第2話 妄想恐怖症
部屋のドアが軋みながら閉まる音も、足の裏から伝わる赤く錆びた階段が放つ音も毎朝のことだった。古ぼけたアパートに付けられた階段は人を支えるには妙に頼りなく、下野は思わず手すりをつかむ。掴んだ手すりさえも錆びついており、ざらざらとした心地よいとは言えない感触に顔をしかめながら降りてゆく。朝日によって照らされる彼の家は恥ずかしげもなくその姿を晒していた。彼の住むアパートはこの地に根を張り、身体を構えてから、医療技術の発展とともに伸びた人の一生にも劣らぬ歳月を過ごしていた。内装こそ近年されたリフォームによって令和の時代に則しているものの、外観は昭和に取り残されたようだった。まさに、どれだけ外見を整えようとも精神と肉体の衰えを隠せぬ老人である。見栄えが良いなどとおおよその人が答えないであろうアパートは壁の所々が黒く変色し、怪しげな雰囲気を醸し出している。よくあるジャパニーズホラーで住人が見るも無惨に死んでいく住居というのはこのような見た目であるに違いない。かくいう彼もこのアパートを見るたび、その寂れた様子には少々暗い気分にならざるを得なかった。
「おはようございます」
下野の気分に反して明るい声をあげるのは一人の女性だった。女性といっても特に彼が異性として特別意識するような年齢ではなく、歳の頃50代といった女性だ。ゴミ袋をもつ彼女がこのアパートの住人であることは半開きになったドアとそこから覗く一室から理解した。彼には彼女の名前などわからなかったが、記憶を辿れば彼女を数度見かけたことがあった。
「おはようございます」
彼は挨拶を返した。互いに互いのことよく知っているわけではない。よくある社会的習慣と義務感からだ。この世界のたった数秒先でさえ何が起こるかなどわからない。それは喜びであると共に不安でもある。可能性とは聞こえの良い言葉だが正負両者を併せ持つことは周知の事実だ。仮に彼がここで挨拶を無視してしまえば、彼女は激昂するのだろうか。懐に隠し持つナイフが彼の皮を突き破り、剥き出しになる内側を見て何を思うのか。それを知る者もこの悪夢を否定できる者もここには存在しない。際限のない世界は気を抜けばすぐに奈落へ転がり落ちる。これに手を差し伸べられる者は余程彼を大切に思っているのだろう。それこそ一心同体、運命共同体とでもいうほどに。
とはいえ挨拶以上に両者が交わす言葉が思い浮かばず、すれ違う。女性はこちらを振り返ることなくゴミ捨て場にゆっくりと袋を置いた。黄色がかった袋が光を通すが中身は不確かだ。赤であるようにも黒であるようにも見える。彼は無意識にそれに興味を持っていた。不穏な欲求を胸に目を凝らしたところでぼやけた情景から変わりはない。かろうじて判断できる情報の断片から1つの絵をソウゾウするほかなかった。シルエットからは無機質な角張りではなく丸みを帯びた何かだと判断できた。色は強いて言うなら赤黒いという表現が適切だろうか。赤黒いと形容するものは世の中にそう多くはない。とりわけ熟れた果実や血液などがそうだろう。考えることをやめられない。脳に刻みつけられた探求への欲望の弊害か、馬鹿げた光景が脳内で泡のように浮かんでは消えていた。電線に止まる鴉が声をあげる。彼が見上げた先は決して一羽や二羽ではなかった。袋に惹かれるように一羽、また一羽とその数は増えていたのだ。一本の電線に十数羽がひしめき合う様子は壮観であると共に異様でもあり、彼には所狭しに並ぶそれらがひどく窮屈に見えた。朝日は今も照りつけている。先程まではあれほど輝かしく見えていた太陽が彼自身も気づかぬうちに覆い隠された何もかもを暴き立てようとする傲慢さを貼り付けていた。暖かなはずの朝はもうなく、そのことが彼の心を急かすのだ。咄嗟に周りを見渡した。目に映るのはゴミ捨て場、古びたアパート、そしてすでに閉められたそのアパートの一室だけだった。女性はすでに部屋へ戻ったらしく彼と彼女とを隔てるドアと壁は他者を拒み、彼女の心のなかを覆い隠すためにこそ存在している。どう足掻こうとも他者の心など窺い知ることはできない。ただでさえ人を正しく理解することはできないのだから、両者の間に壁がある今の状況では尚更だろう。袋からは腐敗臭が漂っているに違いない。まるで無数の虫がたかっているような感覚が背筋を突き刺し、思わず吐き気を覚える。しかし多くの人が口元を抑えるために使うであろう左手が指し示す先はやはり当然というべきかあの袋である。一歩、身体を動かすのはCだとかOだとかHだとか複雑に絡み合う化学式などではなく、その身に流れる物質に本質はない。単に好奇心だった。二歩、自身の足がコンクリートを踏みつける感覚は現実を物語る。近づくにつれて袋は遠近法を脱してやけに小さく見えた。3歩、踏み出すことはなく陽の光を浴び立ち尽くすのみだった。よくわかっていたからだ。この行動に意味がないことが、現実を必要以上に恐れる心は世界に走るノイズであることが。
まるで連想ゲームだ。他愛もない現実の物事を数珠繫ぎに張り巡らせるだけ。鴉が何羽いようと中身が何色であろうと、どうでもよいことだ。馬鹿馬鹿しく荒唐無稽な妄想に溺れる様は深い理性による洞察を基本とする21世紀の人類としてはあるまじき行為である。アメリカなど他の先進国に比べ日本の治安というのがいかに賛美の対象であるかなどマスメディアを通す世論からうかがい知れる。液晶の向こうのコメンテーターかはたまた異国人か、笑い声とともにそれが当然であるかのように高らかに声を上げている。集団に同一性を見出し、そのなかに自身を埋没させる寄生生物に言わせれば日本は素晴らしい国であるとか。否定したい気持ちが奥から湧き上がるが、悲しいことに概ね事実である。彼もわかっているのだ、あるはずがないことは。
ため息をつく。何の変哲も無いゴミ袋に背を向け朝日に向かう足どりは重かった。無意味であると、荒唐無稽であると繰り返す頭は影とともに揺れながら遠ざかっていく。
どれだけ遅く歩みを進めようとも、着々とその距離を縮んでいった。時間が経つごとに増える人通りや喧騒の数々に身を委ねていれば気づけば駅に到着していた。東京や大阪に見られるほどの大きさではないが、駅には確かな活気が宿っている。都会とはいえない街であっても休日となればこの人混みだ。下を向いて歩くサラリーマン、互いに笑顔を浮かべる親子、眠そうな目を擦る高校生。多種多様な人々を見ていると自身の生きる世界の狭さというのを思い知った気分となる。普段の彼の行動範囲といえばアパートと勤務先の往復のみである。出会う人々も同僚かコンビニの店員くらいのもの。同じ街であれど、異なる世界に紛れ込んでしまったかのようだ。
「お父さん、楽しみだね」「お前、まじかよ。遅れてくんの?」「はい、はい、すみません。ちょっと電車の都合で遅れてしまいそうで……、はいわかりました」「ねぇ、まだ?もうお腹すいたんだけど」「いやぁ、今日は暑いですね。そろそろ夏も近づいてきたって感じですね」「久しぶりじゃない?出かけるの」「わかった、それで?何分くらいかかりそう?」
申し訳無さそうに、何かに急かされるように、胸を躍らせるように動く。人々はそれぞれが言葉を発し、思い思いの行動をする。しかしその結果として漠然と一つの順路のようなものができていた。仕方なく押し寄せる人波に紛れて彼も歩き出す。気分は優れない。もともと人混み特有の暑さと息苦しさは嫌いだった。絶え間ない人という情報に圧倒されるにつれてそれが世界の全てかのように思えてくる。流れる人々は一つの大河のようで、一つの群体ともいうべき様相を映し出す。激流に晒される自身の孤独感が助長される。不愉快なことに大いなる流れに抗うことのできないたかだか八十億分の一の存在を突きつけられた気分になるのだ。微かな苛立ちを感じながらも下野は人混みをするりと抜けるように進んでいく。
「おい、見ろよあれ」
人を避けるとその先に人。まるで迷宮にでも迷い込んだようだった。壁はぐるりと自身を覆い隠すように立ちはだかっている。彼はそれにも構わず壁をめくりあげ、ときに避け進んでいく。ゴールには程遠い。右には人が立っており、左には人が立っている。圧迫感が彼を締め上げていた。
「楽しいね」
左右から迫る人を避けようと、足を一歩踏み出す。しかし、前方も後方も人が視界を占拠し、人で埋め尽くされていた。溢れんばかりの人造爆弾が駅を埋め尽くし、駅構内全てを爆風が覆い隠すように人の波は存在する。日々膨れ上がる宇宙を表しているに違いない、人も日々膨張する。目を離せば何倍にも増殖する人々はすでに臨界点を目前にしているのか、人々が耐え切れず弾け飛ぶ未来が脳裏には浮かんでいる。
「ありがとう。あなたのためだから。絶対。常識的に考えてさぁ。君は正しいことをした。それは良くないよ。私はそう思うな。わかるよ。はいはい。考えれば分かるだろ。そういうものだから。社会ってね。大人になれば。すごいね。もう分かったから。そういうことじゃないでしょ。馬鹿みたいなこと言ってないで。人のために。社会が」
頭に響きわたる声が歩みを妨げる。頭蓋の内側を反響し飛び交うように言葉は舞っている。彼の中にとどまり続ける言葉の数々が気づかぬうちに彼を蝕み、抉り取っていた。誰にも見えず、彼さえ後になって気がつくほどに少しずつ。苦痛は募るばかりだ。だが、それでも彼は着実にその歩みを進めていた。一歩ずつ確実に時間とともにその距離は近づいているはずだった。しかし、どれだけ進めど終わりが見える気配はない。彼が掻き分けた人の数はこの街の人口を優に超えているのではないだろうか。溢れんばかりの人的集合体はいつしか日本全国を占領し、世界を、いや宇宙さえも踏みつけるまで停滞することはない気がしていた。時間など時計の針が示してくれるが、彼の精神時間を観測する者は彼の他にはいない。そんな彼に言わせれば時間さえも消え失せたような途方もなく、それでいて刹那にも満たない時が経ったようであった。ただ先へ進むために立ち尽くす人を押しのける。とうに彼の心は疲弊している。しかし、どれだけ疲弊していようとも先へ進む以外の選択肢などなかった。下野はまた一人、彼の進行を妨げる誰かに触れようとした。
「なあ、見てるんだろ?」
突如、首がまるで雑巾を絞るように捻じ曲がる。人体の可動域を逸脱して下野を見るためだけに。想定のされない動きに悲鳴を上げ、毛穴から粘性を帯びた体液が滲み出る様はまさにオイル漏れである。皮膚は螺子のように皺をつくり、それが螺子ではないことを耐えきれぬ皮膚が赤みを帯びることで示す。顎を伝い首へ唾液が滴っていた。これほどの様相で尚、誰かはただこちらを覗き込むように、内を見透かすように何も映さない黒目を向けるだけ。手をあげるでも、喉から罵声を捻り上げるでもない。次の瞬間に消えていても可笑しくないとさえ感じさせる姿のまま微動だにすることはなかった。彼も目には見えている。目で捉え、存在を感じているにも関わらず、それ以上の何かを捉えることのないそれが恐ろしかった。一切の生気を感じさせない既知を被る未知なる存在を見る。内側はどれほど膨れ上がろうとも変化は訪れない。無害という外観を貼り付ける様は不発弾の静けさと同様である。不発弾といえど、当然爆発が約束されているわけではない。しかし、それと同様に不発を約束がされているわけでもなかった。訪れる死以上に万物が内包する宇宙が恐ろしかった。目の前に立ち上る爆風の幻想に絶えず立ち向かうことは紛れもなく悲劇だ。いっそのこと爆発してしまえば、と祈るほどに。彼の在りようは先に広がる暗闇を恐れる幼子と何ら変わりなかった。たまらず恐怖に後押しされるように彼は駆け出した。これ以上、直視できなかったからだ。己に何も与えず、何も奪わぬそれを拒んだ。彼以外動かぬ空間で彼の足音だけが虚しく響いていた。彼自身も理由などわからない。ただ頭を抱えて塞ぎ込むことだけは容認できなかった。人を押し退けて走る。彼にできることはそれだけであったから。
