❀第112話 きっと幽霊になったのだ
会話をするのは楽しいけれど、何かやらかして嫌われるのが怖い。だから私は本を装備した。彼とカウンター業務をするとき、いつも本と一緒にいた。彼が話しかけなくて済むように、本の世界に夢中になったふりをした。
六月八日、木曜日。不定期の本棚整理の当番の日。火曜日じゃないのに会えるなんて、と胸を踊らせて登校した。
「なにこれ? リストカットだっけ? きもーいっ!」
体育の着替えの途中、左手首につけていたリストバンドをクラスメイトに剥ぎ取られた。隠していた傷が晒される。いま切ったわけでもないのに、痛みがジワジワと肌を刺す。
「返して、ください」
「やーだね。隠すんだったら切ってんじゃねえよ。気色悪い」
「そんなに死にたいなら早く死ねばいいじゃん。目障りだし」
「……」
別に死にたくて切っているんじゃない。ただ嫌なことがあったら切る、それが習慣化しているだけだ。クラスでこんなふうに嫌なことがあったあと。バイトで理不尽に怒られて減給されたあと、胸や下半身を触られて気持ち悪かったあと。エトセトラ。
ハサミでジャキジャキとリストバンドを切り刻み、やつらはゴミ箱に放り投げた。器物損壊だ。長袖のジャージを来て体育館へと向かう。大丈夫、私はひとりで我慢できる。大丈夫、誰にも迷惑なんてかけない。休み時間にリスカした。
放課後、図書室で花咲先輩に会った。ふたりで分担して、本棚整理の仕事を始める。
高いところに手が届かずに、私は愚直に背伸びして取ろうと励んでいた。あとちょっとで届きそう。足がプルプル震えてもう限界。三秒休憩してから再トライ。届きそうで届かない。
「高いとこは俺がやるよ、紫月さん」
背後からの声に、心臓が大きく跳ね上がった。ありがとうございます、と本を見ながら返事する。顔が熱くて唇が緩んでいそうで、すぐに振り返るのが怖かった。
「あ」
「なんですか、先輩」
今ならちゃんと真顔なはず、と間近の声に振り返る。至近距離なのに驚いた。彼の視線の先を追い、私は自分の失態に気づく。
左のリスカ痕が露出していた。リストバンドがないせいだ。上の段に手を伸ばしていたせいだ。袖口がずれていた。
慌てて後ずさると、足首が変な方向に曲がった。倒れるな、と思った瞬間。ぬくもりといい匂いが胸を突く。彼が、私を抱きとめた。やばい。やばい!
リスカ痕を見られた。ドン引きされたかもしれない。嫌われたかもしれない。ああ、でも、抱きしめられて幸せだ。感情がグチャグチャで、泣きそうになる。
彼が保健室に連れていってくれた。怪我させたお詫びに荷物持ちをするから、と言って、一週間も登下校をともにしてくれることになった。幸せすぎて夢みたい。
彼のそばを歩く。それだけで幸福者だった。おまけにリスカ痕のことを悪く言わないでくれた。私の言葉を頷いて聞いてくれた。心配までしてくれて。
「――なんかあったんなら、話聞くよ?」
ああ、なんて優しい声だろう。なんてあたたかな眼差しだろう。さらに深い恋に墜ちた。
彼の優しさに惹かれた。叶わない恋なのに、想いを伝えたくなった。もっと話したいと、欲を出した。
❀ ❀ ❀
七月十一日。火曜日。時間をかけて髪をポニーテールに結い上げた。何か大事なことをするときに行う、私の願掛けのようなものだ。
今日で、一学期の委員会の当番は最後になる。夏休みに入る前に、彼に告白をしようと決意した。小声でブツブツと再確認、本番は途中でつっかえてしまうことは予想済み。
もうすぐ支度が終わる頃、玄関扉がガチャリと開いた。入ってきたのは、久しぶりに見る母だった。
「お母さん、おかえりなさいっ! どうした、の」
左目に重い衝撃が加わった。あれ? 痛い? なんだろう。熱くどろりと血が流れる。
そうか、母が灰皿を投げつけてきたのだ。男と何か揉めたのだろう。これはきっと八つ当たり。
「お前なんか死ねばいい! 死ねばいい!!」
「うん、ごめん。生まれてきてごめんね。学校行ってくる」
いつもどおりの謝罪をして、足早に家をあとにした。母はたまにしか帰ってこない。会ったら暴力を振るわれて当たり前。これはいつもどおりのことなのだ。
なかなか血が止まらない。左目がよく見えない。財布の残りを確認し、登校前に眼科に行った。縫われて化膿止めの薬をもらって、また今度来るようにとのことだった。
学校には遅刻した。まあ仕方ない。休み時間、珍しく普通に話しかけてきた子がふたりいた。
「紫月さん。あの……目、大丈夫?」
「ああ、大丈夫ですよ。大したことありません。ご心配ありがとうございます、谷垣さん」
「あと……あと、あの。クラスの、ことだけど。なんか私にできることないかな?」
「ないです。大丈夫ですよ」
