第98話 味噌汁と砂糖とレモンと

 六月二十一日。今日の天気は、ざあざあ雨。彼女の生理は終わって、ここ数日は落ち着いた日々を過ごしている。


 俺らは、外に出かけることがなくなった。必要なものはすべてネットショッピングで済ますようになった。


 窓を叩く雨音がうるさくて、彼女はずっと窓辺にいる。何が面白いのか、水滴をずっと眺めている。横顔は青い憂いを帯びて、美しくもあり脆くもある。


 今の彼女と出会ったのも、こんな雨の日のことだった。あの日の彼女は雨に濡れた透明な血を額から流して、ひとりぼっちで寂しそうにしていた。


「薫くん」


 ふと、彼女が呟く。ようやくこちらを振り返り、泣きそうな顔をした。


「私、なんでこんなことになっちゃったんだろう?」


 ……そんな理由、俺だって知りたいよ。



 ✿ ✿ ✿




 七月十一日。火曜日。俺にとっては、少しだけ特別な夏の日。


 彼女は今、キッチンで夕飯を作っていた。最近の彼女は食欲があまりないらしく、一日に三食をとることはない。俺の食事だけを作って、俺が食べるのをただ眺めているだけのことがしょっちゅうある。


 あんな口先だけの言葉がそんなにも大事だったのか、味噌汁は必ず毎日用意してくれていた。顆粒タイプの出来合いの出汁を使うこともあるけれど、昆布と鰹節から丁寧に出汁をとることもままあった。今日は後者の出汁を使って、ゆっくりとゆっくりと作っていた。


 透き通った綺麗な金色の出汁に、彼女の手の儚い青白さがよく映えている。無理をしているような姿は嫌いだったけれど、この光景は好きだった。彼女が料理をする姿を、愛していた。


 今日も彼女は夕飯を食べない。グラスに入れた水だけを飲み、愛おしげな顔で俺を見る。たまに瞳を潤ませ、たまに「あーん」をしてくれる。


 彼女が作るごはんは美味しいはずなのに、こういうとき、俺は味がよくわからなくなる。彼女は生きているだけでつらそうで、すぐに疲れてしまって、日に日にやつれていってしまって……もう、俺はどうしていいかわからなくなるのだ。


「薫くん、美味し?」

「うん、美味しいよ」


 まるで「美味しい」と言われることだけが生き甲斐かのように、彼女は毎日問うてきた。俺の答えは、いつでも同じだった。


 俺がごはんを食べ終えたあと、彼女はリビングでぼんやりとしていた。まだお風呂に入っていないのに、声を掛けると、床にこてんと転がってしまう。


「桜子ちゃん、お風呂は?」

「面倒くさい。疲れる」

「……俺と一緒に、入る?」

「うん、連れてって」


 ん、と彼女は両腕を伸ばした。掴んでくれということらしい。細い手首を引っ張ったら、もげてしまいそうで怖かった。だから俺は脇の下に腕を差し入れ、彼女をしっかりと抱きかかえた。


「力持ちですねぇ」


 彼女がクスクスと楽しそうに笑う。こんなふうに笑ってくれるのは、何日ぶりのことだろう。なぜか泣きそうになってしまったから、顔を見られないようにと抱きしめ続けた。


 彼女と一緒にお風呂に入るのは、実はこれが初めてだ。彼女が緩慢な動きで服を脱ぎ、体の華奢さとなめらかさを晒す。


「わぁ、薫くん。いい筋肉ですねー」

「好き?」

「うん、好きだよ。桜子は、薫くんの全部が大好きだよ」


 今日の入浴剤は、青林檎の香りの緑色。彼女の手が水をすくい、こぼしていく。子どものように、透明な緑をもてあそぶ。


 平気な顔をして、彼女はお湯のなかでも俺に抱きついた。今日の彼女は甘えただった。彼女はまた突然に泣いてしまう。いつものことだ。


「ごめんね、汚くて」

「……桜子ちゃんは、なんにも汚くない」


 彼女は自分を「汚い」と蔑んで、謝ってくることがよくあった。



 ✿ ✿ ✿



 七月二十二日、土曜日。もしも俺らが高校に通っていたら、今日からが夏休みだった。俺らにとっては、何も変わらない夏だった。


 七月二十五日、火曜日。彼女がとうとう一回もごはんを食べなかった。勧めても全部拒絶した。水だけを飲んでいた。


 それから彼女は、まともなごはんを食べなくなった。ちょっと食べてみても、トイレに駆け込んで吐いてしまった。そうするたびに泣いてしまうから、俺もだんだん勧められなくなっていった。彼女はつらそうにしながらも、俺のごはんは毎日作ってくれた。味噌汁も毎日作っていた。


 でも、俺もだんだんつらくなってきた。食べられない彼女が、俺のためだけにごはんを作ってくれる。作らせている。彼女の命を食べているみたいだった。


 彼女は固形物がほとんど食べられない。水分は飲める。砂糖は食べられる。アイスクリームは食べられる。


 彼女は器に砂糖を盛って、スプーンですくってジャリジャリと食べるようになった。栄養を摂らせるために、スポーツドリンクと野菜ジュースとビタミンウォーターを箱買いした。そのままでは味が濃すぎて飲めないと言うので、水で薄めて飲んでいた。他にはアイスクリームだけは食べられたので、業務用の2リットルパックを常備した。


