第5話 運命論者

下野はどこを足しても引いても釈然としない、そんな煮えきらぬ人種である。職場での彼は孤独さゆえに触れにくい異彩を放っているのかといえばそうではなく、かといって輪を描く中心点に近く彼がいるわけでもなかった。世捨て人のように俗世への交わりを拒むことが彼にできたのであれば、現状とは違う未来も存在し得ただろう。しかし、現実には幼年の心を捨てきれぬ彼はグラデーションの上を右往左往するばかりである。胸を搔く居心地の悪さに自らの指先を見た。

「すみません、七人いけます?」

暖簾を払い除ける手首に銀色の腕時計が目立っていた。下野は六人組から人一人が入るほどの空間を開け、背を眺めた。暖簾の隙間から橙色の明かりが薄っすらと漏れる。それを認識した次の瞬間に頭に入り込んだのは雑多な賑わい。グラスと人の活気に思わず眉を顰めた。互いに噛み合うことのない不快感はぶつかり合う歯車のように火花を散らしたが、それでも、これ以上の感情表現ができなかった。

「おい、入れるってよ。よかったなぁ、予約もしてなかったからどうなるかと」

安心したようにはにかむ谷島勤の歯は、ホワイトニングの施された乳白色である。

「おぉ、ありがとございます。ツトムさんはさすがですね」

ミゲルの大きな身振り手振りが人によっては動揺を誘うだろう。

「いい、いい。お前らも早く入るぞ」

手を軽く振って、残りの五人と一人を呼び寄せた。


店内は個室に区切られていたが音だけは無遠慮に行き来していて下野には壁など無意味にしか感じなかった。女性店員が七人の様子をこまめに確認する。何度も突く視線に下野は肩を縮めた。個室の前を皆歩いていく。店内に投入された人の活動がばらばらのスムージー状に混ざり合っていた。錯覚に陥るような迷路状の居酒屋。細い奥道の端で立ち止まった。

「やっとか、早く飲もう、最初はやっぱ生だろ」

「平岡さんダイエットするって言ってませんでした?」

「そうだぞ武志、奥さんが嘆いてたんだから」

座敷に次々と座る間も会話が途切れることはない。小太りの彼らにはテーブルと壁の隙間は手狭に思える。

「そういえば北澤さんは来なかったんすか?」

「いや、あの人は基本来ないでしょ。この間だってさ、作業にもたついてたらちょっとの間だけだけど手伝ってくれたんだよね。だから、お礼も兼ねて酒でもどうですかって誘ってみたんだけど、駄目だったね。いらないってさ」

「まぁそりゃそうっすね。あの人が仲良く雑談なんてしてるとこ見たことないですもん。趣味とかないんすかね」

「だよな、なんか人間味がないというか、人と楽しんでるのを想像できないというか、そんな感じだよな」

予定の空いていなかった者や断りを入れた者を除いて、集まったのがこの七人だった。当然北澤良治は後者である。年長であるがゆえに誘われることの多い彼がこういった会に参加することは滅多にない。従業員らも定型文のつもりでの誘い文句でしかなかった。彼を嫌うものは少ない、多かれ少なかれ新人として働いた時期がある以上彼に助けられたことのない者はいないからだ。しかし、筋骨の備わる身体と疲労性の眼光が周囲を敬遠させていることも事実である。宙に浮く彼の存在は飲みの席では度々話題に上がっていた。

「奥さんは?あの人奥さんとかはいないんすか?」

「あぁ、何か確か――」

「奥さんなら死んだらしいぞ」

したり顔の谷島が身を乗り出していた。

「いやな、俺も風の噂で聞いた話なんだけど、あの人もそろそろ六十かってくらいだろ?だから誰かが尋ねたらしいんだよ、結婚はなさってるんですか?って、でぽつりと漏らした、死んだよってな」

誰かに請われたわけでもなく語り始める谷島は嫌に饒舌だった。

「はぁ、なんというか……」

後輩の青年は人の訃報をゴシップと騒ぎ立てにくいらしく生返事である。

「な、びっくりだよなぁ。あの人も結婚してたなんて」

「はぁ」

「おい、はしゃぎすぎじゃないか?まだほとんど飲んでもないだろ」

「良いだろ、明日は休暇なんだし。なぁ、こんな話は知ってるか?」

近くで行われる光景を下野は遠巻きに眺めていた。徐々に運ばれてくる料理やグラスに手を着けるでもなく、部屋の隅で壁に身を寄せる。すでに空のグラスを鳴らしはじめる者が数人。部屋に充満する酒精を嗅ぐだけで酔いが回るような気がした。彼らの宴は薄れゆく理性の上に成り立っていた。夢見心地の会話は内容が何であれ笑いを誘い、今だ酒一つ飲まぬ下野には未知の世界を見るようだった。

「サトシ、楽しんでますか?」

固有名詞の発音が怪しくなる人物はこの場においてミゲルのほかいなかった。彼も酒が回り始めたのか、何時ものギョロリとした目玉は瞼によって遮られ、頬は赤みを帯びている。ミゲルの両の手にそれぞれ一つずつ、ビールジョッキが握られている。

「あれ?全然飲んでないじゃないですか、飲みましょうよ、ほら」

元々快活さが売りのミゲルであったが、このとき彼の声はひときわ大きく、個室の隅々まで響き渡っていただろう。下野が顔を歪め、近くにいた数人が思わず振り返るほどの声量だった。下野は当然、苛立ちがふつふつと沸いていることを自覚していたが、その勢いに気圧され何もできずじまいである。下野にぶつかるような勢いで差し出されたビールジョッキ、彼は思わず受け取ってしまう。仕方のないことだったのだ。ミゲルの視線は受け取ったビールジョッキに注がれていた。だからであろうか、下野が密かに歯を噛み締めたことに気が付かなかったのは。

「気持ちが良いですね」

ミゲルの表情は晴れやかな空のように曇りない。物事を達成したことに酔い、自身のビールジョッキを呷る。口元につく疎らな泡が話すたびに動いていた。

「飲まないんですか?」

「あぁ」

純粋な疑問に対しては曖昧な答えでしか返さなかった。下野はミゲルを一瞥した後ジョッキの縁に唇をつけた。ほんの少し舌で転がすようにビールを流し込む。口に広がる苦味は彼にはまだ不相応なようである。下野にはこの苦味を受け入れられる気がしなかったのだ。周りを見渡すと、誰もが笑っている。日常の出来事を、職場の愚痴を、学生時代の話を、語っていた。すでに何度語ったのかも分からぬダビングされ尽くしたテープのような話、語ることで色褪せ、もはやセピア色に成り果てた思い出話は遠い日の夢を見るようだった。心の中で吹き出さんとする黒い霧に下野は口を固く結んだ。

「サトシは何でここで働いてるんですか?」

傍から見るとぼんやりと情景を眺めているだけの下野にミゲルが問いかける。人によって簡単な問いでも下野は途端に返答に困った。答えるべきか否か、それ自体は分かっていても自制心が敵だった。

「俺は、まぁ練習みたいな」

身体を駆ける酒精のせいに違いない。

「練習?何の?社会人になるための、みたいなですか?」

「いや、いいんだ、それは。いったん置いとこう。それよりもミゲルの方はなんでなんだ?俺は成り行きっちゃ成り行きだし、ミゲルは母国から出ていったんだ。それなりの覚悟とか考えとか、そういうのくらいあっただろ」

実際に気になったわけではなかった。ただ自身のことを根掘り葉掘り探られるよりはましであると矛先を逸らしたに過ぎなかった。

「私ですか……」

しばし悩んだ様子を見せた。

「簡単な話ですよ。貧しかったので、ブラジルでは。私は北の方の生まれで、そこは皆が思っているほど発展してないんです。リオのカーニバルなんかは私にとっても別の国の話のようで、教育もまともにうけれない人がいっぱいいて、働いたところで何の足しにもならないです」

郷愁の念が透けて見える。故郷の現状と、だからこそ透けて見える彼なりの愛が話を彩っていた。

「明日食べるものに困って、治安のせいで明日の命にも怯えて、想像できます?多くの人は勉強もできないからどうすればいいかも分からない。だからまた、繰り返すしかなくなる。私もそのなかにいたんです。家族と身を寄せ合って、たすけあって生きてきました」

中南米の新興国として先進国に迫るブラジル。殺人発生率一六位である現実を下野が容易に想像することはできなかった。ミゲルは何も与えられずに生きてきた。皆が平均給与の半分以下で働く地方都市で生まれ、負の循環を生きることしかできぬと諦念に目覚めた営みのなかで。そしてそこから逃れたことで当時の環境の醜悪さがはっきりと見えていた。過去と現在の相対こそが彼の人間性を形作っていた。下野はそんなミゲルを見つめるのみだ。

「そういう環境から抜け出せたのは家族のおかげなんです。働きながら、余裕なんてないのに貯めてくれてたお金で日本に来れたんです。毎日少しずつ貯金して、やっとの思いで貯めてくれたんです。だからすぐにでも働いて恩返ししなきゃなって思って、お金を少しでも送ってお母さんもお父さんも楽できるように。それですぐにでもはたらけそうなところを探して、ここにって感じです」

