❀第113話 繰り返しの月日と透明な私

 私は死んだ場所からほとんど動かなかった。歩けることには歩けるが、そういうやる気が起きなかった。


 ある日、誰かがやってきた。己の右目を疑った。


『花咲、先輩?』


 立ち上がり、駆け寄る。片方だけのローファーが石畳を叩くも、足音はしない。手を伸ばすと、すり抜けた。まるで誰もいなかったかのように、温度も何も感じられなかった。触れられなくて当然なのに、なぜかショックを受けてしまう。


 彼はウロウロと私の死に場所を歩く。偶然通りかかったわけではないらしい。思い詰めた様子だった。何か悩みがあるのだろうか。彼を追いかけ、横顔を眺めてみる。


 むつかしい顔をしている彼も、綺麗だなぁと思った。憂いを帯びた目元には、長い睫毛が影を落とす。眉間に寄った小さな皴さえ、計算して彫られた彫刻のように美しい。


 こんなにまじまじと見ても不審がられないのだから、死んで良かったかもしれない。彼がはたと立ち止まり、くしゃりと顔を歪める。大事なおもちゃを無くした子どものように、泣きそうな悲しそうな顔だった。


「紫月さん……なんで?」


 心臓が止まりそうだった。いや、そもそも止まっていた。大好きな彼が整った顔を苦々しげに歪め、こともあろうに私のことを呟いたのだ。紫月さん、って。なんで、って。


 なんで死んじゃったの。って、彼は私に聞いたのだ。


 途端、死んだはずの目から雫が落ちた。左目は光を失っていても、頬を伝う何かには気づいた。熱いようで熱くない、濡れそうで濡れない。どこにも存在しない幻の涙だった。私の心が泣いていた。命を絶って数日経った今になって初めて、私は自分が死を選んだのを悲しいと思った。


『花咲先輩、好きでした。貴方が生きる理由でした』


 唇が動く、喉が震える。なのに、彼に声は届かない。空気を震わす音にさえならない。私の想いも存在も、私にしか知られない。孤独だった。生きているときだって孤独だったけれど、今はもっとそうだった。


 大好きな人がこんなに近くにいるのに、気づいてくれない。彼は私を探しているのに、私をみつけてはくれない。


 わかってる、仕方ないって。私はもう死んでいるのだ。生きる理由だなんて滑稽なこと。伝わらなくて正解だ。ちゃんちゃらおかしい。


 いまさらなんだというんだ。後悔などしない。死んだら楽になれたのだ。もう解放されたはずだった。彼が私の死を悲しんでくれた、それだけで幸せじゃないか。


 彼は優しくてあたたかい。みんなに愛される素晴らしいひと。たくさんの女の子を笑顔にできるヒーローなんだ。そんな貴方には、ハッピーエンドが相応しい。どうか幸せになってください、花咲先輩。


 触れないように、背後から彼の体に腕をまわす。透過するのが怖いから、ギリギリのラインを攻めてみた。


『花咲先輩、大好きです。私は……桜子は悪霊なので、貴方を呪ってもいいですか? ――どうか、私をずっと忘れないでください。好きにならなくていいですから、ただ頭の片隅で覚えていてください』


 自殺した女のことなんて、忘れたほうがいいに決まってる。それでも私は意地悪だから、そうは願えなかった。欲深さが顔を出す。彼への想いがあふれ出す。


『でも、もしも……もしも、やり直せたら。貴方と出会う奇跡に再びめぐり逢えたら。そのときは、私の告白に気づいてくれますか? また図書室で伝えます。今度は貴方の名前を呼んで、好きだと云います。月に隠さずはっきりと、貴方に想いをさらします』


 彼から離れ、息を吸う。動きが一緒なだけで、酸素も窒素も入ってこない。ただ人間のふりをしてるだけ。


 風が吹き、彼の髪とシャツが揺れた。艶めく黒が、透ける白が、残暑の風を笑わせて遊ぶ。私は揺れない幽霊だった。私だけが止まっていた。


 彼がこちらを振り返り、視線は私を透過する。見えないって知ってたけど、残酷な空白に潰された。真っ直ぐに向き合うのがつらくて、私は彼に背を向ける。


 そこにはひとりの女が立っていて、彼女は己を「悪魔」と名乗った。ファンタジックな台詞を吐いて、優しい彼を騙してしまう。


『花咲先輩っ!』


 振り向き叫んだ声は絶望的なまでに届かずに、彼がこくりと頷いた。彼が消えて、私も遠のく。世界が終わった。





 気づくと私は、死んだときと同じ場所に倒れていた。天気があまり良くなくて、いつの季節だかわからない。次の日の晴れ空を見て、今は夏だと私は知った。ジリジリと照りつける白い光は、生きていたならきっと熱かったのだろう。


 しばらくしてから学校が始まって、そのとき私は日付を知った。その日の世界は、二〇一六年の九月一日だった。



 ❀ ❀ ❀



 ――二〇一七年、四月十八日。二回目の桜子が図書室で先輩と出会い、一緒の火曜日の当番になる。彼の髪は純白で、それは時を巻き戻ったせいみたい。


 五月十七日、桜子がいじめられていることを彼が知る。五月十八日、ふたりは男女交際を始める。桜子は彼を「薫先輩」と呼びはじめ、初めてのデートをする。彼が栗田 裕歌らを牽制したおかげで、以来クラスでのいじめは沈静化する。


 五月三十日、中庭で一緒にお弁当を食べる。会話のなかで、バイト先でのパワハラ・セクハラの件を彼が知る。彼のアドバイスを受け、桜子はバイトをやめることにする。六月八日、ふたりは図書室で初めてのキスをする。


 夏、彼に懸想していた青柳 明穂が集団性的暴行事件を企て、桜子が被害に遭う。休み中は男と援助交際をすることを母から強制され、望まない行為を重ねる日々。八月二十二日、他の男と通じたことが彼に知られ、桜子は自殺を決意する。九月一日、決行。


 ――二〇一六年、八月二十二日。三回目の桜子が公園で先輩と出会い、彼を「薫くん」と呼ぶようになる。連絡先を交換し、夏休み明けからは休日に会うようになる。一緒に勉強したり相談に乗ってもらったり、楽しそうな日々。


 二〇一七年、一月十七日。彼が通う高校を桜子が受験する。無事に合格。二月十三日、第一志望の公立高校入試の日の朝。帰宅した母に両腕を切りつけられ、受験は断念。彼と同じ私立高校に入学することが決まる。


 四月七日、入学式の日。ふたりは男女交際を始める。余計な嫉妬を買わないために学校では他人のふりをする、秘密の恋人関係だった。七月十一日、ふたりは家で初めてのキスをする。


 夏、桜子は花咲家に泊まって彼と過ごすも、すれ違いが起きてしまう。九月一日、桜子は自殺しない。文化祭でも他人のふりで、桜子は彼と会うことさえ許されない。連絡は取り合うものの、会うことはない日々が続く。


 十一月、青柳に迫られた彼が、彼女と一度デートする。青柳の企みにより桜子にそれを知られ、ふたりの溝がさらに深まる。十二月二十四日、桜子と彼との久しぶりのデート。遊園地で一緒に過ごして幸せそう。観覧車で仲直りをする。帰宅後、酔っぱらってアパートにやってきた父親から暴行を受け、桜子が殺害される。


 ――二〇一六年、十一月二十四日。彼が四度目の二〇一六年を始める。桜子は三回目の同日までの記憶を保有しており、初対面ではない。彼の勧めにより、桜子は公立高校は受けず、彼と一緒の高校を第一志望にする。無事に合格。


 二〇一七年、一月二十一日。ふたりは男女交際を始める。二月十三日、ふたりはデートのときに初めてのキスをする。桜子をそばで守るため、彼は春から同棲生活を送ることにする。彼と一緒にいられて、桜子も嬉しそう。


 ゴールデンウィーク明け、桜子が不登校になる。桜子に告白してきたクラスメイトからの性的嫌がらせがトラウマとなったためだった。桜子と一緒にいるためにと彼も不登校になり、一年間の休学手続きを取ることにする。


 病んでいく精神。ボロボロの生活。十一月、狂った先の逃避行。十二月二十五日、帰宅。


 二〇一八年二月十四日、夜。心身の不調からゆっくりと回復しつつあった桜子が、彼へのバレンタインチョコを買いに出かける。コンビニから出たところで複数人の不良に絡まれ、工務店の倉庫にて暴行ののち放火、殺害される。


 ――二〇一七年、二月一日。彼が最後の二〇一七年を始める。桜子は四度目の同日までの記憶を所有しており、ふたりはすでに恋人関係である。二月、彼が髪を桜色に染め、初めて青柳を抱く。以来、他の女子生徒も抱きはじめ、彼のあだ名は〝花泥棒〟になる。


 三月一日、ふたりは初めてのキスをする。レモン味。きっと苦くて甘酸っぱい。彼は桜子に呪いをかけ、記憶を消した。彼女はすべてを忘れると同時に、すべての記憶の箱を手に入れた。同日、私は彼女に付属するようになった。


 二〇一七年、四月七日。入学式の日。すべてを記憶する彼と、すべてを忘れた桜子が出会う。白々しい桜餅。彼が桜子を見つけ、目を見開く。花びらが舞う。


「桜子ちゃん」

「……へっ?」


 覚えていない桜子の声に、彼はじわりと瞳を潤ませた。こうして、最後のふたりが始まった。私は、ふたりをずっと見ていた。

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