❀第121話 手紙
彼との会話を終えたあとで、雪美さんから数時間前にメッセージが届いていたことに私は気がついた。添付された二個のファイルの中身は、薫先輩が書いた手紙だった。
彼はいつかの日のために、毎月、私への置き手紙を書き直していたという。それはスマホやパソコンで書いていて、雪美さんとクラウドで共有していたものだった。
一通目は「拝啓 紫月 桜子様」というもので、それは一年契約の同棲生活を送った日々での思い出が書かれているものだった。二通目、私に届いたのは「拝啓 すべてを思い出した桜子ちゃん」という手紙だったけど、他にもバージョンがあったらしい。
宛先は「四月七日に出会った桜子ちゃん」と「八月二十二日に出会った桜子ちゃん」だ。前者は何も思い出さなかった私宛のもので、後者は中三のときの記憶をキスで思い出した私宛のもの。
彼はいつも三種類を、十二月分からは二種類を、ずっと用意してくれていた。
概ねの内容は、彼と私が先程話したことと同じだった。これを先に読んでいれば、目覚めたばかりの彼にあんなに喋らせなくて済んだのに。と、ちょっと反省はした。
でも、話し合えて良かったと思う節もある。手紙だけで伝えられていたら、私たちの結末も変わっていたかもしれない。
彼の手紙には、彼の過去のことも記されていた。別の時空の私なら、聞いたことはあった話。でも、今の私が聞いたことはなかった話。
彼は強がりばっかりで、自分の傷を見せようとしなかった。私宛には、初めて伝えられたことだった。
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――今から、昔話をするね。
その少年は、とても顔が良かった。幼少期から美少年で、それはそれは多くのひとに愛された。でも、彼が得られたのは愛ばかりじゃない。同時に嫉妬や憎悪を向けられることも、たくさんあった。
小学生時代。同校の女子児童からのストーカーまがいの行為に遭った。男子児童からのいじめにも遭った。果てに近所の女性に車に連れ込まれ、誘拐されかけた。姉が無茶してくれたおかげで、ほとんど無傷で助かったけれど、そのとき姉は大怪我を負った。
自分のせいで、大切な家族が怪我をした。姉がこれまで頑張っていたことが台無しになった。当時まだ小学二年生だった少年にとって、その出来事は大きな傷となった。大きな恐怖と、家族を傷つけた罪悪感と、自責の念とを心に残した。
それから少年は、しばらく小学校に通えなくなった。自身が外の世界を恐れていたし、心配症の母親が外に出したがらなかった。引っ越しと転校をしたことで、ようやくまた通えるようになった。
しかし少年は、新しい小学校でも浮いてしまった。誘拐未遂事件以来、人に触られると泣いてしまうようになっていたせいで、周囲とうまく馴染めなかった。顔だけは良いから僻まれて、男子児童からは嫌がらせをされた。陰口は毎日言われたし、持ち物を隠されることもよくあった。
そんなときに、話しかけてくれたやつが、ひとりいた。そいつの名前は陽一。陽一のおかげで少年は人と再び関われるようになり、なかなか泣かなくなり、日常を取り戻した。
明るさと元気さを備えるようになった少年は、当然モテるようにもなる。そんな彼には、異常な愛を向ける人もいた。バレンタインチョコのなかに、鉛筆削りの刃。ラブレターのなかに、カッターの刃。そういう悪意で怪我をした。
四年生のとき、複数人の女子高生に絡まれて、性的な遊びの誘いをされたこともあった。恐喝っぽいこともされた。誘拐未遂のことがフラッシュバックして、吐いた。悪口みたいなことを言われた。
五年生のある日の通学路でのこと、登校中に女に突然に抱きつかれ、放課後、同じ人にナイフで刺されたこともあった。それからまた小学校に通えなくなり、六年生のときは、たまに母親と一緒に行くだけになった。ほとんど不登校だった。
中学時代。陽一とともになら登下校できるようになり、メンタルがちょっぴり回復した。陽一と男子バドミントン部に入り、そこで女子バドミントン部だったあるひとと出会う。彼女の名前は、青柳 明穂。少年は概ね楽しい学校生活を送ったけれど、嫌なことももちろんあった。
中学二年の夏、大会前。少年は同級生にカッターナイフで両腕を切られた。嘘っぱちな噂を信じた同級生が、嫉妬の末にやったことだった。少年は大会を棄権し、噂のせいで居心地が悪いことも理由に部活をやめた。それから体を鍛えはじめ、強い男を目指した。簡単に傷つけられないようにし、大事な家族に心配をかけさせないようにするためだ。
中学を卒業する頃に少年は、かつて部活でカッター事件を起こした男子生徒と話す機会を得る。曰く、事件のきっかけになった変な噂は、女子バド部の青柳が流したものだった。さらに、少年が一年生のときに仲良くしていた女子バド部の女の子が、青柳を中心とした女子グループにいじめられて部活をやめていたこともある。
