❀第133話 桜子と私 −後−

 ――嘘つかないでよ。彼が死ぬわけないじゃない


 強がったふりして書きながら、字面は情けなく震えていた。この動揺は桜子にもバレているのだろう。彼女は静かに首を横に振った。


『もう何回も死のうとしてる。私を何回も死なせちゃったって、苦しめたって。私のパパとママのこと殺したって。したくないえっち、いっぱいしたって。……いろんなことで、苦しんでる。生きるのつらい、って。もう……解放されたいんだって』


 はらはらっ、と涙が落ちた。同時だった。彼女と私のタイミングが、珍しいことに重なった。尤も、私の涙は幻で、ただ心が泣いていただけなのだけれど。


 ……知らなかった。私は見ていなかった。四月に生きた桜子と彼を、私はずっと無視していた。空白だった。死にたいと思うほど、自殺を図るほど、彼が追い詰められていたなんて。


 彼は恋人の死を何度も経験しても頑張っていたから、強い人なんだと思ってた。違かった。彼にだって脆さはある。弱さはある。ずっと、つらさに耐えて耐えて頑張ってた。死にたくなることだって、あるんだ。駄目になることだって、あるんだ。


 左の光を失っただけではない、私の恋心までもが盲目だった。


『私が――最新の桜子が眠れば、必然的に他の桜子が出てこられる。みんな、彼と話したの。過去に私が死んだ場所めぐって。貴方のせいじゃないよ、って話したの。でも……駄目だった。彼の自殺、私たちじゃ止められない。だから、手を貸して。あの夏の日、やり直して。彼と一緒に生きる桜子の、一部になって。ね?』


 彼女が、すんと洟をすすって、顔を上げた。目が合った、と錯覚した。彼女には私が見えない。わかっている。でも、彼女の視線が私を刺した。すべての光を呑み込む純黒だった。


『月に隠さない告白、してよ。レモン哀歌、読んでよ。……自殺した理由、ちゃんと話して。貴女にずっと囚われている、俺のせいで死んじゃったんじゃないか、ってずっと思ってる、優しい先輩を……もう、解放してあげて? 貴女の言葉しか届かないから。彼は「紫月さん」に許されたいの。私じゃ、できない』


 ――でも、私は先輩の恋人じゃない。私だけ恋人じゃない。私だけ、「愛してる」って言われたことない。貴女には見えないと思うけど、私は化け物なんだよ? 左目は潰れて見えないの。彼を追いかけ続けた足は、いつしか擦り切れてなくなってしまったの。手首はリスカの痕で傷だらけ。虐待の傷もいっぱいあって。……とても、可愛くない女の子なの。貴女の体に入ったとしても、醜さのすべては隠せない。


『醜くたって、いい。化け物でいい。彼は「可愛い女の子」が欲しいんじゃない。彼が欲しいのは「桜子」。紫月、桜子。貴女が欠けてちゃ、私は本当の「桜子」になれない。いつまでも、あとから出てきた偽物の集合体になる』


 ――どうしたって、貴女は偽物。唯一、魔法にかけられてない私を、同一視しないでほしい。私が貴女を恨まなくなる日は来ない。私はずっと貴女を恨む。私の体を死なせてくれずに、私がしたかった未練を遂げて、幸せになることは許せない。貴女が幸せになればなるほど、私は貴女を嫌いになる。


『嫌いでいい、恨まれていい。許されなくていい、私は。エゴだって、わかってる。……ただっ、薫先輩のことだけは。ずっと好きなままだって、知ってるから。貴女も彼を愛してるでしょ? 別の人生を歩んでも、彼に恋することは不変なの。紙に刷られた言葉みたいに、私の人生に書かれてる。……諦められない。彼には、自殺してほしくない。痛いって、悲しいって、知ってるから』


 ――生きるのだって、痛くて悲しい。


 ベラベラとうるさかった桜子が、黙った。


 ――私は貴女たちとは違う。呪いに負けて、絶望して消えた貴女たちとは違う。私は自分で死を選んだ、未練を残して幽霊になった。……恋されたせいだよ、貴女が脆くなったのは。手に入れた幸せを根こそぎ奪われたから絶望するんだよ。一度も叶わなかったから未練なんだよ。叶わない夢を見るから幽霊になった。諦めたから貴女たちは消えた。


『ええ、そう。貴女が言うなら、私にとってはそうなんだと思う。貴女の言うとおり、』


 桜子は呟く。毒を吐く。……怒りだった。恨みだった。


『私たちは絶望して死んだ。呪いのせいもあるけれど、彼を望むことができなくなった。体を許した罪悪が、彼に最後まで縋ることを許さなかった。私は汚い、私は醜い……そう思って絶望した。

 体を許しても、心だけは――って、口先で言うこともできるけど。でも、心の底から割り切ることなんてできない。私は、できなかった。切り離せない。肌に触れる感覚が、紙やすりみたいに心を削っていく。肉が抉られる感覚が、そのまま心を無遠慮に抉る。吐かれる液は毒液みたいに、私の心を腐食する。

 ずっとずっと、囚われる。思い出しただけでも、こうなるの。削られる。抉られる。腐食される。一度切りの行為さえ、何度でも私を苦しめる。何度もあれば、何百回と苦しめられる。ただの記憶が、私を殺す』


 桜子が、深く息を吸った。私も真似してみたけれど、酸素も窒素も入ってこない。私は揺れない幽霊だから。


『私は貴女が羨ましい。あの記憶がない貴女が羨ましい。共有されているとは知っているけど、切り離せる貴女が羨ましい。ひとりになれる、貴女が。……きっと、もう貴女にしかできないの。知れば、純粋だった頃には帰れない。愛するのにも罪悪感をともなう。必要ないって言われても、勝手に浮かぶ。……これが、私の末路だよ。傷の記憶を抱えて生きる人間の定めだよ』


 桜子は、笑った。


『図書室で、待ってる。彼を助けてくれるって、信じてる。……じゃあね』


 やわらかな風が、彼女を揺らした。黒髪が舞い、ブラウスがはためき、スカートがひらり、めくれる。



 傷の記憶は、望まなくても再演される。私は……私は、どうするべきだろう。


 燦めく陽の光みたいな舞台を、彼女に見せていいのかな。幸福だったあの頃を。純粋だったあの頃を。「紫月さん」と「花咲先輩」を見て、彼女はつらくならないかな。


 今となっては帰れない美しい過去の再演は――彼女に伸びる救いの手となるか、彼女を殺す冷たいナイフとなるか。


 見たい。見たくない。見てしまった。見せられた。見る。見ない。見られない。見た。……再演のきっかけは、いたるところに散らばっている。ふとしたときに開園ブザーが鳴り響き、あの日の記憶が蘇る。舞台の上で、彼女は何度めかの死を遂げる。


 救いの物語は、救われない人を救いもするし殺しもする。見る日によって変わることもある。気分によって変わることもある。知っている。


 救世主か、殺人鬼か。それを決めるのは私じゃない。だけど変わらないのは、優しい彼に相応しいのはハッピーエンドだっていう私のエゴイズム。私は彼に幸せになってほしいから、彼の幸せを願って舞台に上がる。まずは上がらなきゃ、救うことも殺すこともできないのだから。


 この手が、いつか救いになるように。擦り切れた足を踏み出した。


 ――こんにちは、花咲先輩。あの夏の日の後悔を、今日。晴らしたいと思います。

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