 彼女はそれらで、命を繋いだ。俺にごはんを作るのは頑張るくせに、自分はそんな食事しかしなかった。



 ✿ ✿ ✿



 八月四日。俺がとうとう耐えられなくなった。


 痩せた彼女がふらつきながら、味噌汁を作っている。綺麗な出汁をとっている。彼女は最近、うまく体が動かせないらしい。よく包丁で指を切ってしまった。よく火傷してしまった。今もまた、熱い鍋肌に触りそうになっていた。


「――桜子ちゃんっ!」


 後ろから彼女を抱きしめた。怪我させないように、抱き寄せた。そばで見守るだけなんて、もう無理だった。


「……薫、くん? どうした、の?」


 保湿クリームやリップクリームで誤魔化しても、彼女の唇は健康なときより乾いている。色を悪くして、やわらかさを失っている。


「もう、いいよ。桜子ちゃん」

「なにが? なにが、もういいの?」


 本当にわからないというように、彼女はきょとんと首を傾げる。もう限界なんだ。とっくに駄目になっていた。俺は絆創膏だらけの手に触れ、首を振る。終わりにしよう。


「もう、料理しなくていい。もう無理しなくていい。無駄に動かないでいい。安静にして。……倒れそうで、毎日不安でしかない」

「……お味噌汁、は?」

「作らなくていい。大丈夫。味噌汁なんて飲まなくても、俺は生きていけるから」


 彼女が目を見開き、ぱちぱちと瞬きした。何かを待っているように、数秒黙った。俺は何も言わなかった。彼女が唇を引き結び、開く。


「そ……っか。そっか。そうだよね。いらない、よね。ごめんなさい、気づけなくて。……今日で、最後にします」


 彼女は笑って、涙をあふれさせた。胸がえぐられるように痛んだ。彼女は今までで一番ゆっくりとした動きで、俺のためだけの味噌汁を作り上げた。


「はい、どうぞ。薫くん」

「いただきます、桜子ちゃん」


 彼女はいつもの愛おしげな瞳で俺を見た。焼きつけるように、じっと見ていた。


「薫くん。美味し?」

「うん、美味しいよ」


 はらはらと涙をこぼした。良かった、と嬉しそうに笑んだ。


「薫くん。ひとくちだけ、私も飲んでみてもいい?」

「うん、いいよ」


 彼女がスプーンで味噌汁をすくって、少量の水と混ぜる。マグカップをまるで神具のように恭しく持ち上げ、ひとくちの薄い味噌汁を飲んだ。


「涙と違いがわかんない」


 言って、眦ににじむ雫を拭った。濡れた指には、絆創膏が巻かれてた。



 ✿ ✿ ✿



 彼女は料理を作らなくなり、抜け殻のようになった。泣かなくなった。笑わなくなった。


 俺も彼女の真似をして、砂糖をそのまま食べてみた。あまり美味しいと思えなくて、氷砂糖を買ってみた。こっちのほうがマシだった。


 俺はネットでいろんな食材を注文してみた。でもだんだんと選ぶのも面倒になって、パウチのゼリーやジュースばかり買うようになった。


 八月十四日、家にひとつの段ボール箱が届いた。


「何これ」

「何だろう」

「わかんないの?」

「レモンのはずなんだけど……あれ? こんなに買ったっけな?」


 いつかのレモン哀歌を思い出し、気まぐれに買ってみたレモンの実。ひとつだけ注文したつもりが、わんさかと入っていた。なんと二十個も買っていた。どんな間違え方をしたのだろう。


「どうすんの、これ。私はたぶん食べられないよ」

「うん、わかってる。俺がちゃんと食べるよ。桜子ちゃんも、食べたかったら言ってね。あげるから」

「食べないと思うけどね」


 彼女がキッチンへと歩き、グラスに注いだ野菜ジュースを水で薄める。彼女は本当に痩せてしまった。体重は怖くて量っていないのだけれど、明らかに軽くなっていた。



 八月十五日。俺らは一緒にテレビを見ていた。終戦の日ということもあって、画面に映っているのは戦争番組だ。彼女は砂糖をジャリジャリ食べて、俺は氷砂糖を舐めていた。おかしな恋人だった。切り分けただけで手をつけていない黄色いレモンも、テーブルの上に載っている。


「悲惨だね、戦争って」

「そうだね」

「もしこの時代に生まれてたら、薫くんも兵隊さんになっちゃったのかな」

「たぶん、そうだろうね。若いし健康だし、除外される理由がない」

「……そっか」


 彼女がおもむろにレモンに手を伸ばし、かじった。途端に顔をしかめる。


「苦い」

「あら、苦いんだ」


 今度はレモンの上に砂糖をまぶして、また噛んだ。唇に砂糖がついて、弾けた果汁が頬に飛び散った。目にも入ってしまったのか、彼女が痛そうに瞬きをする。


「あ」


 彼女の声と重なるように、爆発音がテレビから聞こえた。画面のなかは火の海だった。レモンの皮と実との境目の白い部分に、彼女が深く歯を入れる。ひときれの果実を皮から剥がして、口のなかに包み込んだ。苦い顔をして噛みしめる。水とともに飲み込んだあと、呟いた。


「私たちのお城も、爆発してしまえばいいのに。そう思わない? ……ここに、レモンがあるんだから」


 彼女というひとは、ときどきどこか難解で、俺には一生捕まえられない気がする。そう思いつつ、そうだね、と俺は頷いた。


 おもむろに齧ったレモンは酸っぱく苦く、あまり美味しいと思えない。ただ、これを噛んでいれば俺も「正常」になれるかと期待して、それからもレモンを注文し続けた。我が家にはいつもレモンがあった。

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