❀終幕【四月一日の桜のもとで】✿
❀第111話 彼に恋をした日のこと
初めて彼を見たとき、綺麗なひとだな、と思った。艶のある黒い髪がサラサラとしていて、声はやわらかく心地よい高さのもので、顔は彫刻のように整っていて。思わず見惚れてしまうくらいに、彼は綺麗なひとだった。
「二年A組、花咲 薫です。よろしくお願いします」
はなさき、かおる。可愛い感じの名前だな、と思った。席に着いた彼が、ちらりとこちらを見る。とくん、と心臓が鳴って、目が合ったように錯覚した。
彼が完璧な愛想笑いを浮かべるから、無意識に下手な笑顔を返してしまう。ああ、これは駄目だ。二年B組の人の自己紹介が始まると、慌ててそちらに視線を向けた。とくん、とくん、と心臓が鳴る。
一目惚れ、というほどではない。ただ綺麗だと思っただけ。見た目だけで恋するような能天気な人間ではない。母のようには絶対になるまい。
綺麗なものに心惹かれるのは当然のことで、これは恋心とはまったく関係がないのだ、と。そう自分に言い聞かせていたのに、私は奇跡を引き当ててしまった。
〝火曜日〟という、紙切れに書かれた、たった三文字。くじ引きで当番決めをして、私は火曜日を引き当てた。彼もそうだった。
一緒の曜日当番にならなければ、月に一回、会えるか会えないかくらいのはずだった。でもふたりとも火曜日だったから、週一で会うことができてしまうようになった。改めて名簿に視線をやって、彼の名前を漢字で認識する。
花咲 薫。サキって、この字なんだ。この字のカオルなんだ。へぇ。……綺麗。
花咲先輩は、ただただ綺麗なひとだった。それ以上でもそれ以下でもなかった。
明らかなる恋に墜ちたのは、たぶん、四月の二十五日、火曜日。初めての図書委員の当番の日のことだ。
「紫月さん、手伝うよ」
「花咲、先輩」
数冊の本を両腕で抱えた私に、花咲先輩が近づいてきた。ちなみに私が借りた本ではない。昼休みの図書室のカウンターに、何人かの男子生徒が無造作に置いていったのだ。返却手続きをしたら、自分で本棚に戻すルールになっているのにもかかわらず。
先輩はすべての本を受け取ってくれたあと、バツが悪そうな顔をした。
「これ、さっきの男子たちが持ってきたやつでしょ? ごめん、俺のクラスのやつらだ。なんか、文系コースは本使う課題が春休みにあったみたいでさ。唐田先生に怒られて、今日ようやく返すって話だったんだけど……」
彼がまた「ごめん」と言う。別に彼が悪いことをしたのではないのに。優しい人なのかな、と安易に思う。
「あっ、だからこのラインナップだったんですね。『斜陽』とか『彼岸過迄』とか……あの人たちが読みそうな本じゃないな、って。実は思ってました」
自分らしくなく、言葉がべらべらと口を滑る。読みそうじゃないって、偏見も偏見だ。いったい何を言っているんだ。「わかる」と彼が一言で同意する。重そうな素振りも見せずに本を抱えたまま、やわらかな笑顔で問うた。
「これ、どこの棚だっけ? って、後輩に聞くなんて情けないな」
「あ、あっちです。日本文学のところ。いえ別に、情けなくなんか。……そういえば、もうひとりの人、来ませんね」
私が指差したほうに、彼がスタスタと歩いていく。私は彼に付いていく。一冊も持つのを手伝っていないのが申し訳ない。
「あー、あの先輩、サボり魔らしいよ。火曜日の当番は、実質俺らふたりだけって思っといたほうが良さげかも」
「……へえ」
やったっ! と内心でガッツポーズをする自分がいた。一拍遅れて、なんで嬉しいと思ったの? と首を傾げる。彼が本の山を右腕で抱え直して、左手で片付けようとする。私も山の上から一冊取った。
本棚へと伸びる彼の手元をちらりと見て、何か変だな? と思った。なんでだろうと思いながら本を棚に戻したところで、はっと気がつく。
彼、片付ける場所を間違えているのだ。ここは作者名の五十音順なのに、たぶんタイトルの頭文字で並べようとしている。