違和感をはっきりと認識したのは無限にも思えた人混みが終わりに差し掛かったときであった。初めは反響する音も非常に単調なものだった。一人によって奏でられる一種類の音。そんな心地よい響きの間にねじ込まれた気分は思いの外、そう悪いものではなかった。乱反射によって出どころの掴めない単音が耳に侵入する。衣擦れであるのか、呼吸音であるのか、定かではなかったが、情報処理よりも先に直感が答えを導き出していた。後方を振り返る必要性すら感じなかった。次第に混ざりはじめた不協和音から彼は気づいていた。前奏を終えたように喧騒も走り出す。同調するように早まる彼の足音を合図に群衆も激しく動き出ていた。それまで群体としての確固たる秩序を保ち続けていた集団は個々として脈動する。突如としてコンピューターウイルスを内蔵したUSBメモリを突き刺されたコンピューターを連想させる。不自然な挙動ともに不格好に動き始める様子は初めとは対照的だった。塊が散り散りになる様子は組織が膿を撒き散らし破裂する快感にも似た何かをもっている。状況を確認するためか各個体が目玉をぎょろりと動かす。肉体は待ち望んていたように微かに震えていた。人間的な自我の芽生えをもって人々は人として動き出す。先ほどと打って変わって勢いよく走りだそうと地を踏み、蹴り上げる。多くの人が見ればその様子に恐れをなし、後ずさるのかも知れない。しかし蓋を開けてみれば群としての機能を失ったことで加えた力は前方へ正しく作用することはなかった。肩はぶつかり合い、倒れ込む頭部がさらに見知らぬ誰かへ衝突する。一人、また一人とドミノ倒しのような惨状を生み出した。人々は彼に向かって手を伸ばすが互いの身体がもつれ合い届くことはない。絡まる足を解こうとバラバラな意志を持って動いてしまえば状況は悪化するばかりだ。身体は複雑に絡み合い、不自然な程折れ曲がる。ゴム人形のような身体が結びついている。それでも藻掻く音だけは絶えなかった。彼が息を切らし、走りながらも振り返る。彼の見る惨状は哀れなものだった。誰かの眼鏡はひしゃげ、ひび割れた彼を反射している。擦り切れたスーツから覗く肌が激しさを物語っていた。青紫の跡が青白い肌によって強調されている。微かな高揚を携えて前方を向く。痛々しい傷跡と病的な肌がぼんやりと纏わりつこうとも、彼は決して振り返らなかった。できることは歩くのみ。再び物悲しく、されど広々と足音は駆け回る。終わりも近かった。形を大きくする改札に気づき、彼は駆け足を少し緩める。素早くICカードを改札にかざした。後方には機械音だけが残っていた。
「まもなく2番線に電車がまいります。危ないですから黄色の線の内側までお下がりください」
公園のベンチに腰を掛けた。住宅街のなかにひっそりとたたずむ公園であった。地域住民を除いて利用する者などいない閑散とした様子が彼の身に安心感を与えていた。なんの宛もなく外を出たのだ、ふらふらと見知らぬ土地を彷徨ったところで行くべき場所など見つかるはずもなかった。どうするべきかと悩む頭と視界の片隅に発見した公園へと訪れたのだ。下野に特別な趣味はない。小説、ゲーム、映画など娯楽作品に事を欠くことはないだろうが、それを趣味であると胸を張れるほど深く熱中しているわけではないのだ。だからこそ休日の過ごし方は専ら遠出である。特に意味もなく自身とは縁遠い土地へ赴く。暇つぶしであると共に日常からの解放という側面もまた併せ持っていた。自身が周りを知らないということは周りが自身を知らないことを実感させる。孤独という充足を噛みしめる細やかな休日である。この公園は彼のいる街から六駅ほどはなれた場所にあった。電車にしておよそ30分、田舎とまではいかなくとも都心とは程遠い。そんな地域だった。彼の評価の通り、子どもたちの楽園も非常に簡素なものだ。滑り台、ブランコ、鉄棒。彼の幼少の頃から見慣れた遊具たち。今も現役を貫く老遊具は子供たちと共に笑っていた。
「あと三十回やったら、交代ね」
「わかってるって」
ブランコは遊具としての本懐を遂げている。和やかな光景だ。滑り台にプリントされた像が微笑ましく見守っていた。
「さんじゅう、にじゅうきゅう、にじゅうはち……」
