第97話 つきまとう影と彼女の血

 六月六日、火曜日。彼女の唸り声で目が覚めた。


「桜子、ちゃん? どうした?!」

「……おなか、いたい。おもい……」

「お腹痛い? どうしよ、トイレ? トイレ行けばいい? それとも病院?」

「んん、だいじょぶ。……ごめん、たぶん、シーツ汚しちゃった。……生理、だと思う。あとで、洗わないと……」

「せーり? ……ああ、生理か」


 一ヶ月以上遅れていたらしいけど、ようやくか。無事に来たことは良かったけど、こんな苦しそうなのは全然良くない。額に脂汗がにじんで、眉間に深い皺ができている。どうすればいいのだろう。


「なにを、すればいい? 手伝えばいい?」

「……下着が、必要。あと、トイレ。行かないと」

「オッケー、わかった。じゃあ、まずトイレに行こう。そのあと、俺が下着持ってくる」

「……ん」


 ぐったりとして足元がふらついている彼女を支え、トイレへと連れていく。ベッドから出るとき、たしかに血の匂いが漂った。


「これでいい?」

「ん、ありがと……。もう、だいじょうぶ。薫くんは、出てていいよ」

「ああ、わかった。……鎮痛剤、あったほうがいいよね。あと鉄分。急いで買ってくる」

「ん……」


 彼女に下着を手渡したあと、俺は財布を持って近所のドラッグストアへと駆けた。生理痛に効くと謳っている薬と鉄分補給のサプリをさっさと買って、家へと戻る。


「ただいま、桜子ちゃん。――えっと、開けるね?」


 まだトイレにいるかと思い、ノックしてから開けてみた。しかし彼女はいなかった。寝室に戻ってみたが、そこにもいない。


 にわかに不安になる。まさかあの状態で家出なんかはしないと思うけれど……じゃあ、いったいどこに?


「桜子ちゃん、どこ?」


 ダメもとでベッドの布団をめくってみたが、やはりいない。が、ひとつ発見もあった。シーツがなくなっていた。


「桜子ちゃん?」


 洗面室の扉を開けると、水が流れる音が聞こえた。でも、それ以外はやけに静かだった。ここにもいない。隣のお風呂場に影が見え、扉をそーっと開けようとした。ひっかかる。彼女の足が見えた。


「桜子ちゃん!?」


 お風呂場の床に、彼女が倒れていた。シャワーの水が無遠慮に、彼女の顔を濡らし続けている。シーツや下着を洗っていたのだろう、一緒にぐしゃりとなっていた。中途半端に開いた隙間に体を滑らせ、中へと入る。


「桜子ちゃん! 桜子ちゃん!」


 シャワーを止めて、彼女を抱きかかえる。服の大部分が濡れてしまっていて、ひんやり冷たくなっていた。息はしている。脈もある。でも、目を開けてくれない。


「桜子ちゃん……」


 あまりの痛みに気絶したのか。それとも眠っているのか。貧血だろうか。


「ん……」


 小さく声を上げ、彼女が薄く目を開く。「かおる、くん」と呼んだ。


「桜子ちゃん、どうした? 大丈夫? 病院行く?」

「んーん……だいじょうぶ。洗い終わって、シャワー止めようとしたら……クラっときちゃって。いつの、間にか……いつの間に、か」

「桜子ちゃん?」


 一瞬息を止めたあと、彼女は顔をくしゃりと歪めた。呼吸が、浅く、早くなる。涙をこぼし、俺の服を強く握った。


「桜子、ちゃん?」

「またっ、また……意識、なくなっちゃった。どうしよう、どうしよう……また、私……私……っ」


 彼女はクラスメイトに襲われた日のことを、脱がされたところまでしか覚えていない。実際、最後までされたのかはわからない。ただ彼女にとっては、意識がない間に暴力を振るわれたかもしれないという、そのことがきっと恐怖なのだ。気絶すると、あのときを思い出してしまう。


 もしかしたら、単に記憶がないだけかもしれない。本当は意識があったのに、一時的に忘れていているだけかもしれない。その可能性だって酷だ。いつか記憶が戻るかもしれないという、別の恐怖まで彼女に抱かせる。


 俺は彼女の顔をこちらに向かせ、視線を合わせた。ゆっくりはっきり、彼女に言葉を掛けていく。


「桜子ちゃん、大丈夫だ。今日は、何も起きていない。俺が出かけてた間は鍵をかけてたから、家には君しかいなかった。今も、ここにいるのは俺だけだ。怖いことは起きてない。ただ、きっと貧血で倒れちゃっただけ」

「……ほんと、に? ほんとに、なにも起きてない? 私……変なこと、されてない?」

「ああ、大丈夫だ。服を着替えて、鎮痛剤を飲もう。……服、持ってくるから。待ってて」


 彼女をお風呂場の壁に寄りかからせ、俺は彼女の着替えを取りにいった。俺の服も少し濡れているけれど、今は気にしている場合ではない。


「下着は、変える?」

「いい」

「わかった」


 彼女のシャツを脱がし、タオルで水気を拭う。下着はそのままにして、ワンピースタイプのロングTシャツを着させた。彼女を支えて立ち上がらせ、リビングのソファへと座らせる。


「――はい、水と薬。飲んで」

「飲めない。飲まして?」

「……わかった」


 コップの水と薬を自分の口に入れ、俺は彼女に口移しをした。こくりと飲み込んだあと、彼女はまた涙をこぼす。


「今度は、なに? どうした?」

「……ごめんなさい」

「なにが」

「いっぱい迷惑かけて、ごめんなさい。他の、人に……体を許してしまって、ごめんなさい。生きててごめんなさい。こんな愚図なのに、まだ死ねなくてごめんなさい。私のせいで嫌な人生にして、ごめんなさい。生まれてきて――」

「桜子ちゃん。突然どうした? ……俺、そんなこと謝られたくない」


 おかあさん、と呟いて、彼女は手の甲で涙を拭った。クッションに顔をうずめて、静かになる。途中から、彼女には俺が見えていなかったらしい。


 彼女は眠ったようだから、俺はお風呂場へと戻る。シーツと下着を手に取って、絞った。血の汚れはもう落ちたらしい。洗濯籠に入れておく。


 俺もソファの上に行って、ダラダラとスマホで動画を見たりゲームをしたりとした。今は数学の授業をやっている頃だなぁ、などと考えながら、時間を消費していく。


 彼女が起きたのは、十一時くらいのことだった。


「……薫くん」

「ああ、桜子ちゃん。起きた?」

「ごめんなさい。寝てしまって。……さっきより、良くなりました」

「そう、それは良かった」

「汚くてごめんなさい」

「何が汚いって?」

「綺麗な清純派じゃなくて……他の男にヤられたような、汚い女でごめんなさい。自分のこともまともにできない、こんな女でごめんなさい。……服もシーツも、汚しちゃった。気持ち悪いよね。ごめんね」

「……」


 桜子ちゃんは、また泣いていた。なんと言ったらいいかわからなかった。


「ごはん、作るね。薫くんのことだから、まだ食べてないんでしょ?」


 覚束ない足で、彼女はキッチンへと向かった。ますますどうしたらいいかわからなくなった。


 ペペロンチーノとサラダとスープ。彼女が作ってきたのは、ひとり分だけだった。


「はい、どうぞ」

「桜子ちゃんのは?」

「いい。お腹空いてない。……いらない」

「そっ、か。わかった。食べれるときに、何か食べてね」

「うん。ごめん、また休む」

「――どこいくの?」

「寝室」


 彼女は手短に返し、立ち去った。俺は急ぎ目でごはんを食べて彼女のあとを追いかける。


 寝室に入ると、彼女は床に敷いたゴミ袋の上に横たわっていた。頭の下にはクッションを置いているから、倒れたのではなく自らこの形を選んだのだろう。すやすやと眠る彼女の髪を撫で、考える。


 さっき俺が家を出た間に、彼女はひとりで倒れていた。水たまり程度の浅さでも、人は溺れ死ぬことがあると聞く。もしかしたら……俺がいない間に、彼女が死んでしまっていた可能性もあったのではないか。


 倒れて濡れて、冷たくなっていた。もしも、もっと冷たくなっていたら。服だけでなく、全部が冷え切ってしまっていたら。……考えると、怖くなる。


 誰だって、いつかは死ぬ。明日かもしれないし、一時間後かもしれない。それは前々からわかっていたことだけれど、彼女のこととなると特に心配なのだ。


 彼女が来年の今頃も生きている確率は、たったの1パーセント。その数字が重くのしかかる。俺は、このか弱く愛らしい生き物を、守り抜くことができるだろうか。


 毛布を引っ張り出してきて、俺は彼女の隣に寝転んだ。一緒にしばらく眠ることにする。寝ている間に火事なんかが起きる可能性だってあるけれど、彼女と一緒に死ねるなら、別にそれでいいやと思えた。