「……紫月さん。誰かに相談したほうが良いんじゃない?」
「平木さんも、アドバイスどうもありがとうございます。でも大丈夫です。もう慣れましたから。……私に話しかけると、おふたりもターゲットにされるかもしれません。お気をつけください。でも……ありがとうございます。本当に」
優しい子なのだな、と思う。こんな私のことを気にかけてくれて。谷垣 紗衣さんと、平木 彩奈さん。ふたりのことは忘れません。
放課後の図書室。告白予定のはずだった。でもやっぱり無理だった。関係が変わるのが怖かった。左目の傷のせいで最高に可愛い状態ではない、それも嫌だった。月明かりに隠してみたけれど、彼には気づかれなかったみたい。
彼と一緒に下校した。おかしいくらいに笑えてた。またね、と手を振って別れた。
ひとりになって、先程の図書室でのことを思い出す。
『紫月さんって、声キレイだよね。詩の朗読とかしてほしい声』
『そうなんですか? 今まで声褒められたことなんてなかったですけど……例えばどんな詩がいいと思います?』
『教科書に出てたようなのしか俺知らないけど、「レモン哀歌」とか』
『あ、あれ良いですよねー。お望みでしたら、夏休み明けにでも読みましょうか? 練習しときますよー?』
『じゃ、楽しみにしとく』
彼が声を褒めてくれた。キレイだって。詩の朗読をしてほしい声だって。嬉しくてにやけてしまう。「レモン哀歌」を読む約束を交わした。家で練習することにした。
九月になったらまた会える。それまでひとりで頑張れる。家で母に暴力を振るわれても、クラスやバイト先で嫌がらせをされようとも。
七月後半、八月丸々。彼に会えない日々は、私の心をすり減らした。連絡先も家も知らなかった。会えるはずがなかった。リスカの痕はどんどん増えた。他の傷もたくさん増えた。放っておいた左目は、いつの間にか見えなくなっていた。「レモン哀歌」は毎日読んだ。
九月一日、金曜日。始業式の日。学校に行きたくがないために、途中で体調を崩すかもしれない。そう思って早めに家を出た。ここ数日、学校が怖くてずっと眠れていなかった。
スマホを片手に電車に乗って、通知の来ていたトークアプリを開く。メッセージは、クラスの栗田さんからだった。嫌な命令や悪口を受け取るためだけに、彼女に無理やり交換させられた連絡先だった。
他のSNSに繋がるリンク。タップすると、私の画像が現れた。クラスで撮られた性的なものに、おそらく前に盗撮された着替えシーンやスカートの中身。動揺はした。でもそれだけなら、受け止めきれたはずだった。
[これ、花咲先輩にも送ったから]
一文のメッセージで、たちまち心臓が凍りついた。栗田さんは花咲先輩の知り合いで、連絡先も知っているという。足元がガラガラと崩れ落ちる思いだった。頼りである右目が霞んだ。
学校に着いて、教室の扉をそっと開く。まだ誰も来ていない。入ろうとした。が、足が動こうとしてくれない。動けと心で命令しても、駄目だった。教室が怖かった。
くるりと踵を返して校舎を飛び出す。どこか遠くに逃げたかった。誰にも会わないところへ行きたい。もう何もかもから逃げ出したい。
併設施設の大学校舎。あそこなら高校生には会わなくて済む。扉に触れると開けられた。悪いことだと知りながら忍び込む。
調子に乗ってエレベーターにまで乗って、最上階へと足を踏み入れた。見晴らしが良かった。ここなら即死できる、と思いついた。
「好きでした、花咲先輩」
言えなかった想いをぽつりと呟く。風の音に溶けて消え去った。死ぬつもりで来たわけじゃない。遺書だって書いていない。
それなのに、今、私は死にたくてたまらなかった。突然に強く死にたくなった。
彼に会いたくて、会いたくなかった。嫌われるのが怖くて、でもきっと嫌われていた。あんな画像を見たら、彼も私をビッチだと思うはず。違うのに、違うのに。ただ、彼が好きなだけなのに。
あの優しい声が、あたたかな眼差しが、侮蔑に変わるのが怖かった。誰も愛せない世界に戻るのが嫌だった。
だから、身を投げた。
しばらくしてから気がつくと、私は地面に倒れていた。警察みたいな人がいて、ブルーシートが鮮やかだ。赤色にまみれた何かを、彼らはテキパキと片付けていく。ああ、人型だ。
ぼんやりしていると日が暮れた。だれも私を気に留めない。なんて楽な世界だろう。何日かが過ぎた。噂が耳を刺激した。おかしな話だ。
紫月 桜子は、自殺した。そんな噂を私は聞いた。たしかにお腹も空かないし、眠らなくても平気だった。私は死んでしまったらしい。悲しみの情は湧かなかった。不思議なくらい晴れやかだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます