲がりきった首元が彼の目つきを睨みつけるように演出している。

「おい、さとし。そろそろいこうぜ」

一人扉から離れ縁に向かう下野に声をかけた。下野は振り返るのでもなく、無視をするのでもなく足元の小石を握った。

「ちょっと待ってて」

掌をするりと抜けるように石は消えていった。目に残った腕の残像が記憶へと変わっていく。下野は空に紛れたその点の行方を追うことなく、背を向けた。石は放物線を描いて飛んだ。空気抵抗を受け、ふらふらと蹌踉めいて飛んだ。コンクリート製の地平線を超えて落ちた。雲を目指し頂点を過ぎた頃には三人はすでにドアの影に隠れていた。そこに響く凹凸の荒い音の中ににくぐもった擬音が混じっていたことにしょうたとさおりは気が付くことはなかっただろう。その瞬間には石が男の身体を突き破っていた。一人の遠投を経て、男の頭潰すようにこじ開ける。頭蓋に穴を開け、脳を撹拌して頭の中に眠った。遅れて強烈な電流によって痙攣する身体。最後の命の脈動であって脱皮のような様だった。額から顎へ、首元を伝い一筋の糸を引いて砂を掴む。男の視界に滲むマーブル色の汗粒は血の霧と油の浮く水から形成される。靄だらけの意識、思わず右に左に、前触れもなく糸が切れた。膝から地に落ちて仰向けに沈んだ。蕾のなる7月のことである。












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