誰しもが通ったことのある道だった。複雑な未来に分岐する前の原点。今が悪人であろうと善人であろうと皆、夕日を背に幾重もの足跡が刻まれた帰路についていた。ブランコの奏でる金属音が幼児の甲高い笑い声と溶け合う。宙に上る夏の熱気を吹き飛ばさんと乾いた匂いが吹き込む。揺れ動く景色はやけに鮮明に映っていた。視界を埋め尽くすのは青空と力を込める自身の手だった。時折靴底と擦り合わせる地面。舞う砂埃。力の限り動く、少し古くなり始めた遊具。天を目指すように上へと。数秒後には飛び立ってしまうのではないか、と妄想と危機感が脳によぎるほどの遠心力がすでに助走を始めていた。繋ぎとめる鎖の音など気にしていない。身を包む浮遊感は大空を飛び立つ鳥のようであった。彼らは何処へでも行ける気がしていた。上から見渡す町が全能感で霞んで見えた。
「にーい、いーち」
「えー、もう?ちゃんと数えた?」
見下ろす街から視線を外し、あどけなさの残る少年は疑問を口にする。
「ちゃんと数えてただろ。早く交代ね、さとし」
口を尖らせる少年もまた年相応であった。
「わかったよ」
振り子運動をそのままに抵抗をやめた身体は空へ投げだされた。ついに少年は空へ飛び立ったのだ。今まで以上の浮遊感がその身を襲うが、気にかける様子もなく重力とそれに抗う飛翔に委ねた。時間にして一秒にも満たぬ現象を体感する。気づけば足は地面についていた。大地の反発によって痺れた足で悟る。支えられることの安心感は微かな痛みを伴っていた。下野のなかで膨張する期待も彼を浮かび上がらせるにはまだ足りないようであった。人の身に翼は生えていない、11歳現在、わかりきった事実と夢想がぶつかり合う、そんな日々を送っていた。身体に走った運動の衝撃を吐き出すように短く息を吐き、鎖を握った。
「じゃあ、しょうたも三十回な」
「わかった、わかった」
交渉は成立したらしく、黒いシャツを着た理知的な印象を与える少年と交代だ。しょうたと呼ばれた少年がブランコを漕ぐたびに空気を押しのけて下野の髪を運ぶ。少し伸びてきた髪を不快そうに手で払い除けた。規則的に唸る金属音に呼応して心で数を刻んでいた。退屈極まりないが、仕方のないことだ。都会から漏れる騒音と刺激はこの閉ざされた田舎に響かない。華やかにラッピングされたカフェではなく、立ち並ぶのは誰が経営しているのかさえもわからない錆びついた飲食店だけだった。隣町に足を伸ばすことを冒険と呼んでしまう年頃ではできることなど限られている。そんな閉塞感を振り切るように近所の子供たちはブランコを精一杯漕ぐ。限られた娯楽は平等に民主的に分配されなければならない。無数の意見の交わりから、いつしか生まれた「三十回ルール」には下野も納得せざるを得なかった。最高ではないが最低でもない、妥当な妥協点だ。しかし、理解はしていても退屈であることに変わりはない。できることは彼方に思いを馳せることのみ。気持ちを紛らわすように空を仰ぎ見ると世界が球体であることを実感できる。下野の頭によぎるのは昨年見たスノードーム。父が同僚から譲り受け、クリスマスに限らず室内に放置されている一品だ。雪が舞い落ちいていたあの半球体は世界をよく表していたのかもしれない。
「おーい」
息を切らしながら揺れる声。下野としょうたの二人が待ち望んでいた声だった。遅れたことへの罪悪感からか、焦りながら走り寄る少女の顔には微かに喜色が混じっていた。彼女の様子を見て少年たちは顔を見合わせる。互いに頷き合う様子は一種の儀式めいていた。
「よしっ、全員集まったな」
しょうたは下野がしていたように揺れるブランコから飛び降りた。着地とともにバランスを崩しかけるが、不敵な笑みを絶やさない。彼は冷静な表情を保てているつもりであったが、気分の高揚を隠しきれていなかった。不安、高揚、決意、多種多様な感情であれど、それらが三人のなかで大きく膨らみつつあるのは明白だ。
「本当にいくのか?」
「まぁ、びびるなよ。大丈夫だって、なあ、さおり」
「一応色々持ってきたからね、万全だよ万全」
しょうたは顔に貼り付く自信を見せつけ、さおりは肩にかけた鞄からライトやボールペン、日の目を浴びることがあるかのさえわからない品物を携えて笑う。下野の怯えに対してさおりとしょうたの二人は事も無げに言ってみせた。下野は心の中身を入れ替えるために深呼吸をする。肺を駆ける新鮮な空気が彼の心を勇気づけていた。
「わかったよ、行こう」
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