❀第134話 あの夏の日をやり直す −前−
四月二十五日の放課後。私はまた図書室に行く。深呼吸して扉を開ければ、見えたのは桜色の髪をした青年で、私が恋をしたひとで、私だけを愛さないひとだった。
「……先輩」
今の桜子なら、彼を「薫先輩」と呼ぶべきだけれど、私はそう呼ぶ勇気がなかった。「花咲先輩」って、いつもの声で呼びたかった。間を取って、ただの「先輩」と呼んだ私に、彼は微笑む。
「紫月さん」
心臓が止まるかと思ったが、現実は反対に鼓動が早まった。ドクン、ドクンと暴れ出す。上靴を履いた足で、彼へと歩いた。酸素を求めて呼吸が浅い。脆弱な肺よ、もっとちゃんと働いてくれ。
「先輩。……待たせちゃいました?」
「いえいえ、別に。待ってる時間も好きだから」
「そ、そう。ですか。えっと、あの、今日は」
「昔に戻ったみたいなふりをするんでしょ? 一回目ごっこ」
「あっ、そうです。一回目ごっこ。ごっこ遊びです。ええ、そう」
久しぶりの誰かとの会話は、自分でもドン引きするほどに、ぎこちなかった。筆談なら、こんなにコミュ障にならないのに。
彼が、私の頬へと手を伸ばす。触れられる、と思って身構えると、彼の手が止まった。切なそうに笑んで、その手をもとに戻していく。音もなく離れていく。
嫌がったと、思われた? 違うのに、違うのに。緊張してる、だけなのに。
「レモン哀歌を、読んでほしい」
「へっ?」
「高村光太郎の『智恵子抄』の『レモン哀歌』を、君に読んでほしい」
「は、はい。わかりました。何度だって読みます」
何度だって読みます? 彼の前では一度だって読まずに自殺したくせに。嘲笑。馬鹿馬鹿しい。
日本文学の棚に向かう。私が初めて彼に触れた場所。私の恋が始まった場所。
「はい、どうぞ」
彼が私に『智恵子抄』を渡すとき、ほんのわずか、指先が触れた。心臓が鳴る。とくん、とくん。
ページをひらり、めくった。目次を見なくても知っていた。どのページにレモン哀歌が載っているかを。紙面を追わずとも知っていた。そこに書かれた言の葉のすべてを。
今まで何度、ひとりのときに読んだだろう。彼と再会する日を希望の光に、夢を見続けて何度も読んだ。毎日、毎日。レモン哀歌を読み続けた。
この体は、この桜子は、今は髪をポニーテールにしている。さっき私に会いにきた昼休みには、こうじゃなかった。
わざわざ結び直したのだ。私のために。私が残した未練を解消できるように。ポニーテールは、願掛けだ。
深く息を吸えば、肺に気体が入ってくる。今の私には酸素が吸えた。幽霊のくせに揺れられた。
私が待っていたのは、レモンじゃなくて貴方だったよ。
「花咲先輩。あの日……夏の日。私、貴方に伝えたいことがありました。レモン哀歌を読んだあとも、私と一緒にいてくれますか? 私と話してくれますか?」
これで終わらせられちゃ、意味がないから。
「ああ、一緒にいるよ。俺も、話したいことがあるから。……さあ、読んで」
「はい、先輩。緊張して声が裏返っても、ぶつ切れでも、許してくださいね」
そうして、始めた。私が彼の前で読む、初めてのレモン哀歌を。あの夏、果たされなかった約束を。この世に残した後悔を。
キレイな声だと彼は言う。詩の朗読をしてほしい声だと。世界で一番好きな声だと。
もう私は暗唱できてしまうので、ずっと彼を見つめていた。桜の幹みたいな瞳がゆらりと揺れて、私を映す。
睫毛まで、ほんとうに桜色なんだ。お化粧してるんだ。そっか。何色でも、綺麗だなぁ。
終わるのが怖かった。桜の花かげで、止めてしまいたくなった。彼の永遠でありたくなった。
でも、唇の動きは止まらない。……優しい彼を、私から解放するための魔法の呪文だから。途中でやめたらいけないの。
