第100話 冬の海辺と反対の願い
家出した夜、俺らはひたすらに歩き続けた。特に目的地はなかった。
十一月二十三日、木曜日。疲れたから、近くにあったホテルに泊まることにした。部屋に入って一息つくと、彼女が呟く。
「私……なに、食べればいいの? お砂糖、だいじなのに、おうちに忘れてきちゃった」
「なにか食べれそうなものある? アイスは?」
「アイスしか、食べれれない」
「わかった、アイスを買おう。あっちに自販機があったから、ひとまずそれで。……しばらく苦労かけると思うけど、ごめんね」
「だいじょーぶ」
彼女の手を握り、自販機のところまでやってくる。選ばれたのは、よりにもよってソーダ味の氷菓だった。乳脂肪分がないのでカロリーが低い。これではエネルギーにならないじゃないか。
あとでまた何か食べさせようと思いつつ、俺も同じのを買った。部屋に戻ってソファに腰掛け、ふたりでソーダバーを食べる。シャクシャクと軽い音を立て、彼女は小さな口を懸命に動かした。
「美味し?」
「うん、おいしいよ」
「何個でも買うから、食べられそうだったら言ってね」
「ん」
こくりと頷き、シャクシャク食べる。疲れてヘトヘトかと思ったが、意外に元気らしい。彼女の頭をなんとなく撫でていると、食べ終えた頃に「ん?」と首を傾げられた。今日も笑ってくれない。
彼女の口まわりに少量付いたアイスの汁を、指で拭ってやった。少しカサついているけれども、やわらかい。唇をふにふにと触る。
「薫くん?」
声と一緒に漏れた吐息が、指先にかかった。アイスを食べたあとだからか、いつもより温度は低め。
「もう一個、またなんか買いにいく?」
「んーん、だいじょーぶ。ゴミ捨ててくるね。薫くんのも」
「ん、ありがと」
木の棒と紙のパッケージゴミを持って、彼女がトタタタと歩いていく。相変わらず足がよろけていて、小さなこどものようだった。またトタタタと戻ってきて、俺の膝上に乗ってくる。
「捨てれた!」
「うん、捨てられたね。偉い偉い」
彼女は笑わない。元気なときなら得意げな笑みを見せて、ご褒美に頭を撫でてやれば嬉しそうにするくせに。ぴたりと俺の胸に寄りかかり、甘えるくせに笑わない。ずっと、ずっと、笑えない。
「薫くん、だいすきっ」
声色だけが明るくて、相応しい顔は見せてくれないのだ。顔を見ても何も得られない。だから感触を求めている。彼女に触れて、抱きしめて。撫でて、さすって。つまんで、乗せて。
そのあまりの細さに、軽さに。俺はどうしていいかわからなくなる。彼女と一緒に生きるためにと取ったこの選択は、実は不正解ではないか。
「……お風呂、入ろっか」
「うんっ」
彼女のからだを一番感じられる行為に、俺は逃げた。交わるわけではない。肌を重ねたことは一度もない。しようという気も起きなかった。
こんなか弱いカラダと、したら。考えると、空想の彼女は死んでしまう。精神的にも肉体的にも耐えられるはずがない。だから甘くて優しい触れあいだけをする。くっついて、撫でて。未完成のまま終わり。完成形を想起させることさえ避けた。
シャンプーやボディソープは家に置いてきたから、香りがいつもと違ってた。彼女の髪と体を洗ってやって、上がれば拭いて乾かして。化粧水やクリームで保湿して。彼女の体まで人形にしてしまわないように。乾いた
同じホテルに三日以上泊まることはなく、俺らは転々として過ごした。家出から一週間経つ頃に県外へと出て、あるとき海のある町にやってきた。寒い寒い十二月のいつかのことだった。空は灰色の曇り模様。塩気を含んだ冷たい空気が肌を刺す。彼女の無邪気な声が、波の音と重なり遊んだ。
「うみー」
今日の彼女の服装は、全身真っ白だった。白のブラウスにスカートに、くるぶし丈の靴下とエナメルシューズ。上着は長めのコートで、腰から下の生地が裾にかけて広がるワンピース風の形になっていて可愛い。
お出かけするときに彼女に着せるのは、主にロリータ服だ。家から持ってきたものもあり、逃亡生活中に新たに買ったものもあり。
可愛い服を着せてヘアメイクもしてあげていれば、いつか笑ってくれるのではないかという醜い魂胆のもと、俺が選んだドレスたちだった。しかし最愛のお姫様は意地悪にも、今日も冷たく凛とした顔で歩いている。
「うみー」
言わなくたってわかるのに、彼女はそう言って浜辺でくるくると回った。コートの生地は重たいせいか、制服のスカートのように広がりはしなかった。黒い髪だけが潮風に揺れて、灰色の空をカラスのようにふわふわ飛んでいる。