そして、彼は高校生になった。陽一と青春を謳歌していたところで、青柳と再会した。女子校に通っていた彼女が、少年に会いたくて転校してきたのだ。彼女からの半ば一方的な連絡のしつこさと嫉妬深さに、少年は疲れてしまう。青柳と関わることは、少年にとって苦痛であった。
この女のせいで、腕に消えない傷を負った。友人であった女の子は、この女のせいでいじめられた。そんな思いが胸に浮かぶと、ただ連絡を取っているだけでも腕にズキズキと痛みが走る。治ったはずの傷痕が痛む。
それ以外の数々の傷の記憶やそのフラッシュバックにも、少年は随分と悩まされていた。
誘拐未遂事件で連れ込まれた車と似た色や型の車を見ると、また誰かに誘拐されやしないかと怖くなる。鉛筆削りやカッターを使うのにも、なんとなく気分が悪くなる。自分が高校生になったあとでも、気が強そうな女子高生グループを見ると鼓動が早くなる。普通に道を歩いているとき、もしかするとまた誰かが刃物を刺してくるんじゃないかと怯えてしまう。バドミントンも、もうやりたくないし、見たくない。
車に押し込められたときの、触られた感じ。通学路で抱きつかれたときの感じ。刺された痛み。切られた痛み。浴びせられた罵詈雑言。向けられた悪意。歪んだ「愛」。視線。
日常で起きるフラッシュバックや悪夢で、嫌な記憶をまざまざと何度も思い出した。眠れない夜が何度もあった。恋なんてできないと思っていた。ラブコメ漫画ばかりを読んだ。でも、いつか好きな人と付き合って、結ばれたいとも夢を見ていた。
高校二年生になったとき、少年は奇跡と出会う。それは四月のある日の図書室で、図書委員会の集まりのときのこと。
学年・クラス順に並んで座ると、左隣の席は、一年生の女の子だった。彼女の名前は、紫月 桜子。
……なーんて、ずっと「少年」って書いてぼかしたけど、桜子ちゃんがお察しのとおり、これは俺の過去と傷の記憶の話だよ。今の君は過去の記憶のせいで知っていると思うけど、今の俺から今の君に、改めて伝えておいた。読んでくれてありがとう。
君に出会えたから、俺は恋をできた。ループする日々は苦しかったけど、君を愛せて幸せだった。あんなふうに触れあったり、キスをしたり、抱きあったり……君に触るのは嫌じゃなくて、むしろ嬉しくて幸せで。君と一緒にいると「普通」になれたような気がした。恋するための心にたくさんの傷を負った俺だけど、君と過ごすとその傷が癒やされるようだった。……ありがとう。
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彼のつらい過去の話を改めて読んで、胸がじわじわと痛んだ。彼がくれた言葉を読み進めたいのに、視界がぼやけて大変だった。
読んでいくと、彼が悪いわけじゃないのに、手紙でさえも彼は謝罪していた。私は涙とともに苦笑した。大事そうな言葉を拾い、胸の奥に刻み込む。
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――さて、本題。すべてを思い出した桜子ちゃんは、俺と同じように、傷の記憶やフラッシュバックに苦しむことになるかもしれない。この話をするために、さっき俺の話も長々と書いたんだ。
君が両親からの虐待の記憶をすでに抱えていることは、知っている。小中学校での嫌がらせのことも。そこに、過去の世界での性的嫌がらせや犯罪被害の記憶も加わった。蘇った。……すごく、つらいと思う。ごめんね、思い出させてしまって。そんな記憶を背負わせて、ごめんね。
傷の記憶を抱えて生きる日々は、つらい。俺と桜子ちゃんとの記憶は同じではないから、完全に共感することはできないと思う。……でも、どうか。過去の記憶に殺されないで。
本当は俺も、桜子ちゃんと、末永く幸せに生きてみたい。記憶に苦しめられずに、君と笑って、生涯の愛を誓いたい。傷の記憶がなければ幸せになれたのにって、思いたくはないけれども思う。きっと、ずっとこんな人生だね。
誰かに言ったら、厨二病だって笑われるかな。きっと他にもいろいろ言われるね。若いくせに人生語るなって。悲劇の主人公ぶるなって。他にもつらい人はいっぱいいる、もっとつらい人もいるって。いつまでも過去を引きずるなって。やられるほうが悪いって。ね。つらいね、桜子ちゃん。
俺らは若くて、未来があると期待されてて、何も知らない人は簡単に傷を抉ってくるね。ほんの些細な一言で、死にたくなるほど悲しくなるね。ただの一文、一単語、漫画の一コマ、一枚の写真……そんなものをキッカケに、フラッシュバックすることもあるね。こんな症状が出たり、もしかしたら次はこんな症状が出るかもって、怯えたりもするね。
――外に出たり人と関わったりするのが、怖くなる。眠れなくなる。ごはんが美味しく食べられなくなる。加害者との再会を恐れる。被害の再発生を恐れる。加害者と似た人を見かけただけで、息が詰まる。
