籠と鶏冠

未確認人工物

第1話 籠の中の鶏

自由になりたい


男にとって空を見下ろす感覚は気分の良いものではなかった。頭上には地が広がっていた。はためく両手はが空を取る。その眼球が映しだす光は男を救う神の御手ではないことは明らかであった。男がもがくたびに不快な音が鼓膜を撫でる。器具の軋む音が男には耳障りでたまらなかった。自身の人生がひび割れる景観を幻視した。頭を覆う危機感と動揺は思考だけでなく目さえも曇らせていた。だからだろうか、男が短い生涯のなかで見たことのない鈍色の光はすでに眼前まで迫っていた。男はそれらを到底受け入れることなどできなかった。しかし拒む脳に情報をねじ込まれ、このような状態においても回転を増すことのない頭でさえ理解する。あらゆる生物に刻みつけられた恐怖、忌避だった。人が産声をあげるのはいつか差し迫る「それ」を本能的に予期したからに他ならない。余命の大半を用いた数秒間で得たものはさらなる恐怖のみであった。滴る汗で視界が滲むが、拭うことも許されず、ましてや目を閉じてしまえば未来永劫暗闇囚われることになるだろう。

男が想像したほど劇的な変化ではない。しかし、それは確かにそこに存在した。神が定めたであろう美しき生物の定形を歪められることの嫌悪感と共に訪れた赤い波。男が見下ろしている、否、逆さ吊りになった男を見下ろす青空と対象的な赤が視界を無遠慮に占拠し、我が物顔で男の身体を抱擁する。このような痛みは知らない、だがこの先は知っていた。到達すべきではない神のみもとであることは明白だ。脳細胞は痛みによって撹拌される。脳からの電気信号は適切な形でくだされず、生きることではなく苦痛からの開放を叫ぶ。絶えず分泌される脳内麻薬が身体は死を受け入れ始めていること男に気付かせる。男は無意識の内、視線の先に血液を鞘とするナイフを捉える。皮肉なことに現状を脱し得るのは男が恐れ、地獄を作り出した鈍色のナイフを使われることのみである。だがしかし世とは常人が思うよりも愛に溢れている反面、常人が思うよりも悪徳と不信で満ちているものでもあった。男の願いとは裏腹にその矛先は男への興味を失ったのか二度と男を捉えることはなかった。脳裏から足音が迫っている。首から流れ出た血河は地を終着点として夕焼けの如く染め上げる。今日はやけに寒い。当然だろう、外ではなく内から熱を奪われているのだから。頭上の夕焼けが次第に霞んできた。夜が訪れるのはそう遠くない。隣から聞こえる絹を裂くような悲鳴は天使の歌声と形容するにはひどく不愉快だが、死への祝福であると考えるとそう悪くはないと男は思う。あぁ神よ、不条理な世界に救いがあら―「おい、下野」


妙に響く低音が無数の機械音を潜り抜け、下野の耳に届く。下野が振り返れば立っているのは五十代半ばの男だ。白い作業着の上からでもわかる筋肉質の身体、170センチメートル後半であろう身長も相まってか人に威圧感を感じさせる。通常こうした身体は威圧感以上に活力や快活さを身に纏い、見る者によっては若々しいといった印象を与えるものだが、愛想や笑顔を知ることのないだろう表情筋が年相応の疲れを顔に見せている。下野はこの男を常日頃からプラモデルの頭だけを取り替えたようなアンバランスな男と評していた。

「お前集中してんのか?死んでないのが何体も流れて来てんだよ」

くたびれた顔の皺はより一層深く、注意することさえ億劫であることが見て取れる。その体躯と表情のせいか、他人には恐れられることの多い彼であるが存外面倒見が良いことを下野は知っていた。新人の頃、下野に仕事を教えてくれたのは他ならない北澤である。今では慣れた手つきを見せる下野も最初からそう上手くはいかないのは当然だ。響く甲高い鶏の合唱に顔を青くする彼を慮った顔がありありと思い出される。北澤の身体の皺も傷も歴史の上に刻まれた一種の記録であると考えてしまえば威圧感も少しは薄れるというもの。