魔法が解ける。
「やっぱ、声キレイだね。すごく好き」
二回目の桜子が読んだときと、おんなじ言葉。わざとかな。わざと言ってるのかな。でも……今日は、キスしてくれないのかな。
彼の唇が弧を描き、私の頬をそっと包む。される? と期待したけど、彼の唇は近づかずに開かれた。
「紫月さんの声が、好きだった。紫月さんと過ごす図書室が、好きだった。でも、嫌いになっちゃったよ」
「……なん、で?」
どうして、嬉しいことと悲しいこと、一緒に言うの。嫌いって言うの。
「九月十二日の火曜日、ひとりぼっちだったから。紫月 桜子が、当番表にしかいなかったから」
私は思わず息を呑む。彼の表情に、透明なヴェールがかかったようだった。
「先輩のせいじゃない、ですよ。ごめんなさい、約束破って。ほんとうは、会いたかったの。でも……我慢できなくなっちゃって。突然、駄目になっちゃって。遺書も残さずに、死んじゃった。告白、ほんとうは、貴方にしたかったのに……勇気が出なくて。可愛くなくて。月に隠しちゃった。貴方と会った最後の日、言えなかった。死ぬ前に、空なんかに呟いた。伝わらないなら、意味なんてないのに。私がいなくなったら、先輩は火曜日、ひとりになっちゃうのに。……ごめんなさい、花咲先輩」
「……言って。今度は死ぬ前に。いなくなる前に、言ってよ」
それは、悲痛な声だった。氷の刃で私までもが刺されるようだった。
「許されるんですか。今になって、言うことが。そんなワガママ、許されますか」
「言って」
ただ一言。彼は同時に涙をこぼした。
私はようやく覚悟を決める。彼にフラれる、覚悟を決めた。
私は唯一、彼の恋人になったことがない。ただの図書委員の後輩だった。ただの先輩に恋をした。繰り返すたびに、桜子と彼との関係は変わってしまって、私と彼との関係なんて、もうなんでもないことのようだった。ほんの些細な繋がりだった。簡単に切れる糸だった。
さようなら、花咲先輩。
「好きでした、花咲先輩。……好きでした。好きでした。貴方と会う火曜日が楽しみで、生き甲斐で。……なのに、貴方に嫌われたと思い込んで、この世界から逃げました。そのくせ、貴方を呪いました。忘れないで、って。覚えてて、って。ねえ、先輩」
「なぁに、紫月さん」
まだ、紫月さん。って呼んでくれるんだ。あのときのままでいてくれるんだ。
「私ね、貴方のこと、ずっと見てたよ。どの世界でも、近くにいたよ。恋人になった桜子を助けようとする貴方を、見つめてた。叶わない夢を見た幽霊だった。私、ほんとうは、そばにいたよ。貴方に見えなくても。……そう言ったら、信じてくれるっ?」
彼はただ、ああ。と返した。はらはらと涙がこぼれていく。
「俺も、紫月さんに会う火曜日は楽しみだった。でも、ごめん。きっと……俺は、紫月さんには恋してなかった」
「うん。――はい、知ってました。私は花咲先輩に、片想いしてました。返事くれて、ありがとうございます」
これで、私の恋はおしまいだ。彼は「紫月さん」には恋してなかった。――うん、うん。知ってたよ。知ってても、生きた体に憑依してれば、涙って出るんだなぁ。フラれたときに泣くこと、できるんだなぁ。
私はそっと、彼から離れる。静かにここから離脱して、バトンは二回目の桜子に渡そう。彼女も付き合う前は「紫月さん」って呼ばれてたから、彼女に代わるのが自然なはずだ。
彼が私の眦に触れ、涙を拭った。彼の瞳からもこぼれているから、私はそれに触れたくなる。彼が忌々しげに言葉を吐いた。
「たしかにこれは、恋だった。俺は君に、恋をしていた」
「へ?」
告白だった。
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