くるくる回るバレリーナは、やがて塩水へとシューズを突っ込んだ。鞄は空に投げ捨てた。ぱしゃぱしゃと水飛沫を上げながら、ゆっくりと向こうへ進んでいく。
「桜子ちゃん、あんまり行ったら危ないよ。濡れるのもよくないし、こっちおいで」
「かおるくん、きて?」
振り返った彼女は大きな水たまりに佇んだまま、こちらに向かって両腕を広げた。俺は彼女に近づいて、冬の海へと侵略していく。真っ白い少女を抱きしめた。少女は向こう側に体重をかけた。軽かった。
「桜子ちゃん」
「もっと、あっちにいこう」
「駄目だよ。あっちに行ったら――」
「いったら、なに?」
なに、の答えは返せない。恐ろしすぎて口に出せない。コートは岩のように重さを増して、君を水底へと引きずり込むだろう。海へと沈んだ君は、地上の人魚姫になるんだ。息ができなくなって、いつか海の屑や藻塩となる。泡になって消えてしまう。
抱いていた体をそっと離して、水に濡れた小さな両の手を握った。黒い瞳は海面のように揺らいでいて、何かすれば泣かせられる気がした。いっそ塩水をぶっかけてやろうかと思った。彼女の涙と笑みに、それほどまでに
「桜子ちゃん、帰ろう」
「おうちには、かえらないんでしょ?」
「ホテルに、戻ろう」
「……かおるくんは。わたしがもっと、むこうにいったら。おいかけてきてくれる?」
「いいや、意地でも連れ戻す。自分から向こうに行くなんて、もうさせない。もう海には行かせない」
「……さくらこは、きてほしかった。いっしょに……いきたかった」
生を願うのと同じ音をして、彼女はまるきり反対のことを願った。比喩にしても、本当はずっとそう言っていた。彼女は俺と反対を願う。いつからかそうなった。異世界転生も、レモンの爆発も、海の向こうも。何もかもがそれを望んでいた。
彼女がずるずるとしゃがみこみ、体の半分が海に浸かってしまう。俺の太腿に抱きついて、呟いた。
「つれてって」
どちらに、とは聞けなかったから、俺は都合の良い解釈をした。抱き上げ、浜辺へと歩いていく。いつもより重たい彼女を抱え、乾いた砂の上を目指した。
「お靴、脱ごっか。このままじゃ冷えちゃうもんね」
「ん」
俺の靴も濡れているが、まあこちらはどうでもいい。足元くらいしか濡れていない俺と比べたら、彼女はそこらじゅうがびしょびしょだった。髪の毛が何本か頬に張り付いて、唇は寒そうに震えている。砂上にガラスの破片があるのが見えて、俺はまた彼女を抱えた。鞄を拾って石の段差があるところに来て、座らせる。
コートの裾の水気を絞った。べたべたの塩水が付いたから、今度クリーニングに出すべきだろう。靴下とエナメルシューズを脱がせて、ハンカチで足を拭った。冷たくなって赤みを帯びて、痛々しいような見た目をしてた。きっと海水で濡れた頬を撫で、その冷たさと固さをやわらげるように揉む。血の色は宿ってくれなくて、白い色をしたままだった。
「もう、いいよ」
「……わかった」
彼女に鞄をかけ、靴下とシューズを手に持たせる。ふぅ、とため息をついたあと、彼女をおぶった。お姫様抱っこは何度もしているはずなのに、あまりにも軽く感じられてしまって驚いた。骨しかないのではないかと疑って見やるも、いるのは痩せぎすの桜子ちゃんだった。俺のせいで痩せてしまった恋人だった。
「足、さ。そのままじゃ冷たいでしょ。俺のコートのポッケに突っ込んでなよ」
「きたないよ」
「桜子ちゃんは、どこも汚くない。全部が大好きで綺麗だ。たとえ泥にまみれても、血を流しても、いつでも好きでいる」
「……ほんと?」
「ああ」
彼女の左足の存在を手でまさぐって、掴むとポケットに入れた。次いで右も入れてやり、歩きだす。風が吹いていて寒かった。濡れた足が冷たかった。
「わたしも、すきだよ。かおるくん。いちばんだいすきだよ。ずっとずっとすきだよ」
「……ああ」
見上げると、広がるのは白っぽい灰色だった。冬。十二月。そういえば、姉ちゃんの誕生日がもう過ぎてしまったなぁ。いまさら気づいた。
家族と連絡は取っていなかった。全部を無視していた。桜子ちゃんを
そんな愚か者だったから、罰が当たったのだろう。だから彼女は、あんな酷い死に方をした。四度目の彼女の死は、二月のことだった。海に行った日から、ふたつの月が仲良く過ぎ去った頃だった。
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