「すみません、北澤さん、気をつけます」

下野の悪い癖だ。下野智が勤務中、物思いにふけることは珍しくない。

「あぁ」

淡白な返事だが、了解したのか北澤良治は踵を返した。互いにこの喧騒のなか言い争おうなどという気はさらさら起きない。屠殺という業務に耐えることができている以上精神面で常人に勝ることは確かではある。しかし、それが意味することは無心ではない。下野は時たま器具に吊り下げられた鶏は長期休暇のターミナル駅のようだとも思う。これからの行き先を知ってか知らずか各々が声を上げ、片道切符を手に次々に乗り込む。敷かれたレールを進み続ければ見えてくるのは人生の終着点である。人々の生の喧騒とは異なる死の喧騒は従業員の心に微かに降り積もるのだ。何年経とうとも気分の良いものではないのだろう。下野の業務はそのなかでも精神的負担が群を抜くものである。鶏の処理には多くの工程が存在する。器具に吊り下げられた鶏はナイフで屠殺され、数分間の放血が行われる。その後機械によって茹でられ、毛を取り除かれた鶏は不要な内臓や一部器官を除去され発送されて行くのだ。下野の担当は主にナイフでの屠殺だった。消えんとする命の灯火に抗う鶏たちは眼前の死に目を奪われその他些末なことに目を向けはしない。足は千切れ、凶刃から目を逸らすように眼球が地を這うこともしばしばである。さらにはうまく血抜きを行えなければ商品として売ることが叶わなくなることから業務的観点の重要性は語るまでもない。食鶏処分場につとめてはや半年、にも関わらず彼はそのような境遇に置いても自身を不幸であると嘆くことはなかった。それどころかこの業務につけることを幸福とさえ感じていた。


北澤に注意を受けてからただひたすらに機械を模すように軌跡を描く。すぐに物思いにふけってしまうのは彼も自覚する悪い癖だ。屠殺は彼にとって業務以上の大きな意味をもつものだが、それでも仕事であることに変わりはない。淡々と作業を行うがそう長くは持たず、時間が経つごとに鶏の首を切り裂く手は鈍くなりつつあり、雑念が混じっていることは明白であった。雑念とはすなわち迷いだ。近頃の彼は前に進みつつあるという実感を得られずにいた。命を燃やし叫び続ける彼らは人と何の違いがあるというのだろうか。大きな視点で見れば何ら変わりないのだろう。だが、今の自分では不可能だ。思考にとらわれながらもナイフを下ろす手は止まらない。彼らが宙吊りにされる様子で感傷に浸ることはない。命を奪うという点において全てが同じであるはずなのに今の現状が、自分自身が強くそれを否定していた。確かな満足感はある。しかし微かに自尊心を満たす行為が彼の空腹と苛立ちを訴えかけるのだ。すでに彼の瞳は鶏もナイフさえも映ってはいない。光の先に影を落とすように彼は理想を眺めるたびに、浮き彫りになる自身を見つめているのだ。


「なぁ、なんでっ、何がしたいんだ!」

名もなき男が絶望に濡れた瞳で語りかける。

男のいる部屋はもの一つなく、箱としての様相のみを保つ。周りの暗闇に目を向けずとも男の他に全てが存在し得ないのだと直感できた。

「誰のために殺すんだ?」

確定した死を前にしてもなお男は問いかける。それに答えるものは誰ひとりおらず、声はただ内界に留まるばかりである。

「お前は誰だ?」

遺言には不釣り合いな言葉を最後に男は消えた。正確には死という事象のみを与えられ、夢の残骸を残すことなく消え去った。男のいた場所から視線を外せば、その先に佇むのは名もなき女だった。取り立てて注目すべき特徴など形づくられず、男と男に与えられた死と同様に事象のみを意味する粘土細工にすぎない存在。女はその手を伸ばし問いかける。

「私のようになりたい?」

主に与えられた存在意義しか持ち得ぬ女は笑っていた。歯車が回るたび女の節々から機械な音が唸り声があがり、笑顔と合わさりそれが1つの生物の嘲笑のような印象を受ける。

「私を貫いて」

女は間もなく死ぬのだろう。彼も終わりが近づいていることを肌で感じ始めている。時計は女に指を指すように18時00分を指し示す。それが通告であった。

「死にたくないっ、助けて、死にたくない死にたくない死にたくない!」

女の目から流れるのは悲しみでも諦めでもなく、内に留めることのできない激情を表していた。目から頬へ、頬から顎へ伝う血の涙は意思を持つかのように形をなした。重力に逆らい女の胸元までのびた顎からの雫は決して落ちることなく。苦しみにのたうち回る彼女の頭が慣性に従い血の鶏冠を作り出した。想像の仮面を剥奪された女は奇怪な姿をもって声を上げた。


鶏の甲高い叫びとともにその日の業務が終わりを告げる。下野が足早に向かうのはロッカールームだ。汗と血のへばりついた作業着を快適といえるものなど如何なシリアルキラーとていまい。この処分場の従業員数は10人といったところ、小規模な施設といえど全ての従業員が一同に介すにはロッカールームは手狭、いち早く着替えて帰ってしまいたいというのが下野の本音だった。ロックルームにたどり着いた彼はドアノブに手をかける。古びた金具が不安を覗かせながらロッカーが開く音が聞こえた。どうやら1番のりではないようだ。微かな落胆を感じながらもドアを開けた彼に反応し、振り返ったのはミゲルという男であった。彫りの深い顔の影に強調された目玉がギョロギョロと彼を注視する。警戒心の露わにしていたミゲルは下野であることに気がついたのか、態度を一変させ柔和な笑みを浮かべた。

「智!おつかれさま、はやいですね」

人々の頭のなかに住むブラジル人とはかけ離れた小柄な身体でミゲルは喜びを表現した。

「お前も早いなミゲル」

笑顔をつくりながら作業着を脱ぎ始める。下野は無邪気な笑みを浮かべる青年が苦手であった。自身の感情を他者に憚ることなく表現する彼への羨望や嫉妬からくるものであるか、相容れぬ考えゆえか、理由は分からずとも心を許すことはないであろうと下野は感じていた。そもそも彼をミゲルと呼ぶことは友情の現れではなく『ブラジル人のミゲル』それ以上の情報を知らず、知ろうとも思えなかったからだ。であるにも関わらずそれを察することのない彼を突き放しきれずにいるのは下野自身であり、誰よりもそのような自分自身に対し、嫌気が差していた。作業着を洗浄用の籠に入れ私服のTシャツに着替えれば、血生臭く、陰鬱とした処分場の空気から一新され、不思議と開放感を覚える。意識が仕事から生活へと切り替わることで、気づかぬうちに蓄積した自身の疲労の存在を肩の重さで感じていた。やはり慣れたといえど何も感じないわけではなく、いかにキカイテキにと意識したところで真に「それ」になることはできないのだ。身体的、精神的負担を吹き飛ばそうと肩を回す。一部が錆びついたロッカーを閉め、視線の先には扉がある。帰宅の準備を終え、ロッカールームを出ようとする下野の意思を汲み取ったわけではないだろう、扉が開く。話し声とともに入ってきたのはメガネの男と小太りの男。

「勤さん、武志さん」

ミゲルの声で2人に気づくことのなかった彼らの意識を引き止める。

「おぉ、ミゲルと下野か。どうだミゲル、仕事には慣れたか?ここに来て半年だろ」

彼らは眼の前にいる下野を一瞥した後すぐさま向き直り、ミゲルに対し自然と笑みを浮かべる。下野は常日頃から思う。人は主観で生きている。私達の瞳はプロジェクターであって、光は自身のフィルターを通さないことには見ることができない。真実を眺めているつもりであっても投影された虚像に過ぎず、私達は世界の影に生きている。主観的世界に生きる我々の中心は自身であるといえるのだ。しかし、そのような論理を展開したところで人は主を絶対には保てない。自分の心さえ自由に操ることはできない人々はひどく不自由だ。言葉で守ろうにも現実は無情で、他者に脅かされず自己中心的世界への逃避は叶わないのだ。

「ちょっとまだ難しくて、この後教えてくださいよ」

笑っている。

「おぉ、じゃあこの後飲みに行くか!」

笑っている。

下野は彼らの会話を背に扉を出ようとした。

「じゃあ智もいこうよ。みんな家族なんだから」

いつものことだ、彼が彼であることをこの男は婉曲的に否定する。谷島勤や平岡武志を嫌うことのない彼がこの男だけを否定したくなる理由はこの場にあるのかもしれない。心を掻きむしる不快感が身体を突き破り自由を求めていた。喉までせり上がる言葉を吐き出してしまいたい。しかし彼の願いが叶うことはなかった。たしかに内に言葉の大群はひしめき合っているのに、それらは行き場もなく内臓に纏わりつく。口からこぼれるのは乾いた空気ばかりで彼がミゲルの言葉に答えることはなかった。自らを縛ろうとするミゲルの言葉を引き千切るように扉を出る。その歩みと沈黙が返答の代わりであった。


開いた扉の音が暗闇に反響し、何重にも聞こえるようだ。後ろを振り返れば彼を先程まで閉じ込めていた薄汚れた灰色の箱が佇んでいる。彼が歩みを進めるごとに無機的な足音が木霊している。音の響きを妨げる何かがここには存在していないことの証明である。電灯が時折彼を照らし、空を覆う黒が彼に影を差す。明るく、暗く、十数回と繰り返す内にひときわ明るさを放つ電灯が姿を表す。彼1人の世界もここで終了のようだった。意思を汲み取り、開閉する自動ドアをくぐり店舗へ入る。人口の多い町ではない。そのことはコンビニエンスストアの客が下野1人であることから伺えた。

「いっらしゃいませ」

接客業には適さない無機質な声だった。業務に従うその目には隈をつくり、陰鬱とした雰囲気が漂う中年の男だ。店内を物色しながらも視界の端の彼を捉える。男に興味があるのではない。彼を通してどうしても自身を見てしまうのだ。彼を見れば、人々に浮かぶのは同情だろうか。手を差し伸べることは彼の人生への値札を伴う。傲慢に貼り付ける価値は容易にとれはしない。悲痛と絶望を伴う所業を悪と呼ぶのなら、悪は生物の摂理だ。しかし、善とはそれと異なり人の業である。他者に理由を求め、善という重荷を乗せることを受け入れるべきではない。人々の盾であり矛である借り物の善は当初の彼らの理念にかけ離れたところで振るわれている。それは確かな矛盾を孕んでいるのだ。下野が思うに他者を自己世界に引き込み侵食することは自身を守り、他者を攻撃すること同義であると言わざるを得ない。言葉を脳内でまくしたてる下野は荒れていた。目も、耳も、身体も、脳も、五感の全てはここに存在するはずが、下野の心だけはここにはない。商品を手に取るでもなく立ち尽くす下野を店員が訝しげに見る。自然と下野の左手は右手に持つ鞄の中へと向かっていく。比喩ではなく暗闇へ手を伸ばす。彼の身体は強張っている。緊張からでも恐怖からでもなく、強く握りしめる左手ゆえに。

「大丈夫だ大丈夫、いけるいける問題ない。そうだろ?大丈夫大丈夫、落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け今やったってしょうがない、そうだな、OK、OK」

大きく息を吸い一気に息を吐く、深呼吸を行いながら暗示をかけるようにつぶやいていた。小さな声だ。店員に聞こえることはないだろう。言葉はコミュニケーションの意味を果たしていない。強いて言うならば、自身とのコミュニケーションだ。一部の人は思考が言葉を作るのではなく、言葉こそが思考を作るのだという。それならば彼の言葉はどのような自分を作り出すものなのだろうか。


眼前に広がる夜が機械仕掛けにより昼に変化する。LEDという名の人工太陽が下野を照らしていた。見慣れた風景だ。迷うことなく椅子に腰を掛け、コンビニのレジ袋と鞄を机に置く。ここ数日間、彼の精神的疲労はどうにも取れない。全身をだらしなく緩ませ椅子に身体を預けるが、主人を柔らかく包み込むことなどない木製の椅子は固く反発し不快感を与えるだけだ。軽く溜め息をつきながら身体を起こす。先ほど机に置いたレジ袋を手に下げ、キッチンに向かった。レジ袋の持ち手からはケーキが見え隠れしている。プラスチックの箱は光を透過し、一つ立ち尽くす味気ないショートケーキの姿を映し出す。プラスチックを固く閉ざすテープをなんの気なしに剥がそうとするが、包装用のテープとそれを剥がそうとする指との距離は汗で埋まり、もどかしい結果に苛立ちを隠せない。カリカリとプラスチックをする音が耳にこべりつく。数十秒の間、洒落た家具など見当たらない殺風景な部屋に音が響き渡る。やがて彼は溜め息と同時に自らの力で事態を脱却することを諦めたらしく、机の上にある鞄にそれを求めた。床を踏みしめ、歩く音は音の大きさに反して嫌に響く。フローリングが重力により軋むその様は人々の不安を想起させるものでもあった。シンクを流れる水の動き、不規則で自由に。壁にかけられた時計は歯車に従って一定間隔の音を打つ。足を止めると不快感を孕む音はぴたりと止まり、続いて訪れるのは静寂だ。彼の腕が動くことで微かな衣擦れを起こす。鞄を捉え、暗闇へ手を伸ばす。しかし、それよりも早く机に伝播する振動と電子音が彼の耳に届いた。思い通りに上手くはいかないのが世の中の常である。