次の本に手を伸ばしつつ、間違えてますよ、と教えようとした。口を開く寸前で、本を取ろうとするタイミングがかち合った。指先が、彼に触れてしまった。
「あ、ごめん。紫月さん。触っちゃった」
言って、ちょっと恥ずかしそうに笑った。彼が本を取ったあとで、私は再びゆっくりと本に手を伸ばす。
心臓がうるさく鳴っていて、口を開くことができなかった。開いたら、何かが出てきてしまいそうだった。
結局、一部の本は彼が間違えた場所に入れたまま、私たちは返却・貸出の業務のためにカウンターへと向かった。生徒が来るのはときどきで、静かな時がただ過ぎた。
「紫月さんって、一年F組だったよね?」
「え、あ。はい、そうです」
「担任って唐田先生?」
「そうです。はい」
突然話しかけられたのに驚いて、不器用な返事をすることしかできなかった。嫌だな、と思う。つまらない子だと思われたくない。
「あの先生、能面みたいな顔だけどさ。マジで怒るとめっちゃ怖いんだよ。般若だよ」
「あ、そうなんですか。私、まだ怒られたことないです」
「紫月さん真面目そうだもんね。あ、いきなり偏見か。ごめん。……あー、駄目だな。俺。めちゃくちゃコミュ障みたいになってる」
「え、そんなことない、と思いますよ……? 私のほうが、コミュ障レベル高いですから」
「あはは、そうなの? じゃ、もしかして俺から話しかけられるの嫌だったりする? だったらごめん」
「いや、嫌じゃない、ですよ。でも、あの、無理して私なんかに話しかけなくても大丈夫です。人来なくて暇なときは、次からは本でも読みますので」
「ん、わかった」
会話に一段落ついて、私は静かに深呼吸した。口のなかが乾いている。教室に戻ったら水を飲もう。
五分前の予鈴が鳴って、私と彼は図書室をあとにした。階段のところでお別れで、彼が「またね」と手を振った。私も一応振り返した。
教室に入ると、机の様子がさっきまでと変わっていた。バカ、尻軽女、ブス、学校来んな……エトセトラ。黒いペンで書かれた罵詈雑言の上に次の授業の教科書とノートを置いて、見ないふりをする。
きっかけは、いったいどこにあったのか。入学式の日に露出狂に遭遇して襲われかけて、そのせいで非処女になった――なんて、嘘っぱちの噂が囁かれるようになったからだろうか。
それとも、クラスの男子から付き合ってくれと告白されて、断ったのが原因だろうか。フられた彼は腹いせに私の盗撮画像をネットにバラまいたらしい。消してほしいなら付き合えと脅された。そのときも断ったけど、まったく迷惑な話だ。
一度ネットに上げた画像を消すことは難しい。いまさら無駄だ。好きなら嫌がらせはやめてくれ。支配欲は愛じゃない。
いつの間に私は男を籠絡するメンヘラビッチになったのだろう。こんなに貶して噂して、何が楽しいのだろう。彼氏ができたことだってないのに、みんな私をふしだらな女だと思い込んでいる。
そもそも人に好かれる性質ではない、中学の頃から自覚はあった。性的な目では見られても、純粋な好意を向けられたことがなかった。
いじめられるほうにも原因があるという意見には賛同しかねるが、別に仕方ない、と割り切れてはいる。私はそういうものなのだ。そういう
授業中、ぼんやりと考えるのは花咲先輩のこと。思い出しただけで心臓が高鳴って、苦しくなる。あんなふうに誰かと他愛ない話をするのは久しぶりのことで、悪意ない笑顔を向けられるのも、誰かに触れるのも……――ああ、そうか。そうなんだ。
私を無視しない、悪口を言わない、嫌がらせをしない、暴力をふるわない。ただそれだけのひとを、私はずっと探していた。
彼は何も知らなそうだった。私の汚いイメージを見てなさそうだった。だから……私は、彼への恋に墜ちた。彼を生きる理由に仕立て上げた。現実から逃れるために、彼を愛した。
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