第96話 堕落の始まりモラトリアム
五月七日、俺の十七歳の誕生日。ゴールデンウィークの最終日。
「お誕生日おめでとう、薫くん!」
「ありがと、桜子ちゃん」
「はい、あーん」
「ん」
今日は、彼女がチョコレートケーキを作ってくれた。俺の好物だと知ってのことだ。わざわざスポンジから焼いてくれて、飾りつけも丁寧で、彼女らしい真面目な感じがするケーキだった。彼女が自ら食べさせてくれて、もちろんめちゃくちゃ美味しかった。
この日も彼女は取り繕ったような笑顔をして、元気はどこか欠けていた。
五月八日の月曜日。登校日なのに、彼女がベッドから出ようとしない。布団を被ってもぞもぞとしている。
「どうしたの? 桜子ちゃん。体調悪い?」
「頭が痛いの」
「……熱、測ろっか」
熱はなかったけど、彼女は学校に行けないようだった。俺も一緒に休むことにした。彼女の目は虚ろで、ベッドの上で抜け殻みたいになっていた。
「五月病かなぁ」
と、声色だけやけに明るく呟いた。それから彼女は、学校に行かなくなった。俺は心配しつつも彼女を置いて、学校に通った。毎日理由を探っても、なかなか知ることができなかった。
週末、ドラッグストアで買い物に行くときにだけ、彼女は家の外へと出る。食べたいお菓子はあるようで、カゴにぽいぽいと入れてくる。言うまでもなく全部購入する。トイレ行ってくる、と一時的に離れることはあったが、それ以外はずっと一緒にいた。
彼女は、中間考査のときにも学校に来なかった。もう行く気がないようだった。担任の唐田先生から電話はあったが、進展がある話ができたのではなさそうだ。彼女はずっとぼんやりとしている。
――五月三十日。俺はようやく理由を捕まえた。意識して見たわけではない、でもゴミ箱から見つけてしまった。使用済みの妊娠検査薬、結果は陰性。
彼女は、今はお風呂に入っている。出てきたら話そう。語気を荒らげないよう気をつけよう。テーブルの上にそれを置き、彼女を待つ。
「薫くん、お風呂――」
「桜子ちゃん、これ。なに?」
彼女の顔から、サーッと血の気が引いた。見てわかるほどに、はっきりと青ざめた。できるだけ優しい色をした声で、俺は彼女に尋ねていく。
「いつ?」
「い、いつ、とは」
「いつ、誰と、どこで。……答えて」
「……わかんない。わかんない、本当に、わかんないの」
「わかんないなら検査なんてしないでしょ。嘘つかないで」
「う、嘘じゃないもんっ。本当に……き、記憶が、途中までしかないの。ご、ごめっ、ごめん、ね……」
彼女がぽろぽろと涙をこぼした。顔をぐしゃりと歪め、ようやくひどく悲しそうな顔をした。俺は彼女に歩み寄り、抱きしめる。
「途中まででもいい。誰だ?」
「がっこ、学校の、クラスっ、の」
「クラスの、誰? ひとり? 複数?」
「ひ、ひとり。……た、たかとう。
名前も顔も知っている。絶対に忘れるはずがない。二回目の彼女に暴行した、男子生徒のうちのひとりだった。俺の隣のクラスに、兄の
「そいつに、襲われたの?」
「……ごめん、なさい。ぬ、脱がされた、とこまでしか、覚えてない、の。とちゅう、から、わかんない。たぶん、意識。なくなっ、ちゃって」
「なんか変なの飲まされたりした? 他は覚えてることある?」
「わかんな、い。ごめんなさい……ごめんなさい……」
彼女の足がガクリと崩れ、体重が俺にのしかかる。一気に問い詰めすぎたかもしれない。反省だ。過去の彼女にもこういうことはあった。もう何度目かにもなるはずだ。
なのに、今回もまた胸がひどく痛む。ひどくショックを受けている。「生理、遅れてるの」と彼女が呟いた。
「病院、行こうか」
「やだ。こわい」
「でも――」
「病院はっ、行かない。思い出したくない、知りたくない……」
泣きじゃくる彼女に、強制することはできなかった。余計に苦しめることは避けたい。彼女が嫌がることはさせたくない。……でも、と思うことはある。このまま泣き寝入りするのか? それでいいのか? 今の彼女は生きているのに、犯人を裁くことを諦めるのか?