「なるほどな、それは良かった」

息を漏らす。数回の会話でさえ疲れを感じる。ミゲルを前にする下野はいつもこうであった。ミゲルの持つエネルギーによって押された分だけを押し返すように感情が湧き上がる。そして、終わりを迎える頃には上澄みに疲労感が残るのだ。下野は馴れ親しんだ感覚で話は終わるものだろうと思っていた。だが、今日ばかりはミゲルも相当の酔いを感じているらしい。ふわりと軽く、心の底から出た言葉。

「最近、やっぱり思うんです。この国は恵まれてますよ、食べ物があって、寝る場所があって、着るものがある。勉強だって望んでもできない人がいるなか、皆が学校に行っているじゃないですか。私の国では家族もいない人なんていくらでもいました。周りに家族がいることがどれだけ素晴らしいことか。皆はもっと、感謝、感謝をした方がいい、当たり前じゃないんですよ、今は。最近も私の近所の子供が勉強は嫌いだって、やる意味なんか無いんだって言ってました。だけどそれは他の国を知らないからこそ言えることじゃないですか。他の勉強をすることが許されない人を知らないからなんです。この国の人は勉強をできる環境がある。そのことに感謝をしないといけないと思います。当たり前じゃない贅沢だから、それに文句なんて言うのはおかしいと、思うんです。この仕事だってそうじゃないですか。私はブラジルではお給料も安い、これより大変な仕事しかなかった。できるだけありがたいんですよ。家族がいる人もそう、いるだけでありがたくて、感謝しなきゃいけないんです。そうは思いませんか?」

朧げになり始めた現実感がミゲルに拍車をかける。頬の紅潮が収まる兆し見えないほどに白熱していた。

「家族は大切です。そして手を取り合えば皆は家族になれると思うんですよ。私はあの言葉が好きなんですよ、あれ、じんるいみな兄弟ってやつです。分かり合えない人はいないし、周りに人がいる、助け合えるような人が。私はだからね、みんな仲良くしてほしいですし、感謝して生きてほしいんです。簡単な話なんですけどね」

眠たそうな目をさらに細める。数分前には溢れんばかりの泡を蓄えていたビールジョッキにはもはやその影もない。側面にこべりついた泡の名残。それに比べて下野の手にはなみなみとしたビールジョッキが握られていた。

「あのさ……、ビールっていうのは、昔から親しまれてきたらしい。生まれたのは紀元前で、話によるとエジプトのピラミッド建設の時代、労働者はビールを飲んでたらしい。そういう記述があるんだって、ネットかなんかだけど。さらにそれからも味は多少は変わったかもしれないけど、ビールとして世界中の人が楽しみ続けてきた。大航海時代には水の代わりになったこともあるらしい。驚きだよな。話は変わるが、ビールには独特の苦味があるだろ、苦手だって人はなかなか多い。ホップに含まれる成分がそうさせるらしくて、覚せい剤ってのも苦いらしくてな、ビールと同じくらい、なんて話を俺もニュースで見たことがあってさ。そう考えるとびっくりだよなぁ。つまりだ、昔から愛されてきたビール、けれどそれを嫌う人がいることも事実、ビールってのは美味しい飲み物なのか、それとも不味い飲み物なのか」

下野はジョッキを握る手元を見つめていた。

「さぁ?私は美味しいと思うんですけど……」

「まぁ、それはどうでもいいか」

口の端から漏れる自嘲するような笑いだった。曙光とも残光ともとれる淡い電灯が揺れていた。机に、皿に、人に影を映し出していた。一方では潰れたように円形の黒が、もう一方では薄く引き伸ばされた定まらない黒が棚引いている。



数時間前よりも幾分か落ち着きを取り戻していた。酩酊感に身を任せることは心地良い。自身のは境界がぼやける様は胡蝶の夢を思い起こさせた。底の見え始めた皿に腹に収まった酒精。誰も彼もが外から内へ食物を取り込む。満たされたのは腹だけではないのだろう。心の余白を埋め、心の中身を押し出した。大小の違いはあれどそれは変わりなかった。沈殿した感情が溶け合わぬ重油のように浮いてくる。それは喉をくぐり口を滑り声を響かせた。その確かな達成感が人の身を包んだいた。残るは取り留めのない話ばかりだった。

当初の勢いは失い、終わりは近づいていることが窺えた。

「すみません、そろそろ閉店の時間が迫っておりますので、お会計の方よろしいですか」

個室の戸を開けた先に女性店員。下野が記憶を辿ると案内を受けた女性店員であるとすぐに気がついた。

「いやぁ、こちらこそすみません。おい、いくぞ。起きろよお前ら」

立ち上がったのは谷島である。眠気に誘われていた数人を足先で揺する。目を擦り、怖ず怖ずと起き上がる者を見て谷島は個室を出た。一人一人、夢から醒めぞろぞろと歩く様が巣穴から這い出る蟻の行軍のようだった。下野も遅れて個室を出た。


「いやぁ、明日休んだらまた仕事かぁ」

「ありがたいことじゃないですか」

下野は足元を眺めていた。コンクリート上の白線を指先でなぞる。火照った身体を風が穏やかに治めてくれいている。飲屋街をとうに抜け、夜道を歩く人影も三つのみ。会話は宙に解けずに耳の奥に残る。

「いや、まぁ、そういうもんなのかな」

谷島の歯が見え隠れしていた。

3人は上を向き、前を向き、ときに横を向く。ばらばらな視線が時として交錯することはあれど、どこかちぐはぐな重なりであった。下野の見上げた空に星は見えない。立ち込めた暗雲の先にこそ一〇年以上旅する光が存在するのか、それとももはや、現実社会の栄華を受け止めてしまった私達には見えぬものなのか、下野は前者であって欲しかった。光害は影に隠れるように存在していた。懸命に発展を繰り返してきた人工光がよもや星光さえかき消してしまうと気づいたのはいつのことだろうか。彼が思うにそれは郷愁の念に駆られ、地に身を放り出したある夜のことだろう。見上げた空に星はない、我々の目が曇ってしまったがゆえに。しかしそれは悲劇とは語られない。幸福と不幸はトーレドオフなのだと皆知っていた。彼らは選んだのだ。その現実だけが唯一そこにあった。下野は取り残されたようだった。見上げた空に爛々とした星々が存在していない、そのことが引き延ばされた曇り空をかける。

考えを巡らす末に大きな通りに出た。大きいなどといってもたかだか二車線の道路ではあったが、真っすぐに進めば駅に当たる中心的道路の一つだった。谷島を先頭にして道を曲がり駅前を目指した。谷島の腕時計から見える銀色の針が街のネオンを反射する。蛍光が前を向く、同時に、同列に。しかし、気がつけなかった。下野の頭がショートに違いない。彼自身の人生を省みるとそうとしか考えられなかった。

ヘッドライト、影。

震える衣服を掠めた。飛んでいる、宙を舞って、どこまでも上へ。店舗のシャッターを突き破る音の中、鈍い音で目を覚ました。トラックは頭を突っ込んだまま。暗がりに目をつむるようにトラックは落ち着いている。部品がひしゃげ、飛び散る硝子の甲高い音は嘘のように姿を消していた。下野の息が漏れる。抑えようと考えるほどに震えた息が印象に残る。

「サトシ」

気が付かないふりをしていただけなのかも知れない。視線を数センチメートル落とした先だった。ミゲルの額には汗が滲んでいる。二の腕についた浅い傷は地面を共に這う硝子の破片が原因だ。アスファルトに血痕を残してもなおミゲルは地を這うことをやめなかった。折れ曲がった足も気にはならない。危機的状況下のアドレナリンがそうさせたのだろう。目を見て問いかける、やるべきことがあるのだと。ミゲルの目がいつも以上に大きく突き刺さった。瞳孔が星の光を反射していた。

「ツトムさんが」

下野の先にはひび割れた眼鏡が転がっている。細いフレームが曲がり欠けている。谷島勤の声は聞こえない。頭部から湧き出る血液が応答だった。下野とミゲル、どちらも素人ながらに一刻を争う事態であることを直感していた。白いワイシャツは見る影もない。顔は青く、耳を澄ませば微かに聞こえる呼吸音。生死の境を今まさに揺蕩っている。谷島はうつ伏せに倒れていた。表情を窺い知ることはできない。安らかに眠っているだろうか。下野は自身の鞄を強く握った。左手をぴくりと動かす。鞄をただ見つめた。影がかかり、携帯の輪郭さえ覆い隠している。呼吸を繰り返したところで鼓動が収まる兆しが見えない。やるべきことがある。下野の決意とすら呼べない何かはまだ形を成していない。

「サトシ、サトシっ」

声は遠く聞こえる。時間は平等に過ぎた。溺れるような速度で流されていく。変わらずにはいられないのだ。全てが変わりゆくものであったから。下野に出来ることは汗の伝う身体を硬く握りしめることくらいだった。現実を浮かせたまま掴めない。そんな時間だけが数分と過ぎた。









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籠と鶏冠 未確認人工物 @kaomasi-

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