『母親』

スマートフォンが小刻みに机を打ちつける。何も問題はない、ただ笑顔を浮かべ応対するだけ。自身の意識とは反対に身体を抑えつける無意識が鬱陶しい。胸の内に響く鼓動はそれとは対称的に静かに進む秒針と重なる。時計の針はぐるりと回るが見渡す限りこの部屋風景は何ら変わらない。依然として自己主張を続けるスマートフォンは健在だ。意を決して手にとり、耳にあてるスマートフォンは彼にはやけに遠く見えた。

「もしもし、母さん」

声は震えていないことに彼は安堵した。

「誕生日でしょ?智は元気?」

母の声はこちらを気遣うように穏やかだ。

「まぁ、大丈夫だよ。仕事が終わって今からケーキを食べるところだったからさ」

「あぁ、忙しいのね。それよりも仕事は大変?まだあの仕事をやってるの?あの、屠殺場だったわね。肉体労働だし、辛いんじゃないの?お父さんがねそろそろ地元に帰ってきてもいいんじゃないかって。今は24でしょ、私はあなたの好きなようにしてもいいんだけど、そろそろお父さんも辛そうだし、こっちにも就職ができるところはいくらでもあるんだから帰ってきてもいいんじゃないかって。ご近所さんも智が帰ってくるかもっていたっら喜んでたわよ。仕事も大変そうなんだし考えてみたら?」

母の声色は変わらない。彼を気遣っていることが嘘偽りなどではないことは彼自身もわかっている。実家の固定電話からかける母の姿はきっと笑っているのだろうと彼は想像する。受話器を手にもつ母はほほえみを浮かべている。彼女の立つ廊下を過ぎればリビングが見えてくる。中央のテーブルと椅子には腰を掛け新聞を読む父の姿が見える。下野にさして関心を持つこともない彼は母が嬉しそうに話す受話器とその先には気づいてもいないだろう。無関心な父と無邪気な母、幼少の頃から見続けたありふれた光景だ。

「そう言われても今は仕事も楽しいしさ、しばらくはこっちでやってくよ。母さんが大変なのはわかるけどね」

「そう?ご近所さんも残念がるわね。仕事が楽しいならいいんだけど、歳をとれば再就職もできなくなるんだからちゃんと考えて生活しなさいよ」

「わかってるよ、じゃあね」

「本当にわかってる?無理強いするわけじゃないけどね。そういえばね、智の高校の頃の同級生だった良平君、覚えてる?1、2年生のときクラスが一緒だった。今ご両親の工場を継いだらしいの。立派になってねぇ、あと友里ちゃんなんかはもうすぐ子ども、生まれるんだって。みんな頑張ってすごいよねぇ、あんたも頑張りなさいよ」

「はいはい、懐かしいね。そろそろご飯も食べなきゃいけなしから切るよ」

「そう?身体に気をつけて。そうそう、健康といえば最近ね私青汁にハマっちゃって―」

通話を切った。これ以上は会話をしたくなかったからだ。もう母の声は聞こえなかった。『音声通話が終了しました』、ただの11文字は彼の心を不思議と落ち着かせる。背筋を伝う汗は清涼な夜には不釣り合いだった。窓も扉も閉ざされた部屋は陰鬱な空気を逃すことなく留め続ける。部屋の電灯は光を与えると同時に影を落としていた。明るい部屋の中、ぽっかりと空洞が空いたように影を見せる鞄に手を入れる。いつものように左手で握るだけだ。中身は影などではなく目の前に常に垂れ下がる一筋の蜘蛛の糸である。先程までのことが存在しなかったかのようにただキッチンへ向き直る。心は落ち着かず、浮き足立った気持ちは決して心地の良いものではなかった。身を包むのは高揚だとか、絶望だとかそういった大層なものではない。定期試験を前にして焦る学生のように、はたまた社内会議直前に緊張を隠せない新入社員ように。ただ自身の道筋においてすべきことが見えている。見えているからこそ、背けたくなる。人の生存本能は危険から逃げるべきであると常々教えてくれる。しかし原始の時代ではない、現代に生きる我々の苦悩は生活最低限を支える生存本能では解決しない。だからこそ彼は前へ進むのだ。自身の理性と思考によって。

「誕生日おめでとう智 」

誰かのためではない、純粋で混じり気のない自分のための言葉はなんと心地良く響くことか。『他人じゃない、自分のために』彼の信条でもあった。

下野智は鞄から取り出した包丁でテープを切り離した。








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