「休めば、大丈夫になると思うの。いつか平気になると思うの。だから……今だけ、学校を休むの、許してください」
悲痛な叫びに、是以外の答えを返すことなどできただろうか。俺は頷き、彼女の涙を唇ですくった。
「じゃあ、俺もしばらく休む。桜子ちゃんと一緒にいる」
「でも、そんなことしたら、留年――」
「いいよ、一年くらい。そうだよ、別にいいんだよ。何度も十三ヶ月を戻してるんだから、一年を捨てるくらいどうってことない」
「十三……って、なんのこと?」
「んーん、なんでもない。前読んだラノベが、十三ヶ月でループしてただけだよ」
彼女がメソメソ泣いて声を枯らして、キレイな音にノイズが入る。彼女をこんなふうに悲しませるやつらを、悲しませたやつらを、俺はいったいどうするべきだろう。いっそ殺してしまおうか、と。そんな思いが湧いて出たのは、このときだった。
✿ ✿ ✿
六月五日。いつもの報告連絡よりも早い時間に、母さんが電話をかけてきた。
「もしもし」
『薫。あなた学校に行ってないんですってね? いったい何をしているの』
「ごめん。俺、いま学校行けない」
『どうしてよ。……もしかして。また何かあったの?』
俺に何かあったわけじゃない。彼女がつらい目に遭ったんだ。でも、そんな理由で登校拒否を許されるはずがない。だから……嘘のような言葉を吐いた。
「あのひとが、いる。学校に。――青先輩」
『中学のときの、あの女?』
「そう。去年転校してきて、連絡しつこかったりして、今まで我慢してきたんだけど……なんか、突然。駄目になっちゃった。弱くてごめん」
実際にしんどいときもあったし、完全な嘘ではない。言い訳に使った青柳に対して、申し訳なさはまったく抱かなかった。
『あなたって子は、また母さんに内緒事してたのね。――なら、また転校しましょうか。明日そっちに行くわ。話しましょう』
「いや、来ないで。頼むから」
『……薫?』
きっとひどく心配させている。わかっている。でも、嫌だった。桜子ちゃんと引き裂かれるのが嫌だった。
もしも本当の原因が彼女だとバレたら、母さんは俺らを離ればなれにする。親としては、それが正しいのかもしれない。でも、俺はどうしても彼女と一緒に生きたい。彼女のことを守りたい。
俺がループしてまで彼女とともに生きる未来を望んでいることを、他の人間はわかってくれないだろう。法螺吹きだと思われて終わり。そのうちオオカミ少年扱いされる。そんなもの、だと思う。
「俺、今から酷いこと言う」
『……なに?』
「母さんの顔を見ると、つらくなる。今まで迷惑かけてきたって、申し訳ないなって、思う。母さんに心配されるたび、嫌な事件のこと思い出す。ごめん。母さんに心配されると、いろんなことフラッシュバックして、すごく苦しい。本当に、ごめん。電話なら耐えられるけど、会いたくない。……ごめん」
『……』
電話越しに聞こえたのは、息を呑む音と涙声。これも、完全な嘘ではない。母さんに心配されるのがつらい。それは本当だった。
『ごめんね……薫』
「そうやって泣かれると、また俺も苦しくなるんだってば」
ああ、なんだってこんな酷いことを言わなきゃいけないんだ。母さんのことだって大切なのに。大事な家族なのに。……どうして俺は、こんなにもうまくやれないんだろう。桜子ちゃんのことと、家族との関係を、どうして両立できないのだろう。
こんな俺で、いつか彼女を幸せにできるのだろうか。生きていたとして、結婚なんてできるだろうか。不安で押し潰されそうになる。
あと十ヶ月、俺は彼女を守り抜かないといけない。99パーセントの確率で死んでしまう哀れな彼女を、来年の四月まで生きさせることはできるだろうか。
「一年間、休学したい。手続きのために、今度会おう。そのときは、ちゃんと頑張って、母さんと話すよ」
『一年間、休学したら……そしたら、また母さんと普通に会ってくれる? 笑って話してくれる?』
「ああ。……そうなれるように、頑張る。約束する」
『わかった。父さんとも話してみるわ。……一旦切るわね。体には気をつけて。何か頼りたいことがあったら、いつでも連絡して』
「うん、ありがとう。母さん。今は、会えないけど……俺は母さんのこと、ちゃんと大切に思ってる。じゃあね」
電話を切り、ふっとため息をつく。彼女のいる寝室へと戻った。
「桜子ちゃん? 起きてる?」
「……うん、起きてる。よ」
横になっている彼女が、くるりと振り向く。今日は体がだるいらしい。ずっとベッドのなかにいる。
「さっき、母さんと電話した。一年間、休学しよう」
「休学? ……私、不登校じゃなくなるの? 休んでて良くなる?」
「うん、そう。一年間休んで、そのあとまた高校生に戻ろう。一年遅れちゃうけど、このくらいどうってことない。長い人生のなかで、ほんの少しの間だよ。……頑張って、生き延びよう」
「うん、うん……。そういえばさ。うちのクラス、これで不登校の子、みんないなくなることになるね」
「ん? どういうこと?」
「もうひとり不登校の子がいたんだけど……その子、転校することになったんだって。唐田先生から聞いた」
「ああ、そうなんだ。へえ。ちなみに、その子はなんで不登校だったの? なんか知ってる?」
「入学式の日、露出狂が出たでしょ? そのとき、その……酷い目に遭ったみたいで」
「――えっ?」
ここで出てくるとは予想外だった内容に、思わず固まってしまった。何も知らない桜子ちゃんは、きょとんとしている。
入学式の日、露出狂が出た。それは今回の世界でも同じだった。
思えば学校からの連絡メールの文面は、毎回毎回同じだった。桜子ちゃんが遭遇したときも、そうでないときも、内容は変わらなかった。
今回、彼女は露出狂に遭遇していない。それで俺は安堵していた。しかし俺はそいつが現れることを知りながら、通報などはしなかった。ただ桜子ちゃんのことしか考えていなかった。
――桜子ちゃんの代わりに、他の女の子が犠牲になった? ただの噂なのか、実際に何か酷いことがあったのかはわからないけれど……前の桜子ちゃんのような苦しみに苛まれた子を、他に作ってしまった。ということなのか?
可能性がなかったわけではない。でも気づいていなかった。俺が行動を変えることで、他の無関係な人間に不幸をもたらすかもしれないということに。
「薫くん? どうしたの?」
「いや、ああ。なんでもないよ。そっか、その子も大変だったんだね」
「うん。……もし、ふたりとも学校行けるようになってたら、仲良くなれたかな。襲われた者同士――って言っちゃ、あんまり穏やかじゃないけど」
「それは……もしかしたら、そうかもしれないね」
襲われようとそうじゃなかろうと、君には友だちができないよ。なんて、とても言えなかった。彼女には俺しかいない。それは俺の胸の内だけに秘めておく、ことにした。
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