 起きると、あたりは暗くなりつつあった。彼女はまだ眠っていた。そっと抜け出して、部屋の明かりを点けにいく。気配のせいか明るさのせいか、彼女が身じろぎをした。起こしてしまった。


「……おはよ、薫くん」

「おはよ、桜子ちゃん」

「私の隣で、寝てた?」

「うん、寝てたよ」

「なんで?」

「……なんで、って?」

「血、つけちゃうのが嫌だから。汚しちゃったら悪いから、床で寝てたのに。なんで、来たの? ……今回、量多いから不安なんだけど」


 生理だからなのか、今日の彼女は機嫌が悪い。ずっとイライラしているように見える。そのせいか、俺もどこか苛ついている。良くないな、と思った。


 一緒に暮らしていれば、いろんな面が見えてくる。今まで知らなかった顔を見る。体調が悪いとき、弱っているとき。そんな隠したい姿さえバレてしまう。俺だって、そのうち嫌な面を彼女に晒すのだろう。ひとつ屋根の下で暮らすとは、そういうことだ。


 慣れないといけない。こうしてギスギスしてしまうことにも、彼女をうざったく思う自分にも。失望してはいけない。こんなときだって、あって当然なのだ。些細な不和は我慢して、乗り越えなくては。


「俺は別に、桜子ちゃんの血なんて、ついても見ても気にしない。慣れてるから」

「……なに、に?」

「なに、って……――あ」


 彼女が訝しむように、眉間に皺を寄せる。やらかした、と一拍遅れて気がついた。


 桜子ちゃんの血に、慣れている。見るのも触れるのも、もう慣れた。二回目、自殺した彼女の残した血の痕を見た。三回目、滅多刺しにされた彼女の血に触れた。俺にとっては、そうだった。


 しかし、今の彼女にとっては違う。出会った日に、額から流れるのを見せたきり、「血」そのものを俺に見せたことはなかった。彼女が出血することは、今の俺らにとってはイレギュラーのはずなのだ。


 それに俺だって、本当は慣れてはいけないのだと思う。彼女の血は、俺が彼女を守れなかった証拠。それを見ることに慣れてはいけない。見るたび触れるたび、罪悪感を抱かなければいけない。まあ、生理の血ではそんなこと思わなくていいはずだけど。


 なにはともあれ、今は誤魔化さなくては。彼女に疑われてはいけない。俺らの過去を察せられてはいけない。前の彼女は、過去の話のせいで不安になってしまったのだから。


「いや、あのさ。俺……俺さ、昔、よく怪我したから。通学路で刺されたり、部活仲間に切られたり。あとはっ、ほら、ラブレターにカッターの刃、チョコレートに鉛筆削りの刃。あはは……っ、そういうのが、あったから。いっぱい血を見てきたから、もう慣れた。ホラー映画も、よく観るし」

「だとしても、自分の血と他人の血は違うでしょうに。血で感染する病気だってあるんだよ?」

「たしかに、それはそう。でも、本当に俺は大丈夫。病気や怪我をしてほしいわけじゃないけど、血を見せちゃったとしても、桜子ちゃんは罪悪感を覚えなくていい」

「……そう、わかった」


 彼女はまだ納得していないような顔で頷いて、しばらく黙った。トイレに行って戻ってきたあと、ああ、と思い出したように呟く。


「私、なんか伝染うつされてたらどうしよう。……梅毒とか」


 彼女は、クラスメイトに襲われた。最後までしたかどうかは置いておいて、何らかの性的な接触はおそらくあった。俺はこれから、そんな傷を負った彼女とともに生きないといけない。彼女の言葉の節々から顔を出す男を憎むことは許されても、彼女に八つ当たりをしてはいけない。愛さないと、いけない。


「……もうちょっと元気になって、行く気になったら、検査しよう。大丈夫、俺が全部支えるから」

「ありがとう、薫くん。大好き」


 かすみのようなおぼろげな笑みを見せて、彼女は俺を弱々しく抱きしめた。彼女の言葉を安っぽく感じてしまった、自分に対して吐き気がした。

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