フラッシュバックしたとき、嘔吐する、過呼吸になる、気絶する。そのあとも、無気力になる、死にたくなる、記憶が抜け落ちる、記憶が混濁する。
……つらいね。桜子ちゃん。眠くても眠れないとか、ごはんが食べられないとか。なんでそんなことができないのって言われると、寂しいね。当たり前にできてた日常ができなくなるのは、苦しいね。
桜子ちゃんと過ごした日々は、とても幸せなひとときだった。でも、幸せはずっとは続かない。知ってたよ。俺らみたいな犯罪被害者の平穏は、つかの間なんだって。苦しいね。痛いね。つらいね。
それに俺は、もう加害者でもあるんだね。正当防衛の件は置いておいたとしても、桜子ちゃんのパパとママを殺したのは俺だから。蓋然性の殺人の罪を証明するのは難しいから、俺は法律には裁かれない。許される手段を国からもらうことができない。死ぬまで自分で向き合わないといけない。
君がこの手紙を読むときには、もう俺は死んでいるのかな。失踪や意識不明だけなら良いな、と思います。この手紙を読んだあとの君に会ってみたいなんて、変な願いを心に抱いてしまっているから。
忌まわしい記憶を消せたらって、何度も思った。でも、そう都合良くはいかないね。記憶と一緒に生きていかないといけないね。
桜子ちゃん。幸せになってほしいです。切に願います。つらいとき、この手紙を読んでほしい。俺のつらいこと列挙したから、これで傷口を舐めあおう。離れていても、愛してるよ。
――――――――――――――――――
傷口を舐めあおう、なんて彼らしい。あふれる涙を何度も拭って、私はしゃくりあげる。スマホ画面にも何滴も涙が落ちて、液晶の光が歪んでカラフルになっていた。明日は朝から病院に駆けつけよう、と心に決めて眠りにつく。
明くる朝。彼の病室にて。薫くんは優しく私の頭を撫でて、もう片方の手で軽く体を抱き寄せてくれていた。
「……で、あの手紙読んで、また泣いちゃったの?」
「べしょべしょ泣いてたら疲れちゃって、久しぶりに横になって寝れた。薫くん、生きるのつらい? ――よしよし、私のせいでいっぱい嫌なことさせちゃって、ごめんねぇ……うえぇん……」
「なに、お酒でも飲んだの?? って、桜子ちゃんがそんな不良みたいなことするわけないか。随分と元気な泣き虫さんだね。可愛いよ」
私はめそめそと泣きながら、彼の桜色の頭を撫でた。桜の花びらのヘアピンはベッドサイドに置いてあるので、今日は頭の全方向がサラサラだ。ずっと撫でていたいくらいに気持ちいい。
病院にはピンクシャンプーがないから、しばらくしたら根元が白色になっちゃうかもしれないな、とふと思う。私の涙が落ち着いてきたところで、はっと思い出したかのように彼が言った。
「てか、あれ読まれてたのすっごい恥ずいんだけど。たしかに俺は昨日まで意識不明だったから、姉貴が桜子ちゃんに送ってくれたのは正しいんだけど……あんな『離れていても、愛してる』とか読ませた数時間後にはフツーにこうして会えてるって、なんかさ。ねえ?」
「まぁ、言いたいことはわかる気がする。でも私、手紙読めて嬉しかったよ。薫くんと痛みを共有できたみたいで、良かった。……ねえ、薫くん?」
「はい、桜子ちゃん」
静かに軽く、私は彼に口づけた。彼は平気そうな顔で受け止めて、離れると「ん、どうした?」と問う。私はほんの少し震えた声で、答えた。
「あのね、薫くん。……嫌な記憶を抱えて生きるのは苦しいし、一緒にいると余計に駄目になる可能性もあるし、そもそも私はもうすぐ死んじゃうかもしれないけど……」
「――うん」
「私が死ぬその日まで、傷口を舐めてくれますか? 貴方の血を啜る特権を頂けますか?」
彼は目を丸くして、ひとつの瞬きをしたあと、ゆっくりと笑った。私の左手を取り、その指先に口づける。包帯を巻いた腕の上にも、キスを落とした。
「はい、喜んで」
桜の幹みたいな茶色い瞳が、毒を含んだ仄暗い輝きを放つ。窓から差す強く明るい光に透けた瞳は蜂蜜色のようにも見え、樹液が漏れた桜の木が頭に浮かんだ。
薄紅色の花が散り果てて、春に終わりを告げる頃。桜の木に、水飴のようなキラキラが点々とついていることがある。キラキラは桜の血液とも言える樹液で、かの桜を傷つけた犯人は虫さんだ。
琥珀みたいだなぁ、と私は彼の瞳に見惚れる。もしも彼の瞳が琥珀だったら、やはり毒虫を内奥に飼っているのだろうか。彼がぱちりと瞬きをして、白い睫毛が揺れる。
もう一度、私は彼にキスをした。記憶が消えることも蘇ることもない、レモンの味もしない、普通の恋人たちが交わすキスだった。やわらかさも熱も吐息も、すべてが尊いと知るふたりの重なりだった。
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