第99話 狂って壊れて逃げていく

 九月一日の金曜日、俺らは変わらず引きこもりだった。彼女が自殺することはなく、俺らはなんでもない一日を過ごした。夕方のニュースで、他県のそれがしさんが自殺した、と告げられる。だから何だ、という感じだった。彼女以外はどうでもよかった。


 九月四日の月曜日、母さんがマンションにやってきた。六月以来の訪問だ。俺らの様子を見て、母さんは驚き呆れていた。


「薫、いったいどうしたの? こんなに痩せちゃって……。あちらにいるのは、もしかして恋人の……?」

「別に、なんでもない。ちょっと体調が悪いだけ。彼女も、最近具合が悪いんだ。でもただそれだけ。なんでもない。大丈夫」

「……大丈夫には、見えないわ。雪美とは会ってるの?」

「まあ、たまに? 姉貴も心配してたけど、本当にどうってことないんだって。大丈夫。……そっとしておいてくれたら、ちゃんと元気になれるから」


 俺は、ひどい嘘つきだった。



 九月の二十三日、二十四日。文化祭の日が過ぎ去った。彼女が楽しみにしていた文化祭デートは、またしてもできなかった。いつかできる日は来るだろうか。



 十月七日、土曜日。彼女と一緒にラノベを読んでいる。彼女が好む本とはタイプが違うが、まあ楽しんでくれているのだと思う。一度も笑わないけど。


「私も、異世界転生したいなぁ」

「転生したら、何になりたいの?」

「ざまぁ対象のヒロイン役。おバカな王子様と一緒になるのがいい。王子様は薫くんね。悪役令嬢から断罪されて、ふたりで一緒に処刑されちゃうの。いいでしょー?」

「……いいね。桜子ちゃんと一緒なら、俺はなんでもいいや」

「あ、薫くんが勇者で、私が魔王でもいいよ? 私は貴方に殺されてしまうの。貴方は私を一生忘れずに、私がつけた傷と一緒に、残りの人生を生きていく」

「……それは、あまり幸せな感じがしないな」


 今日の彼女の声色は、いつもより明るい。でも笑わない。気味が悪いくらいに、笑ってくれない。



 十月二十五日。たくさんの洋服とコスメが届いて、俺は桜子ちゃんと一緒に遊んでいた。


 動画サイトを参考に、彼女にヘアメイクをしてあげる。クラゲ柄のジャンパースカートを着せて、パニエも穿かせる。靴下とエナメルシューズを履かせたら、可愛いロリータスタイルの完成だ。


「桜子ちゃん、可愛いね。お人形さんみたい」

「……ありがとう、薫くん」


 彼女は鏡を見ても、ニコリともしない。お気に召さなかったらしい。俺は彼女の服を脱がし、別のものに着せ替える。濃いブルーの中華風ロリータ、真っ黒のゴシックロリータ、臙脂色のクラシックロリータ。いろいろ着せても、何を着せても、いくら褒めても、キスをしても、彼女はまったく笑わなかった。


「……ねえ、笑ってよ」


 彼女はわざとらしく口角を上げる。少しだけ、本当に少しだけ。ああ、違う。違う。こうじゃない。


「泣いて」


 彼女は困ったような顔をして、口角を少し上げ直す。……違う、違う、違う。


「笑えよ、泣けよ。なあ。……なんで、人形みたいなの」

「ごめんね」

「謝れとは、言ってない」


 彼女が笑わない。泣かない。ずっと心を閉ざしている。折れそうなほどに細い体を、強く強く抱きしめた。痛いよ、って泣けばいいのに、泣いてくれない。泣き虫な桜子ちゃんが、泣いてくれない。



 十一月五日、日曜日。姉貴が家にやってきた。


「薫、これはどういうこと?」

「ごめん。最近、あんまり掃除できてないんだ。今度やる」

「違う。そっちじゃない。……あんたと桜子ちゃんのことよ。なによ、その体。何を食べてたらそうなるの」

「炭水化物は毎日食べてる。ビタミンも摂ってる。大丈夫」

「そうは見えない。お母さんは、こんな様子を見ても放っておいてるの? バッカみたい。どうせ薫に嫌われるのが怖くて、あんたが拒絶したらそのままなんでしょ。もう。……わかった、お父さんにも言うから。こっちもまた今度、来るから。覚悟してなさい。あんたたち、本当に死にそうよ?」

「大丈夫。大丈夫だから」


 今日も桜子ちゃんは、ぼんやりとしたお人形さんのままだった。姉貴に対しても「こんにちは、雪美さん」「さようなら、雪美さん」としか言わなかった。もちろんのこと、泣きも笑いもしなかった。


 夜。いつもどおりに、彼女をお風呂へと入れる。髪や体を洗ってやって、浴槽のなかで抱き合った。


 保湿成分のたっぷり入った、ミルクの香りの白濁色。彼女の肌がすべすべになる。この入浴剤が、俺はけっこう好きだった。


「薫くん」

「なぁに、桜子ちゃん」

「ごめんね」

「桜子ちゃんは、綺麗だよ」

「ずっと笑えなくて、ごめんなさい。顔が動いてくれないの。ごめんね。不安だよね。……私は、貴方のことがとても好きだよ」

「俺も、君のことがとても好きだよ」


 やけに軽い愛だった。差があった。



 十一月二十二日……何があったのか、実はあまりよく覚えていない。


「薫縲繧ゅ≧家縺ォ帰縺」縺ヲ縺阪↑縺輔>縲縺ゅ↑縺溘?√%縺ョ縺セ縺セ縺倥c死繧薙〒縺励∪縺?o」

「縺ュ縺医?薫縲桜虛縺。繧?s縺ョ縺薙→縺ッ縲√o縺溘@縺面倒縺ソ縺ヲ縺翫>縺ヲ縺ゅ£繧九°繧……縺?縺九i縲√∪縺壹?軀治縺縺ヲ繧」

「帰縺」縺ヲ縺阪↑縺輔>縲薫縺母縺輔s繧姉縺輔s繧心配縺励※縺?k縲ゅb縺。繧阪s縲父縺輔s繧縺?」


 鬼が来た。桜子ちゃんを攫う鬼が来た。俺らを引き裂く魔の手が襲う。


 今となってはお役御免、かつては彼女が毎日使っていた包丁。がむしゃらに振り回す。鬼はどこかに逃げ去った。桜子ちゃんを起こす。逃げよう、桜子ちゃん。起きた? いいこだね。待っててね。


 眠たそうな彼女にコートを着せて、俺は旅行バッグを用意した。必要最低限のものとありったけの金を入れ、玄関へと運ぶ。大事なものだけ持って、ここから出よう。そう、だいじなもの。持ってきて、桜子ちゃん。


 彼女はノロノロとベッドから出て、いくつかのものを持ってきた。スマホ。財布。保険証。ピンク色のカーディガン。筆箱。ウサギのストラップ。桜のヘアピン。忘れ物はない? ――じゃ、行こう。


 ぽやぽやと半分眠っているような彼女の手を引いて、俺はマンションを出ていく。勢いと狂気とに突き動かされ、逃亡生活が幕を上げた。人間ふたりの鬼ごっこだった。

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